魚焼きグリルで軽く焼いた厚切りのバゲットに、ヘクトール様にお土産としてもらったマーマレード。アキレウスがこだわりぬいて選んだコーヒー豆を挽いて、ブラックのコーヒーをお揃いで買ったカップにそそぐ。
「いただきます」
一人の部屋に空しく響く食事を始める合言葉を、一つ。俺は乱雑に置かれたバゲットを一つ手に取り、まだ帰ってこないただ一人を待ちつつ食事を始めた。
アキレウスが帰ってこなくなってから何週間だろうか。帰ってこなくなったのではないことは知っている。おそらく、仕事だろう。急なロケ、急な撮影、急な打ち合わせ。アキレウスはそういう仕事をしている人間なのだから仕方がないことも重々承知している。所詮は平凡な大学生と今を時めく超絶美形のモデル様。身分の差などわかりきっていることだ。…それを、俺は止める資格がないことも。今回はいつもよりアキレウスが帰ってこない期間が前よりずっと長いから、海外かな。一言くらいよこしてくれたっていいと思うけど、あいつはいろんな人に愛されてるから、必要とされてるから、俺一人にかまけてる場合ではないのだ。
そう思いながら、さして味のしない食事を終えた。アキレウスと食べたときはあんなにおいしかったマーマレードも味がしなかった。へくとーる様が買ってきた高くておいしいマーマレードはこうして無意味に消費されていくらしい。ちゃんとしたご飯を食べる気にもなれなくて、三日ともこれと同じ食事を一日に一食だけ食べていた。そろそろヒートの時期だからと取った一週間の公欠はヒートが訪れず無駄になりそうだ。
洗い物を終えて、ふかふかのソファに腰掛ける。二人でいっぱい悩んでかったそれにはアキレウスの匂いがたっくさんついてて、今は寂しさと孤独を体の芯に食い込ませて俺をどうしようもなくさせるばかりだ。ぎゅうと灰色のクッションを抱き込むが、やけどするような熱さはなく、なんとなく、冷たく乾いた虚無感がひび割れた心を満たした。
(こんなんじゃカンドとセラに怒られちゃうな…)
落ちぶれた、運命の番のいないΩとして生きてきたけれどこんな気持ちは知らない。だって今まで大丈夫だったのだ。無能なΩ、というレッテルを貼られても、落ちこぼれ、だなんて後ろ指さされても、気になんてならなかったのだ。だって本当だったから。ぼっちのΩなんて陰キャの自分にはピッタリじゃないか。それでいい、それでよかった、それが正しかった。
なのに、だというのに、あいつがたかだか数週間帰ってこなかっただけでこんな風になるなんて。いつからこんなに弱くなった?いつからあの甘い嘘に騙されて、それを糧にして生きていた?
「ずるいなあ…」
騙すだけ騙して、遊んで、それでこんな風にほっぽり投げるなんて。ああいや、騙すつもりもないんだろう。被害妄想というやつだ。はたはたと、たまった涙がこぼれそうになるけれど、まだ大丈夫なようだ。アキレウスはいつも俺を愛していると言ってくれてたじゃないか。たとえ運命でなくとも、そんなのは些細なことで自分が選ぶのはお前ひとりだと。
いついかなる時も、笑顔でいなさい。
いついかなる時も、凛と咲き誇りなさい。
いついかなる時も、大切な人を笑って迎え、喜ばせることのできるよう、努力なさい。
同じΩだった母から耳にタコができるほど聞かされた言葉を頭の中で反芻して暗い気持ちを覆い隠す。
口の端を人差し指で釣り上げて、笑顔を無理矢理作る。アキレウスは俺の笑顔が一等好きだと言っていたから。アキレウスがいつ帰ってきても、笑顔で迎えられるように。そうだ、ご飯を作る練習もしてみよう。帰ってきたら、大好きな鶏のから揚げでも、ハンバーグでも、オムライスでも、なんでも作ってやろう。そして、ふかふかの布団で一緒に寝てもらおう。独りにして寂しくさせたぶん、うんと甘やかしてもらうのだ。大好きな大きな手に撫でてもらって、沢山抱きしめてもらうのだ。
そんな来るかもわからない未来に心を躍らせつつ、俺はエプロンを手に取りキッチンに立つのだった。