※フォドラじゃない
シルヴァンにとって恋とは実在しないものだった。そして仮にそれが本当にあったとして、必ずしも結婚とは結び付かないことを彼は知っていた。
貴族の家に次男坊として生まれた時点で、彼の命運は定まったも同然だった。ふさわしい格の家の令嬢を娶って子を為し、血を繋ぐ。それが彼にとっての一番大きな責務であり生まれた意味だった。もちろんそれが最大の優先事項なだけで、他にもやらなければならないことは山積みだった。例えば他の家の子息と仲よくなること。シルヴァンは周囲の子どもたちよりも数年早く生まれていたから、自然と彼らは兄のように――もちろん本当の兄にはなれなかったが――シルヴァンを慕った。もちろんこれはシルヴァンがそうなるように振舞った結果でもあった。彼自身は血の繋がった兄とは上手くいかなかったので、兄にしてほしかった(かつ、してもらえなかった)ことをほとんどそのまま実行した。賢く人の機微に敏感だったシルヴァンは親が自分に期待した立ち位置を理解していて、至極あっさりとその位置を占めることに成功した。……予想外だったのは、打算づくでやっていた振舞いに感情が伴うようになったことくらいだろうか。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエは本人が思うよりずっと子どもらしい子どもであり、冷血になれない、情に篤い人間だった。閑話休題。
一般的に、初恋は叶わないものとされる。それは初恋というものが本当は恋に数えられないような気持ちだからだとか、その対象になるのが年齢差のある人間であることが多いとか、色々理由は挙げられるだろう。シルヴァン少年の場合はそのどちらでもなかった。
十歳の時だった。一番遅く生まれた幼馴染に誘われ、彼の実家の宝物庫でかくれんぼをした。三年遅く生まれた彼らに比べてシルヴァンはいくぶん大人びていたが、大人たちに大目玉を喰らうことより遊びの楽しさを優先する程度には子どもだった。そしてフラルダリウスの誇る宝物たち、絵画や彫刻や武具の数々が並ぶ薄暗い蔵の中で、彼は出会ってしまった。
だれ、と声が出た。
女は答えなかった。
そこで初めてシルヴァンは、彼女が人間ではないことに気づいた。盛大なひとりごとを言ってしまったことがわかり、シルヴァン少年はまだ丸みの残る頬を染めた。それでも目が離せなかった。絵だとわかっていて、話しかけても答えてくれないのもわかったうえで、その瞳に見とれた。ただただ彼女のいる額縁の前に立ち尽くした。
――――きれいだなあ、と思った。子どもの語彙力ではそれが精一杯だった。
やがて年下の幼馴染が隣で大泣きし始めるまで、彼はその場から動けなかった。黙ってそのひとの姿を目に焼き付けていた。やがて駄々をこね始めた幼馴染の手を引いて、彼は出口へ爪先を向けた。……不意に視線を感じて、一度だけ振り返った。絵の女は相変わらず、何の表情も浮かばない目でこちらを見つめていた。
さよなら、とシルヴァンは心の中で手を振った。また来ます、とは言えなかった。それきりだ。それっきり、シルヴァンは彼女と会えていない。
言葉にすればたったそれだけの出来事だった。けれどそれは紛れもなく、シルヴァンにとって初めての、そして最後になるかもしれない恋だったのだ。
〇〇〇
初恋の人の面影を別の誰かに求める、というのもよくある話である。しかもシルヴァンのそれは、とてもじゃないが誰かに告白できるような恋ではなかった。
恋愛を伴わなくても結婚はできる。でも、家の決めた婚約者を愛せる自信がシルヴァンにはなかった。……いや、正確には愛しているふりならできるだろう、とは思っていた。本音を隠して笑うのもずいぶん上達したし――特に親しい相手、例えば幼馴染たちには見破られていることに彼は気づいていなかった――、いい夫のふりも、いい父親のふりもきっとできるだろうと驕っていた。
それでも諦めきれなかった。初恋を捧げた相手はシルヴァンを愛してはくれなかったが、彼女に似た相手ならどうだろう。紺色の髪と瞳の生身の女。もしも、彼女の面影のある誰かが自分を愛してくれたなら、――――あるいは、こっぴどく振ってくれたなら。シルヴァンにとって誤算だったのは、自分が女性たちにとって自己評価よりもずっと魅力的な人間だったこと、そしてシルヴァンが彼女たちの誰にも本気になれなかったことだった。散々浮名を流しながら、シルヴァンは静かに絶望した。いつの間にか、自分の心を偽装して生きていく自信を彼はすっかり失っていた。
それでも時間は止まってくれなかった。もちろん、巻き戻ってもくれなかった。
出奔した兄の代わりにシルヴァンは家を継ぐ羽目になっていたし、婚約も成立した。着々と婚儀の準備が進むにつれ、少しずつ食が細っていった。……不幸なことに周囲の誰も彼がやつれているとは思わず、ただ精悍になったとか、魅力が増したとか言って喜ぶばかりだった。いちばん正確に彼の心情を推し量ったのは幼馴染――――初恋の彼女とシルヴァンが別れるきっかけを作った彼だけであったが、それでもシルヴァンが微笑むと黙り込んでしまった。彼は誰よりも近い位置にいたけれど、それでも無遠慮にお互いの心に踏み込むには障害――例えば家の立場だとか、領地の間の物理的な距離だとか――が山積みだった。
いよいよシルヴァンは追い詰められていた。そしてここにきてようやく、彼にも自分の望みがわかった。俺はこの家から逃げたかったんだ、他の誰でもない俺を、ただのシルヴァンを誰かに愛してほしかったんだと。……灯台でもランタンでも、光源に近いある部分は暗く見えるものだ。だからシルヴァンは多くを見落としていたのだが、見えない以上はないものと同じだった。少なくとも、彼にとっては。
だからシルヴァンは、最初で最後の自棄を起こした。
子どものころとは違う、大目玉どころの話じゃない。そうわかっていて、彼はフラルダリウス家の収蔵庫の鍵を盗み出した。鍵のありかを知っていることこそが幼馴染の実家からの信頼のあらわれだったのだが、それを最悪の形で裏切っているなと自嘲の笑みを浮かべながら。
子ども三人でやっと押し開けた扉が、今は自分ひとりでも開いてしまう。成長と時間の経過に少しだけ感傷的になりながら、シルヴァンは蔵の中へ滑り込んだ。外した錠前はどうしていいかわからず、閉じた扉の裏に残しておいた。
宝物たちの寝室は、夏の昼間だというのに肌寒く、薄暗い。十五年前に一度入ったきりの場所、しかもあの頃とは物の見え方が変わりすぎている。配置が変わっている可能性も否めない。無駄足だったかと肩を落としかけたシルヴァンの耳が、かすかな声を拾った。……まさか、誰かが閉じ込められているのか。シルヴァンは咄嗟にそちらへ駆け出した。自分の行いを棚に上げてはいたが、正義感に沿った行動を反射的にとれるところは間違いなく彼の美点であった。
こっちだよ、とシルヴァンには聞こえた。
たどり着いた先には、初恋の彼女が待っていた。
おおまかに言えば十五年が経っていた。シルヴァンがずいぶん大きくなったのに対して、当然だけれど、絵の中の彼女は全く老いてはいなかった。
触れようとする手を慌てて引っ込める。……彼女は、シルヴァンにとっては初恋のひとであったけど、美術品であり絵画であることは間違いなかった。シルヴァンは少しばかり芸術にうるさい自負があって、自分の欲よりも貴重なそれを――愛したひとを傷つけたくない気持ちが勝った。
シルヴァンはそのひとの目を見つめた。相変わらず何の感情も浮かべないまま微動だにせずこちらを見返していたその瞳が、……不意に瞬いた。
「えっ」
シルヴァンは目を擦る。頬をつねるより先に、そのひとが動いた。
『きみは――――』
長い睫毛がふわふわと上下する。鼓膜を揺らすのではなく、頭に直接響くように声がした。
『君は誰?』
「俺は、」
心臓がうるさい。シルヴァンは自分の目が信じられなかった。とうの昔に固まった絵の具でできているはずのそのひとが、平面の中で滑らかに首を傾げてみせたからだ。
シルヴァン、ではなくシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ、と名乗った自分にシルヴァンは溜息をつきたかった。やっぱり自分はどこまで行ってもゴーティエの人間をやめられないらしい。
『シルヴァン……ああ、あの子か。大きくなったね』
「俺のこと、知って」
『覚えてるよ。ずいぶん熱心に見つめてくれたし、フェリクスの面倒もよく見てくれた』
そのひとは初めて無表情を崩して、花がほころぶように微笑んだ。
――――目頭が熱かった。漏れそうになる嗚咽を必死に抑える。大の男が泣き出しそうなのを見て、彼女は少しだけ戸惑うような顔をした。
「俺、あんたに会いに来たんです。最後に」
『最後……?』
「俺、結婚するんです。だから、」
支離滅裂なことを言っている自覚はあった。腕っぷしと同じく弁舌だって鍛えたつもりだったけど、あまりのことに動揺が隠せない。
「あんたのことが好きでした。ガキの頃にあんたに一目惚れして、あんたに似た女とばかり付き合って……でも、駄目だった。他の誰かを愛せる気がしないんです、婚約者のことも。だから、最後にあんたに会いたくて……」
本当に会えるとは思っていなかった。冥途の土産、とこの場で使うのは明らかに誤用なのだがそう言いたかった。……結婚は人生の墓場だ、という言葉もあるし。
本来なら震えあがってもおかしくない状況だが、シルヴァンにとっては奇跡としか思えなかった。だって、一方的に投げつけるつもりだった言葉が返ってきているのだから。
『――――……、』
絵の中の彼女は何かを言いたげに唇を開閉し、やがて俯いてしまった。
『本当に最後でいい?』
「えっ……」
『君が本音を言っているように思えなかったから』
シルヴァンは言葉を失った。やっぱり自分の都合のいい幻聴ではないのかと疑った。
もう一度念入りに目を擦った。絵の中のそのひとはまばたきをしながら、じっとこちらを見つめている。シルヴァンが答えるのを待っている。
「おれ、は、」
貴族として、その跡取りとして、幼馴染たちの兄貴分として。シルヴァンは本音をしまいこむことしかしてこなかった。それに慣れ切っていたから、いざとなると喉に言葉が詰まった。やっとのことで意味のある文字を絞り出す。
「…………にげたい、」
それを聞いた女は、満足げに微笑んだ。
『わかった、じゃあこっちにおいで』
「おいで、って」
『ほら』
彼女が手招きをする。シルヴァンは夏の虫だった。ふらふらと近寄ってきた彼に、彼女はダンスに誘うように手を差し出す。
シルヴァンは彼女の顔と手のひらとを何度か見て、やがて、自分の右手を絵の上に重ねた。
――――瞬間。女性のものとは思えない力でぐいと引かれ、足の裏が地面から離れた。
じゃらじゃら、左手に持っていた鍵たちが抗議するように音を立てる。
ああ、連れてきちまったな。そう思って目を閉じたシルヴァンを、確かに体温のある誰かが受け止めたのだった。
(シルヴァン私ね、寂しかったんだ。これでずっと一緒だね)