9.
家に帰ると、ファーブはリビングのソファに座っていた。ユメノがそのことに気づいたのと、ファーブが立ち上がったのはほとんど同時だった。
「ただいま。雨に濡れちゃった」ユメノはそう言ったが、ファーブは何も返事をしなかった。ファーブはユメノを上から下まで見て、ぎゅっと眉を寄せた。
「誰かとキスでもしてきた?」
「え?」
「あと泣いた跡がある」ファーブは自分の袖を掴んで、それでユメノの顔を押さえた。
ファーブはユメノに顔を近づけると、すんと息を吸った。
「ムラサキと一緒だったの」
ユメノはぎょっとして飛びのいた。
「驚かないでよ。ムラサキの匂いがしたからさ。ムラサキってフレグランス自分で混ぜて使うんだよ。それにその口、ムラサキが最近買ったのと同じでしょ。ムラサキって結構特徴的な色使うじゃん」
ファーブは言い訳をするみたいな言い方をした。ユメノは、ファーブがよくムラサキのことを見ているなと思った。水面に一滴、墨が落ちたような気持ちになって、ユメノはじわじわと後ずさりをした。ファーブは素早くユメノの手首を捕まえた。「どうしたの」と訊ねる声こそ優しかったが、その目は笑っていない、とユメノは思った。ユメノはまたじわりと涙が浮かぶのを感じていたが、顔を逸らしたところでもう片方の手で頬を掴まれるんじゃないかと思って、そのままの姿勢でいることにした。
ファーブは瞳の赤を深くして笑った。
「すっごい怯えた顔」
「こ、こわいよ。どうしたの。そんな、そんなことしてないよ。キスとか」
「じゃあ、どんなことしたの?」
ユメノは泣きたい気持ちになった。何も隠すことはないと思っていても、上手くしゃべれない。悪いことをしたわけじゃないし、ムラサキと会って、彼女と一度音楽をしたということだけなのに、ファーブがどう思うかが怖かった。
「む、ムラサキちゃんと一回、一回だけって約束で」
ユメノはぎゅっと目を閉じた。
「ギターを弾いたの。ムラサキちゃんと一緒に、アキバセブンスのバーで、それで、あ、口紅はムラサキちゃんに付けられたの、指で、それで、うちの下まで送ってくれて、でも、その、それだけ」
「ふうん」とファーブは納得したんだかしていなんだか分からない相槌を打った。そのまま袖でユメノの唇をぐいと拭った。ユメノは自由な方の腕で両目の下に触れた。泣いてはいなかった。ほっと息をつく。ファーブはずいと一歩踏み出してユメノを至近距離で見つめた。
「駄目だよ」
「え?」
「駄目。ムラサキは駄目。他はどんな子と何しようがいいけど。こんな真似されちゃ駄目だよ。分かった?」
分かっている、とユメノは思った。ファーブに言われなくても、さっき聞いたムラサキの言葉で二人が付き合っているのは分かっている。それに、ただの同居人が自分の恋人に口紅を付けられて帰ってくるなんて、気分がいいものじゃないだろう、ってことも。分かっているから、もうこれ以上心を抉らないでほしかった。ユメノはうん、と弱弱しくうなずいた。
「わ、わかってる。ごめん」
「なんで謝るの」
「だって……、その、ムラサキちゃんは、わわっ」
「さっきからムラサキのことばっか喋るね。ユメノは」
ファーブはそう言うと、ユメノからゆっくりと手を離した。そのままユメノの濡れた髪をぐしゃぐしゃとかきまわす。水滴が跳ねる。ファーブの手を濡らしてしまうとユメノは慌てた。だがファーブは平然とした顔でユメノの髪のなかに手を突っ込んでいる。顔が赤くなるのを感じて、両頬を手のひらで押さえる。
ファーブはそのまま髪を撫でる動きを止めて暫く考えていたが、大きく息を吐いた。
「はー。……分かった。そういうことか。あたしたちムラサキにからかわれただけだよ。ユメノ別に悪いことしたわけじゃないもんね」
ファーブはユメノの首に腕を回して引き寄せた。濡れた体がファーブの熱を受けてじわりとぬるくなる。
「ふ、ファーブちゃん!?」
「あたしはそういう匂い、ユメノには似合わないと思う。悪い虫がつきそう」
「悪い虫って」あえて言うならそれはファーブのことだろう、とユメノは思ったが、ファーブが機嫌よさそうに首元に擦りついてくるので、何も言えなかった。別に嫌じゃない。ムラサキほど分かりやすくはないが、ファーブも多分何かフレグランスを纏っている。ユメノは普段から香水を付けないし、付けるとしてもイベントの時くらいだ。ふわふわと漂うファーブの匂いに頭が沸騰しそうだった。
「イヤだった?」
嫌なわけがないとユメノは思った。緩く首を振ると「いいこだね」と甘い声が聞こえた。じんと耳が熱くなる。
「ユメノはあたしのこと……」とファーブは言いかけて押し黙った。ユメノは心臓が軋むのを感じた。何か、大事なことを言われる気がする。どくどくと自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。固まったままファーブの言葉を待ったが、次に聞こえてきたのはため息だった。
「いや、なんでもない」
「ええ? 気になるなあ~」
ユメノは明るい声を出した。ファーブはユメノを抱きしめたまま「シャワー浴びてきたら」と言った。
「このままじゃ無理だよ?」
「んー。あたしも一緒に入ろうかな。濡れたし」
ファーブはユメノに反論の余地を与えなかった。言葉をなくしているユメノを引きずって風呂場へ連れていき、自分はさっさと服を脱いで入ってしまった。
「濡れてるんだから早く脱いでおいでよ」
「え、急にどうしたの!? ガラス戸ひとつ隔てて素っ裸のファーブちゃんがいるとか鼻血吹きそう。あっ血出た出てる出てるどっち向けばいいんだっけ!?」「下。そーやってムラサキも口説いたんでしょ? その手には乗らないからね」
「口説いてなんかっ……うう、鼻が痛い」
「あたしの裸想像しただけで鼻血とかうけるんだけど。そんな大層なもんじゃないよ、あたしは。そんなんじゃ女の子……、っていうか、ムラサキ口説くなんて無理だね」ファーブは楽しげに言うと、シャワーのコックをひねったようだった。水音が聞こえてくる。ユメノは使い古したタオルで鼻を押さえて服を脱いだ。全て脱ぎ終わるころには血も止まっていたので、ほっと息を吐いてドアを開ける。
微かな湯気を浴びているファーブを見たユメノは腰からかくんと力が抜けそうになった。事実ユメノは膝を床について両手を合わせ、ファーブを拝んでいた。
「ユメノ。あたしは仏像じゃないんだけど」「直視できないからこのままで」「駄目。ほら立って」ファーブはユメノの手を引いて立ち上がらせると、シャワーを頭からかけた。
「わっ、」
「あー、そうか。ユメノって女が好きだから、こういうの緊張しちゃうんだ?」ユメノは違うと言いたかったが、開いた口にシャワーが勢いよく入ってきたからうまく言葉にできなかった。
「女が好きな割に、あんた今まで全然変な真似してこなかったよね」ファーブはシャワーを止めてシャンプーを手に取っていた。ユメノもそれに倣う。ファーブのことは見ないように目を背けた。見てしまったら今度こそ血が足りなくなってしまう。
「変な真似?」
「盗撮、盗聴、薬を混ぜる、迫る、縛る、まあ、そういうやつ」
ファーブは何でもなさそうにそう言ったが、ユメノはぎょっとして目を見開いた。ファーブは今までそんなことをされてきたっていうんだろうか。もしかして、友達の家を渡り歩いているときに? ユメノは何と答えたらいいか分からなくて、少し考えたあとに茶化すことにした。
「してもよかったらするけど」
「駄目だよ。するなら……、」ファーブはゆっくりと言った。
「分かってるよお。そういうのは頭の中だけでやるの。私まだ捕まりたくないもん」
ファーブは首だけでユメノを振り向いて少し笑った。
「そういうことやりたいならあたしに言ってよね」
「でも駄目だっていうんでしょ? しないよ。残念だけど」
「うん。……そうだね」ファーブはそう言ったきり、言葉を発しなかった。
何か迷っているか、悩んでいるように見えたが、ユメノは彼女にかける言葉か見つからなかった。
二人がそろってベッドに入るのは初めてかもしれないとユメノは思った。大抵、どちらかが寝ているベッドに、跡から入ることが多かった。ユメノはどきどきしながら布団を捲り上げた。
「おやすみ」とユメノが言ったが、ファーブは何も言わなかった。寝てはいないんだろうなとユメノは思ったが、それ以上何か会話を見つけるのも難しくて、ユメノは目を閉じた。
ファーブが寝返りを打って、ユメノと向き合う形になった。暗闇でもやけにファーブの目が光って見えて、ユメノはそっと目を伏せた。
「ユメノ」とファーブは言ったが、そのあと何か言葉が続くことはなかった。何か言いたそうにしているとは思ったから、ユメノは辛抱強く続きを待った。ファーブはすっとユメノの方に近寄り、遠慮のない手つきで彼女を抱きしめた。そんなことをされるのは初めてだったから、ユメノは真っ赤になって俯いていた。
どくどくと心臓が暴れている。なんでこんなことするんだろう。混乱する頭で考えても答えが出ないことは分かっていたが、それでも考えられずにはいられなかった。
暫くそうしていると、ファーブの息が落ち着いてきた。眠ったらしい。きっと寝ぼけていたんだろうとユメノは思うことにした。そっとファーブの腕の中から抜け出す。寂しい、と思ったが、それをユメノは飲み込んだ。彼女の心拍数も、徐々に平静を取り戻していった。
久しぶりに楽器を触って、誰かと一緒に演奏をした。その相手がムラサキだったのが、最高に楽しかったなと思いながら、ユメノの意識は沈んでいった。
10.
朝起きたときファーブはもうどこにもいなかった。靴もなくなっているから、どこかに出かけているらしい。メモくらい残して行ってほしいなとユメノは思った。
いつも通り朝食を摂り、作業用BGMをかけようとムラサキのCDを手に取った。『あたしのコンポーザーは……』と昨日のムラサキの言葉が蘇る。ジャケットの裏を見る。ムラサキと共同制作者の名前が連なっている。やっぱり聞いたことのない名前だった。一応、と思いながらその名前を検索してみる。ムラサキの共同制作者ということ以外、まったく情報はなかった。SNSでは頻繁に、これが誰なのかという話が見られたし、噂話などが記事にまとめられていたものの、結局誰も真実を知らないということだけが分かった。情報が全部シャットダウンされている。動画投稿サイトのムラサキのページにも、その名前は出されているが、やはりアカウントは見つけられなかった。
本当に実在しているのか――? ユメノはそんな気分になった。ムラサキを疑うわけじゃないが、このご時世、特にクリエイターというものは、誰でもSNSをやって、顔を出して、名を売っていくものだと思っていた。
ユメノはその名前の人物の作品を追いかけていった。一番多いのはムラサキとの共同制作だが、デビューしたばかりの、しかもユメノが目を付けていたアイドルへも曲を提供していた。そして、驚くことに、羽生田ミト、世界的なシンガーへも一曲だけ、曲を書いていた。ユメノは羽生田ミトのことも好きだったし、ちゃんと全曲購入していたが、その存在を確認したのは初めてだった。その人物が描いた曲は、人生をうたったラブソングみたいだった。
ユメノは、すごい、と呟いた。こんなに才能あふれる人が、その存在を秘匿されていることに驚いた。
ユメノはムラサキの熱心なファンだ。だから彼女のことには詳しいはずなのに、楽曲提供者の名前に目が留まらなかったなんて、とユメノは自分を恥じた。そして、それほどまでに隠されているその人物が気になった。
もう一度、ブックマークされているムラサキのホームページへと飛ぶ。メジャーデビュー、という文字の下に、八月下旬の水曜日が記されている。それまではまだ三週間ほどある。ユメノはきちんとCDを予約したし、グッズも買い漁っていた。
何か見落としがないかとそのページをよく見ていると、ユメノはそこで、ふと気づいた。一週間前に、記事が更新されている。
「あれ……?」
見落としようがない、ページの真ん中に動画が張り付けられている。サムネイルに映っているのは見慣れた顔だった。
「え……?!」
瀬戸ファーブ。襟足までの髪を少しだけ跳ねさせ、黒と紫の衣装に身を包んでいる。その横にムラサキが立っている。
「どういうこと!?」
ユメノは混乱しながら再生ボタンを押した。聞きなれた声がする。動画の概要欄を読む。顔を隠して活動していたが、本名名義でデビューすることにしたという。
全く理解できなかった。だって、ファーブはムラサキを連れてきたこと以外、音楽に関することなんか一言だって言っていなかった! ユメノが音楽をかけていても、ムラサキの曲を聴いていても、ファーブがそれについて何か言うことはなかった。そんなファーブが、ムラサキの楽曲全部に関わって、しかも――あの、羽生田ミトにも曲を提供した? 信じられない思いで、ユメノはぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。だけど、音楽の話に限らず、ファーブはユメノに対して自分のことをほとんどしゃべらなかったし、ユメノだって聞こうとしなかった。
でもファーブは音楽家で、ムラサキを連れてきたとき、ムラサキと仕事の話――音楽の話をしていたのだ。
「共同制作者って、ファーブちゃんのことだったの?」
『明日には全部わかるよ』とムラサキの言葉が蘇る。そういうことだったのか、とユメノは思った。
震える手で、タブレットを開く。ネタ集めのために、雑誌は大体購読している。その中でも今日発売の音楽雑誌の表紙には、ムラサキとファーブのアップが映っていた。デビュー前なのに、名のある雑誌の表紙を飾るなんて、とユメノは思った。それだけこの二人の話題性が大きいということだ。それに、ムラサキの属するナナスタと言えば、大きなことをすることで有名だった。デビュー直後のアイドルを大きなハコで演奏させたり、ゲリラライブをやったり、電波ジャックをやったりと世間を騒がせることにおいて定評がある。それでもファンが多いのは、アイドルやシンガーたちの実力に他ならない。
だけど、とユメノは思う。どうして私に話してくれなかったんだろうか。そう自問してすぐ、話すほどの価値がなかったからだとユメノは気づいた。そんな間柄じゃないから。それだけのことだ。
ユメノだって自覚している。ファーブとはただの同居人で、友達ではない。それに会話もほとんどなかった。お互い、進んで関わり合いになろうとはしていなかった。それが、ユメノにはいつも悲しかった。
それが友情を持ちたいからなのか、他の理由からかは分からなかった。
だけどユメノは初めて会った時から、ファーブに興味があったし、彼女のことをもっと知りたかった。
ムラサキは、受け入れるのも突き放すのも好きにしていいと言った。私はどうするんだろう――、ユメノはそっとタブレットを閉じて机の上に頭を乗せた。そのままユメノは現実逃避をするようにぼーっとしていた。
コミジェネが近い。早割入稿の締め切りはもうすぐそこまでに迫ってきている。毎月連載している雑誌が複数あるし、同人誌も書かなきゃいけない。こんなことで悩んでいる暇はない。そう思ってはいるが、中々体が動かなかった。
11.
ファーブがいつ帰ってきたのかもユメノは知らなかったが、気づいたときにはファーブがソファの上に座っていて、自分のことをじっと見ていた。
「おかえり」と言った声が寝起きのもので、ユメノは少し笑ってしまった。ファーブは無表情だったが、わずかに気まずさのようなものをにじませていた。
「……寝てた?」とファーブは小声で訊ねてきた。ユメノは顔を上げて、髪と服を手で整えた。うん、と言うと、ファーブはそう、と返した。
ファーブの顔を見ていると言いたいことはたくさん思い浮かんだが、言葉にするすべがなかった。机の上に散らばったCDが目について、ユメノは急いでそれらをかき集めた。
「どれ」
「ん?」
ファーブはそっと立ち上がると、ユメノの横に立った。「どれが好き?」
初めて、ファーブの口から音楽の話が出た。ユメノは混乱して「これ」といつものようにムラサキの曲を指した。「こ、これ、ずっと。好きなの」
ファーブは微妙な顔で笑った。
「そうなんだ」
ファーブはユメノの頭に手を置いて、それなりに雑な手つきで髪を撫でた。
「それは――……ムラサキが好きってこと?」
「? うん、そうだよ」
ユメノは素直に頷いた。ムラサキやこの曲の素晴らしさ、ユメノなりの解釈を語ろうと思えばいくら時間があっても足りないくらいだが、それを作った本人の前で話すことほど恥ずかしいことはない。ユメノは慎重に言葉を選んだ。
「ムラサキちゃんの歌も好き。うん。もちろん他の曲も好きだよ。外れがないって感じ」
「そう」ファーブは曖昧に答えた。
「ファーブちゃん?」
ファーブはソファに戻ろうと背を向けたところだった。ユメノに呼びかけられて、ファーブは驚くほどぎこちなく振り向いた。
「なあに。ユメノ」
疲れが滲んだ声だと思った。ユメノは、何と声を掛けたらいいか分からなくて「どうしたの?」と遠慮がちに訊ねた。
ファーブはソファにゆっくりと戻った。
「いーや、何でもない」
ソファの上でファーブはにこりと笑った。取り繕われたのだと気づいたが、ユメノは何も言えなかった。ユメノが椅子に戻ろうとすると、ファーブに「ねえ」と呼びかけられた。
「ユメノ、お腹すいた」
子供のような甘ったれた声がユメノの耳に届いた。都合のいい幻聴だと思ってユメノは無視していたが「ユメノ。無視しないでよ。ねえ聞いてる?」と何度も言われてはっとした。
「今の現実のファーブちゃんが言ったの!?」
「そうだけど。また妄想の世界に逃げてたの」
「逃げてたっていうかファーブちゃんうちでご飯食べないでしょ?」
「食べるよ。お腹すいた。何か作ってほしい。ユメノに」
全く悪びれた様子もなく、さも当然のようにファーブはそう言った。「お願い」と上目遣いのオプションまでつけて。ユメノは軽いめまいを覚えながら立ち上がった。
「わ、分かった」
ファーブはにこりと笑った。それがやけに柔らかく見えて、ユメノは真っ赤になったまま立ち尽くした。ファーブはにこにことしたままソファに寝そべった。
「楽しみだな」
ユメノは急いでエプロンを付けるとキッチンに向かった。
どういう心境の変化だろう、とユメノは訝しんだ。
ユメノの作った料理をファーブは完食した。おいしかったよ、という感想もつけてくれた。ただ、作って、と言った時のような上機嫌さは鳴りを顰め、何か考え事をしている様子ではあった。ユメノが聞いてもうまくはぐらかされたので、それ以上突っ込んだことを聞くのはやめた。
それから、ファーブはユメノにべったりとくっつくようになった。ちょっと出てくる、と言って――それがデビュー前のプロモーション期間だからだということは分かっていたが、一日戻らないこともあったが、家にいるときは大体ユメノの傍にいる。だからユメノは原稿が前と比べて少し進みづらくなっていた。ファーブにそれを聞いたところ「仕事でしょ。集中しなよ」と気にしているんだかいないんだかわからない言葉を貰った。ユメノは濃い絡みのある所だけを後回しにして、あとは普段ファーブがいても気にせず作業をするようになった。
二人の会話は少しずつ増えていった。いま、自分たちは友達に近いのかもしれないとユメノは思っていた。
12.
八月に入り、怒涛のコミジェネウィークが過ぎていった。ファーブはコミジェネの日は3日間とも早朝から家を空けた。夏フェスのシーズンだし、ナナスタやムラサキについて回っているかもしれないなと思った。
もう、ファーブとムラサキのデビューまで一週間を切っていた。
ユメノは、ファーブに何も言い出せないままだった。ファーブの仕事を知っていること。ファーブの作る曲が好きなこと。それに、デビューおめでとう、の一言も。
だってどう切り出せばいいか分からなかった。こそこそと嗅ぎまわっていたんだとファーブに知られたら、きっと彼女は幻滅するだろう。だから、ユメノは、ファーブから切り出してくれることを願っていた。自分はムラサキと一緒にデビューするのだと、彼女の口から言い出してほしかった。
だがファーブはいつまでたっても自分の話をしようとはしなかった。
ファーブの帰りはいつも通り遅かったし、日に日に家にいる時間が短くなっていったが、ファーブは家に帰ってくると、ユメノを見てほっとしたように笑う。ただ、ユメノが勇気を出してファーブのことに触れようとすると、彼女はあからさまに話題を変える。触れてほしくないのだろうか。嫌な想像が膨らんでくるから、ユメノはファーブのことを話題に出すのをやめてしまった。
13.
今日もユメノが起床した時にはファーブの姿はなかった。ファーブのデビューは明日に迫っていた。結局、何も言えないままだったとユメノは落胆した。
何か部屋に違和感があったが、それが何故か分からず、もそもそと起き上がると簡単にひとり分の朝食を作って咀嚼する。片づけをして、軽く部屋の掃除と洗濯を済ませる。洗濯物を部屋干ししているときに、ふと気づいた。
ファーブの荷物がなくなっている。ユメノの寝室にちょこんと居座っていた黒いスーツケースが、なくなっていた。
「いつから?」ユメノは呟いた。
ファーブの荷物にあまり注意を払ってきていなかったことを、ユメノは後悔した。ユメノはリビング、トイレ、浴室、と部屋を一通り見て回ったが、どこにも彼女の荷物はなかった。いまや、この部屋にファーブがいたしるしや、ここに帰ってくるという証拠はどこにもないのだ。
ユメノは、どっと冷や汗が流れるを感じた。心臓が嫌に暴れている。そんなことはない。帰ってくるはずだ、いつも通りに。自分に何度も言い聞かせて、ユメノは仕事机の前に立った。原稿をしなくては。それに、一枚絵も描かなくてはならない。ありがたいことに仕事は山積みだ。ユメノは何度も深呼吸をしてからペンを執ったが、おかしいくらいに使い物にならなかった。
「ただいま」と声がして、ユメノは薄っすらと目を開けた。幻聴かもしれないとユメノは思った。だが、軽やかな足取りがこちらに近づいてくるのを聞いてユメノは上体を起こした。
「お、おかえり……?」
ユメノはリビングにあらわれたファーブを振り返って、恐る恐るそう言った。ファーブは少し眉を下げて笑った。
「ただいま。ユメノ」
ユメノはファーブを見た。いつものバックパックを背負っているが、スーツケースはどこにも見当たらなかった。ユメノはそれを口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。口元に伸ばしかけた手を恐る恐る腿の上に戻し、ユメノはぎこちなく笑う。
「うん」
ユメノはゆっくりと息を吐いて、ファーブを見た。いつも通りの服装だが、ヘアメイクが凝っているように見えた。きっとプロの手が入っているのだ。化粧もいつもより濃い。メディア用の撮影か何かをしてきたのだろう。ファーブはちょっと照れたように笑った。
「どうしたの。そんなにじろじろ見て」
「あー。いや。えっと。今日なんか、メイク、が」
ファーブはぱちぱちと目を瞬かせた。
「メイクが? 変かな」
「ううん。変じゃないよ。綺麗」
ファーブは、ユメノなのに控えめな感想だね、と言って笑った。ユメノは返す言葉が思いつかず、ファーブがソファに座るのをぼんやりと見た。ファーブはソファの上で一度足を組んだが、数秒して元に戻した。考え事をしているらしいとユメノは思った。ファーブは忙しなく足や指を動かしていたが、ふうと息を吐いた。
その音を聞いてびくりと背筋がこわばった。ファーブが何か大事なことを話そうとしていると気づいて、ユメノは逃げたくなった。
「ユメノあのね」
「待って」
ユメノはそう言った。自分が思ったよりも悲痛な声だったから、ユメノはぎゅっと唇を噛む。ファーブは怪訝そうにユメノを見上げた。
「ユメノ?」
ユメノは唇を開いて軽く息を吸った。
「……後にしてくれる? 今原稿したいんだ」
「いいけど」と言ったファーブは微妙な顔をした。ただ、ユメノには彼女がどこかほっとしたようにも見えた。
ユメノはファーブに背を向けた。ペンを執って、イラストソフトを起動したものの中々筆が動かない。後ろにファーブがいて、もしかしたら見られているかもしれない。ただの口実だって見抜かれているかも――。そう思うと心臓が軋む。
ユメノは小さく深呼吸をすると、集中するために腕をまくった。
14.
ちっとも進まない、とユメノは頭を抱えた。締め切りまでまだ余裕はあるが、今日進めておきたかった分はちっとも終わっていない。ファーブが突然帰ってきたから、片付ける暇を与えられずに、ムラサキや他のアイドルたちのCDが机の上に散らばっている。モニター越しの視界に映っていて、見るたびに心臓がいやに早くなる。ファーブはそれをどう思っているんだろうと思うと怖かった。
「ユメノ?」
ファーブの声がした。遠慮がちな声だと思った。ユメノはのろのろとファーブの方を見た。ファーブと目が合って、ユメノはしまったと思った。自分がどんな顔をしているかはっきりわかったのだ。ファーブはそんなユメノを見て、僅かに顔を曇らせた。
ファーブの口が動いたのをユメノは見ていたが、彼女は結局何も言わなかった。ユメノはひっそりと息を吐いた。
まだファーブはここにいてくれる。ユメノは自分の思考を疑った。そんな、まさか――ユメノはじわりと背に滲んだ汗を意識した。ありえない。
ユメノは乱暴にペンを置いた。ファーブが目を丸くしているのが視界の端に映ったが、気にしてはいられなかった。ユメノはホロコンを掴むと「ちょっと出てくる」とだけ言い残して部屋を出る。気に入っているスニーカーに足を突っ込んで家を飛び出した。
じりじりと照り付ける日差しに肌を焼かれながら、ユメノはあてもなく足を動かした。あの空間にいたら、変なことを考えてしまいそうだ。
まるで自分がファーブのことを好きみたいだ。ユメノは心の中で頷いた。確かに好きだ。顔もいい、声もいい、性格だって、悪くはない。一緒に住んでいて不快感はなかったし、素晴らしい音楽を作る才能に恵まれている。魅力的な女性だとは思う。だけど、とユメノは思った。その「好き」は、そういう好きじゃなかったはずだ。彼女を自分に身近なものとして考えようだなんて、一度だって思ったことはなかったはずだ。
だから、ファーブがメジャーデビューするのを黙っていたことや、一緒に食事を摂ってくれなかったことや、泣いている自分に冷たくされたことに傷ついたのだって、抱き寄せられた腕やその匂いに心臓が跳ねたのだって、彼女とムラサキが付き合っていることがやけに気になるのだって、全部、ぜんぶ、そういうんじゃない。
だってユメノとファーブはただの同居人で、友達でもなんでもないのだ。少なくともファーブはそれ以外の関係性を望んでいないはずだ。だからユメノもそうしないといけないのだ。
じゃあ、と、ユメノは思った。この同居を解消しなきゃいけない。互いの望むものが満足に与えられないのなら、ユメノとファーブは一緒にいるべきじゃない。
ただ、それは、ユメノがファーブをそういう意味で好きだからじゃない、と彼女は思った。
「私はファーブちゃんと友達になりたかったんだ。だから友達になれないのが悲しかったんだ」そして実際に口に出してみると、いかにもそれっぽい理由に思えた。ファーブは何度も呟いてみた。その考えは脳に素直に広がった。
だがユメノの冷静な大脳がこうも告げている。ファーブを目の前にしても同じことがいえるか? ファーブとムラサキがキスをしていても――、ユメノはぎゅっと目を瞑って思考を遮断した。そんなこと考えたくもなかった。答えは明確に出ていたが、それを飲み込むだけの余裕はユメノにはなかった。
ユメノは歩道の脇でしゃがみこんだ。影が真下にいる。ぼたぼたと汗が伝って落ちていった。視界が歪んだが気にしないことにした。
ユメノは膝を抱える。なんだかふらふらする気がする。でもあの家に戻る気は起きなかった。
帰りたくない。居心地のよかった自宅のことをそう思ったのは初めてだった。
15.
ユメノは膝を抱えたままぼやける思考をはっきりさせようとした。考えは濁流の陽に溢れてきて一つにまとまらない。
どうするべきか、という一点についてはユメノは自分がするべきことをしっかり分かっていると思っていたが、それを行動に移せる自信は全くなかった。
「ユメノ。何してんの。干からびるよ」
「ファーブちゃん」
ファーブが目の前にいた。
「暑いよ。家に入ろう」
「うん」
帰ろうって言わないんだ、とユメノは思ったし、そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
ファーブに手を引かれてゆっくりと歩く。もうこんなことも起こらないんだろうなとユメノはぼんやりと思った。がちゃんとドアが開く。ユメノは靴を脱いで部屋に入ると、タオルで首元を拭いた。冷蔵庫からスポーツ飲料を出して口を付ける。ファーブはまた彼女の定位置のソファの上に戻っていった。
ありがとうと言わなければいけないとユメノは思った。だがその判断に反してユメノの口はこう動いた。
「明日には出ていってくれる?」
ファーブはゆっくりとユメノの方を振り向いた。
「今何か言った?」
ユメノはにわかに焦った。いまそんなことを言うつもりじゃなかった。ユメノに残された選択肢は二つだった。何でもないよと取り繕うか、そのまま、肯定するか。ユメノはしばらく悩んだあと、そっと肩の力を抜いた。
「うん。明日出ていってほしい」
「正気?」
ファーブは眉をぴくりと持ち上げてそう言ったが、すぐに無関心そうな顔に戻った。
「……まあ、いいけど。あんたがそう言うなら出てくよ。でも今日はいいんだよね」
どうせ、近々出ていくはずだったくせに、とユメノは避難がましく思った。だってファーブは唯一の荷物ともいうべきあのスーツケースを持っていない。それに、ファーブのそう言う声が、やっぱりどこか安堵を含んでいる気がする、とユメノは思った。だからファーブの中でもここから出ていくことは決定事項だったんだろう。
「うん。いいよ」
ユメノは叫び出したいのを押さえて無理やり微笑んだ。どうして食い下がってくれないの、と八つ当たり甚だしいことを考えた自分に嫌気がさす。
大体、ファーブにここにいさせてほしいと言われようが、出ていくと言われようが同じことだ。どちらにしろユメノは傷つく。それに変わりはない。
ユメノは、ファーブにどうしてほしいのかちっとも分らなくなってしまっていた。
ユメノが呆然と突っ立ったままでいると、ファーブはゆったりとソファから立ち上がった。
「出てくる。夜には戻るよ。あと一晩だけお世話になるね、ユメノ」
その言い方がやけに他人行儀に感じた。そんな些細なことにも敏感になっている自分が恥ずかしかった。ファーブに表情を見られないようにユメノは俯いた。
「いってらっしゃい」ユメノは小声でそう言った。そういえば、そんなことを言うのも初めてだ。最初で最後か、と思うと、自嘲気味な笑みが口元に浮かんだ。
16.
ユメノはファーブが出ていったあと、すぐに力を失ってへたり込んだ。なぜだか涙が止まらなかった。ただの同居人が、同居を解消するだけだ。自分にはデメリットなんか一つもない。
――そんなわけないじゃないか。ユメノは涙でぬれた頬を、首にかけっぱなしだったタオルで拭った。
ユメノは、汗をかいた身体を洗い流すためにシャワーを浴びた。鏡に映る自分の顔はひどく情けなかったし、涙でぐちゃぐちゃになっていた。熱いシャワーを浴びて、新しい服に着替える。そのまま仕事机について、暫く原稿をする。真っ白な頭の方が、下書きの線をなぞるだけの作業には向いている、とユメノは思った。
辺りが暗くなってきて、ユメノの腹も控えめな主張を始めたので、軽く食事を作って一人で食べる。ファーブが今夜食べるかどうかは分からないが、一応彼女の分も皿に盛り付け、冷蔵庫に仕舞っておいた。
ユメノはTVをつけた。バラエティや音楽番組を敢えて避けて番組を選んだ。宣伝でファーブやムラサキが映っていたら、平静でいられなくなると思った。ユメノはニュースを見ながら食事をして、片付けが終わった後もソファでぼんやりしていた。
また少しして、ユメノは原稿を進めた。眠気がユメノをゆっくりと包み込んでくる。ユメノはそれに素直に従ってベッドに向かった。ファーブはまだ帰ってきていない。残念だったが、安心してもいた。
ユメノはファーブのぶんのスペースを開けて、ベッドに転がった。サイドテーブルのライトが部屋を暗いオレンジ色に照らしている。ユメノは天井を見つめたまま、そっとムラサキの曲を口ずさんだ。ユメノが歌うには、クールすぎる歌詞。これをファーブはムラサキのために作ったのだ。単純に、うらやましいなと思った。
ファーブに興味を向けられていることが。ファーブに愛されているムラサキのことが。自分には絶対に手に入らないものを持っていて、そのことをきちんと自覚しているムラサキが、ユメノにはまぶしくてたまらなかった。
ユメノは知らず知らずのうちに泣いていた。ファーブの気配はしない。ユメノは静かに涙を流し、そのまま、意識を失った。
17.
ふと意識が浮上した。カーテンに薄ぼんやりと明かりが差し込んでいる。陽はまだのぼりきっていないが、朝だった。ユメノは横にじわりと暖かさを感じて、ゆっくりと体を動かした。ファーブがいた。
薄い色素の髪がベッドシーツに散らばっている。仰向けで、静かな寝息だけが聞こえる。ユメノは、暫く彼女を見つめていた。
綺麗な人だと思う。いつもそう思っていた。この顔を見るのも今日で最後だと思うと、こみあげてくるものがあった。
ああ、とユメノは思った。好きだなあ。
そっと指先でファーブの毛先に触れる。さらりと指の間を流れていった髪は、ユメノと同じ香りがした。ユメノはまたファーブの髪に触れた。何度かそうしていたが、ファーブが起きる気配は全くない。
ユメノはそっと指を頬に滑らせた。色白で、温度を感じさせない頬だが、しっかりとあたたかかった。ユメノは指の腹でファーブの頬を撫でて、恐る恐る、唇に触れた。ピンク色の唇は見た目と同じでふっくらとして柔らかかった。ユメノは、触れるか触れないかの距離で、ファーブの唇を撫でた。その指が震えていることにユメノは気づいて、はっと手を引く。自分の目は十分なほどに潤んでいた。あと何度かの瞬きで零れてしまうだろうと、分かるくらいには。
ユメノは降参だと頭を振った。長い髪がシーツを打った。
泣きたいくらい、ファーブが好きだ。
ユメノは、心中で何度も謝りながらファーブに顔を近づけた。穏やかな寝息が触れる。ユメノが息を止めたのと、彼女の唇とくっついたのは同時だった。
ユメノはばっと体を起こした。
触れてしまった。どっどっどっ、と心臓が大きな音を立てて暴れまわっている。ユメノは胸を押さえた。涙が零れ落ちていったが、それよりも心が痛かった。自分は何ということをしてしまったんだ。こんなことするんじゃなかった。声もなく泣いていると、衣擦れの音が聞こえた。
「ユメノ」
しっかりした声だった。
きっと、もっと前から起きていたんだとユメノにははっきりわかった。
「ふ、」
「ユメノ、いま」
ファーブがそれ以上何か言う前に、ユメノはベッドを飛び出した。寝起きで足をもつれさせながら玄関まで走り、サンダルをつっかけて急いで外に出る。息が切れるまで走り続けて、気づいたときにはアキバセブンスの大通りまで来ていた。
ビルから、ムラサキとファーブのデビューを祝う垂れ幕が下がっている。ガラス張りのビルからは大型パネルが彼女たちの立体映像を映し出している。
ユメノはパニックになって、また走り出した。
「はあっはあっはあっはあっ!」
路地をめちゃくちゃに走り回り、足が痛み始めて、やっとユメノは歩みを止めた。また自宅の前まで戻ってきていた。ユメノは昨日と似たような場所でしゃがみこんだ。胸が痛い。走り回ったせいもあるが、その理由は分かり切っていた。ファーブにキスをしてしまったせいだ。許可もなく。勝手に。ユメノはまた自分の目が決壊したことを悟った。誰にも見られたくなくて、膝の間に顔を埋める。
涙が枯れてしまうくらいに泣いて、ユメノはようやく泣き止んだ。太陽はもうずいぶんと高い位置にのぼっていた。ユメノはまた汗だくの身体をひきずって、アパートに戻った。鍵もホロコンも持ってきていなかったが、指紋認証でロックを解除する。
玄関のドアを開けて、ユメノは今度こそ崩れ落ちた。ファーブの靴はなくなっていた。ユメノはひとしきり泣いたあと、のろのろと部屋に上がった。風呂、トイレ、リビング、キッチン、寝室、どこを見てもファーブがいた痕跡を見つけることはできなかった。ユメノはベッドに飛び込んだ。ファーブがいたはずの場所はもうすっかり冷たくなっていた。そこに顔を埋めると微かにファーブの匂いがした。やっとファーブがこの部屋にいた証拠を見つけてユメノはまた涙を零した。シーツに水滴が広がっていく。だってこんな微かな匂いなんかすぐに消えてしまう。明日にはもうこの部屋にかつてファーブがいたことなんかちっとも分らなくなってしまうのだと思うと悲しかった。ユメノは声を上げて泣きながらシーツを抱きしめた。いつもは彼女の匂いを意識したとき、落ち着くかどきどきするか、どちらかだったのに、今はもうここには帰ってこない彼女のことが恋しくなるだけだった。
ファーブが好きだ。大好きだ。ユメノには彼女しかいなかったのだ。初対面で名前も住所も明け渡したことも、二度も同居を許したことも、好きだからできたのだ。
ユメノは体の中の水が全部抜けていくんじゃないかというほど泣きながら思った。
ファーブも同じ気持ちを返してくれたらよかったのに。
おわり
☆ここからファーブ編にはいります
タイトルを決めていないのでぼちぼち考えつついきます なんかこのおはなしに合いそうなのがあったらこっそり教えてくださいませ
あんなキスをされたのは初めてだった。ファーブは唇を押さえたまましばらくベッドに横たわっていた。
1.
ファーブはゆっくりと起き上がる。心臓がばくばくと鳴り響いていた。さっきユメノに触れられたばかりの唇がやけに熱い。
なんだ、あれ。ファーブはそう思った。恐る恐るといった風に近づいてくる熱。伏せられた睫毛は震えていて、薄暗い部屋の中で背を丸めている様はまるで懺悔のようだった。
情熱や欲望、そういうものをぶつけられるのは慣れていた。それをうまく躱して遊ぶのも、冷めた目で相手を追い詰めるのにも。だが、あんなに痛ましい顔でキスをされたのは初めてで、ファーブは困惑した。多分、今自分は間抜けな顔をしているだろう。
ファーブはまだ逸る心臓を抑えてベッドを降りた。あんなキスをしておいて、何も言わずに逃げたユメノを追いかけるかどうかまだ決めかねていたが、部屋からは物音の一つもしない。ユメノはもうとっくにこの部屋から出ていったのだとファーブは理解した。
ファーブはユメノの部屋を見渡した。充電されたままのホロコンと、その横に鍵が置いてある。何も持たずに出ていったのだということは容易に想像できた。それほど予想外だったのだろうか。
ファーブはまだおさまらない動悸をどうにかしようと息を吸い込んで、ふと気が付いた。なぜ自分は、子供みたいなキスひとつされたくらいで、こんなに動揺しているんだろう?
あたしらしくないや、とファーブは思った。そう思うと少しだけ動悸がおさまってきた気がした。ファーブは一つ息を吐くと、またベッドに戻っていく。二度寝にはちょうどいいくらいの時間だった。
ファーブはまだ薄暗い部屋の中で、ユメノが寝ていたところに身を横たえてみた。ユメノの匂いがする。甘ったるいくせに、全然嫌悪感のないその匂いはファーブの肌によく馴染んだ。
ファーブはアーティストだ。だからというわけではないかもしれないが、他人より鋭い五感を持っていると彼女は自負している。だからこれまでの同居先では、音や匂いなんかで、一つでも気に入らないものがあれば、その瞬間に遠慮なく同居を解消してきた。
それがユメノとはこんなに長く続いている。彼女は頭のネジが数本ぶっ飛んでいて、なおかつちょっとだけ常識に疎いタイプだったが、それでさえファーブを嫌に刺激するものではなかった。
ユメノの家は、今までで一番居心地がよかった。大きな不満もなかった。でも時たまユメノが遠慮がちにこちらを窺ってくるのだけは、ファーブを苛立たせた。言いたいことがあるなら言えばいいし、したいことがあるならすればいい。ここはユメノの家なのだから、ファーブに気を遣う意味が分からなかった。ファーブは思い切り息を吸い込んだ。ユメノは暫く帰ってこないだろう。
どこに行ったんだろうと一瞬思ったが、そんなことが分かったとしても何もならないと、その思考を追いやった。ユメノがどこにいるか分かって、仮にファーブがそこまで行ったとして、ユメノと会ったらどんな顔をして、何を話せばいいのか全く分からない。だから追いかける気にもなれなくて、ファーブはベッドに横たわったまま、思考に沈んでいった。
2.
彼女の涙をファーブはぼんやりと思い出す。ファーブは、ユメノが泣くのが嫌いだった。
ファーブは、一年以上前に一度この家にお世話になったことがある。だからユメノの家で同居をするのは、今回が二回目だ。
初めて彼女の泣き顔を見たのは、一度目の同居の時だった。
なぜ彼女が泣いたかはもう覚えていないが、きっかけは大したことではなかったように思う。たぶん、何かしらで感極まって涙を零した彼女を見たのだ。ファーブはなぜか分からないがひどく苛立って「それやめてくれない?」と言った。ユメノはさっと顔を青ざめさせるとファーブに向かって頭を下げて謝り、その姿勢のまま服の袖で涙を拭いながら部屋を出ていった。
拍子抜けだ、とファーブはその時思ったのだ。
今までの同居人だったら、問答無用でキレられていたに違いない。デリカシーがないとか、気遣いがないとか、心がないとまで言われたこともあった。だがそのどれもがファーブの耳には響かなかった。ファーブはそんなことを言う女たちを、耳元を飛び回る羽虫みたいに一つ一つ払いのけていた。
だけどユメノはどうだ? 傷ついたはずなのに、数分もしたらいつもみたいな顔を装ってファーブの前に現れた。目許は少し潤んでいたが泣き腫らしたような影はない。そこでいつもなら、ファーブはちょっとマシな気分になるはずだった。
ところがそのとき、ファーブに芽生えたのは明確な苛立ちだった。
その時のことを、ファーブは今でもはっきりと思いだせる。ファーブはうっかり、なんで隠しちゃったの、と言いかけた。泣くなと言った口でそんなことを言うなんて理不尽にもほどがある。ファーブはなけなしの理性と良心をかきあつめて唇をきつく閉じた。どうしてこんな感覚になるのか、訳が分からない。ファーブは冷静になろうとして深呼吸をした。無関心、無表情、どうでもよさそうな空気を作り出すことに専念し、ファーブはそれに成功した。
それから、ファーブはユメノが泣いている姿を見たことがない。ユメノは感情が豊かだから、些細なことでも打ちひしがれていたり、傷ついていたり、動揺していたり、ファーブのことを気にかけてくれていたりするが、その目許から涙が零れ落ちるのを、ファーブは終ぞ見たことがなかった。さっきまで泣いていたとか、泣いて帰ってきたのだろうと思われる顔をしていた時はあったが、泣いているその時に出くわしたことはない。ファーブはそれが苛立たしかった。ファーブがうっかり言ってしまったせいでユメノは泣かなくなった、ということは十分承知している。
泣けばいいのに。自分勝手だと分かっていても、そう考えるのをやめられなかった。
だからファーブは、二度目の同居を始めたとき、こっそり思ったのだ。ユメノを泣かせてみたい。できればこの手で。あの時は全然冷静じゃなかったから、今度はちゃんと泣いているところを見てみたい。なんだか自分がひどい人になったみたいだ、とファーブは自嘲した。なぜそんなことを思いついたのかは、考えないことにした。
3.
浅瀬で揺らいでいた意識が浮上する。ファーブはカーテンの引かれた窓をぼんやりと見つめる。まだここにいる時間はあるだろうか。ベッドサイドに置かれた時計は九時を示していた。まだ大丈夫だ。
ファーブはふたたび目を閉じた。
昨日、突然ユメノに言われたことがふと蘇った。『明日出ていってほしい』なんの感情も感じられない声だった。だからファーブは今日、ここを出ていかなくてはならない。
でも実は、ユメノに言われる前から、ここを出ていくことは考えていた。でもこんなに急になるとは思わなかった。
ファーブは、ユメノに秘密にしていることがある。それはさっき考えていたみたいな、ユメノを泣かせてみたいという凶暴な思考ではない。ファーブは、ユメノが好きなムラサキという歌手の共同制作者だということだ。
ユメノがムラサキのことを好きだということは、彼女と初めて会う前から知っていた。だから自分を利用できるとは思った。今日まで一度もそんな機会は訪れなかったが。
たまに話題になる、ムラサキと一緒に楽曲制作をしている、無名の人間。それがファーブの正体だった。ファーブはそれをユメノに告げる気はなかった。そんなことを言ったら、今でもファーブにかなり気を遣っているユメノが、さらによそよそしくなるんじゃないかと思ったのだ。それはなんだか嫌だった。この部屋では、ただのファーブでいたかった。少なくともファーブはユメノに気を遣うことはなかったし、一度だって言いはしなかったが、ユメノにもそうして欲しいと思っていた。ファーブはユメノがちょっと危ない、変態気味の人だということは同居を始める前から知っていたし、そのことを、美人なのにちょっと残念なんだなと思うことはあっても、軽蔑はしなかった。人の趣味はそれぞれだ。自分だって、閣下――羽生田ミトのことだ、彼女のことになると視野が狭くなる。
ただ、ユメノは、今回の同居が始まったときにファーブが言った「こんなのが好きなの」という言葉に過剰に反応して、彼女の趣味を隠すようになってしまった。ファーブはそれが残念だった。自分なんかの言うことをいちいち気にしていたら満足に生きられないだろう、と思った。そんなユメノのことがかわいそうで、かわいかった。でも一番かわいいのは好きなものを好きだと言って、顔を蕩けさせているユメノだと思っている。だから自分のせいで、泣かなくなっただけじゃなく、常に遠慮がちな笑みを浮かべるしかしないユメノを見ることは、ファーブにとってストレスだった。
もっと求めればいいのに。ファーブはそう思っていた。もしユメノがファーブのことを欲しがってくれたら、いつでも受け止めるのに。
そんなことを考えるのは初めてだった。同居を始めてすぐにユメノに欲しがられたいと思っている自分に気づいた。だからファーブは決めたのだ。ユメノがこちらに手を伸ばすのをじっと待っていよう。でも、ちゃんとファーブのところまでまっすぐ落ちてこられるように、手は引いてあげよう。
ファーブは、それをとてもいいことだと思った。
そうと決めたファーブはさっそく行動に移すことにした。まずは敵を知るところから。楽曲制作と同じだ。ユメノが外出していたり、就寝していたりする時間に、ファーブは彼女の家を物色し始めた。
そこでファーブは意外な事実に気が付いた。ユメノは、ファーブがムラサキと一緒に作った曲だけじゃなく、彼女は作った曲のほとんどを音源として持っていた。もしかしてあたしの歌が好きなのかもしれないとファーブは思った。それは彼女を逸らせた。
だがそれは間違いだった。ファーブは何度もユメノがムラサキの写真に口づけているのを見てしまった。彼女はムラサキが好きなのだ。
*
ファーブはじわりと額に滲んだ汗を拭って、ようやくベッドから起き上がる決心をした。さっきより強い光が窓から差し込んでいる。ファーブはベッドから降りると風呂場へ直行した。さっさとシャワーを浴びて、軽く化粧をする。着替えをバックパックに詰め込んで、全ての部屋を見て回った。自分の私物が一つも残っていないことを確認して、ファーブは玄関に向かった。靴を履きかけて、ふと彼女の手が止まった。
これじゃあ自分がユメノの言いなりになっているみたいだとファーブは思った。
ファーブは大きく息を吸い込むと、靴を放り投げた。大股でリビングに戻ると、パンツのポケットからホロコンを取り出す。少し考えて、それを適当に放り投げた。ホロコンは一瞬宙を舞い、本棚の一段目に滑り込んでいった。ファーブはそれを見届けると、今度こそ靴を履いた。
「見つけてね、ユメノ
」
ファーブは自分の声が思ったより頼りなげに聞こえたことに狼狽しながらも、ユメノの家を後にした。