夏目本間破局if・二年後
 佳代と別れるときにも、このコーヒーが傍にいた。
 去年の夏、佳代は「たっくんの第一志望の大学行ってみたい」と言い出した。佳代が専門学校志望だということは知っていたので「何で?」と口にしかけ、しかし、すぐにその理由に思い至る。俺たちの高校で出される夏休みの課題がきっかけだった。大学のオープンキャンパスに参加し、その様子をレポートにして提出する……そんな課題が二年生に与えられるのは毎年の恒例であるらしい。軽音部でも、その課題のために練習を抜けることは「仕方ないよね」という扱いになっていた。
 俺が二年生のとき――それはもう一昨年にまで遡るが――にも、勿論その課題は出ていた。肝心の内容は、何を書いたのか殆ど覚えていない。ただ紙面を埋めるため、家から近い順にとにかく二カ所選んで、「収録と被らなければいいや」くらいにしか考えていなかったことだけは覚えている。
「参考にならなくてごめん。佳代は真面目だね」
 雑に課題をこなしたエピソードを、そんな風に締めくくった俺へ、佳代は寛容な笑顔を返した。その笑顔に違和感がなかったと言えば嘘になる。
 当時はまだ“通っている大学のカフェ”ではなく“第一志望の大学のカフェ”でしかなかったこの店に寄ろうと提案したのは佳代だ。
大学構内に二つあるカフェのうち一つを、「ブレンドがおいしいらしい」と佳代はどこからか聞きつけてきていた。俺はジンジャーエール、佳代は噂のブレンドを注文する。待つ間、いつものように佳代が彼女の日常について話した。先に専門学校のオープンキャンパスに参加していて大層楽しかったとか、でも学食はこっちの方がよさそうであるとか、そんな他愛のない雑談。楽しい時間は過ぎ去り、いつのまにか互いのグラスは空だった。
 帰り際、「思ってたより美味しかった」と後ろ髪を引かれた様子でいた佳代に黙って、会計のときに豆を買った。
「はい、お土産」とそっけない紙袋を差し出せば、「ええっ」と周りが振り返るくらいの声を出し、それでも素直に「ありがとう」と言った。かわいい。
「たっくんも飲もうよ。よかったら、うちに寄っていって」
 というわけで、実際に俺が飲んだのは佳代の家で彼女が淹れた一杯だが、あれ以来、このブレンドに何も考えず接するということが出来なくなっていた。忘れるにはまだ日が浅すぎる。
 そして今年の夏。“通っている大学のカフェ”で俺の向かいに座っているのは、佳代ではなく松尾君である。恋人ではなく友人である。松尾君はどう思っているのか知らないが、友人というか戦友というか、俺は現状をそんな風に認識している。メインの収入を担っている活動を一緒に行っているという意味では、同僚?
「……美味しいって評判らしいねー、そのブレンド」
「『らしいねー』って言いながら自分はジンジャーエールなの、夏目君っぽいよ」
「いやー本当だよ。美味しかった」
「リピはないかんじ?」
「あるかんじ。俺じゃないけどね」
「大学の友達?」
「ううん。佳代」
「……そうなんだ」
「気にしないで」
 松尾直樹という一つ年下で高校三年生の“同僚”は、三年生らしく大学進学を見据えて受験生らしい暮らしに切り替わりつつある。動画編集を一手に引き受けている彼の生活リズムがそうなってくると、流石に四人揃ってシリーズものを録れる環境ではなくなってしまった。ちなみに、今こうして呑気に茶をしばいているのも、松尾君が受けた公開模試の会場が近くだったから実現しただけで、彼が勉強時間を大きく割いてまで遠出をするということはもう殆どない。大変だねー受験生って。
 四人で活動している俺たちのうち、もう二人の同僚は、進学する気があるのかないのか、そもそも成績を卒業ラインに乗せることに躍起になっているらしい。四人一組のゲーム実況者グループとして活動を始めて二年、「既に稼ぎがあるからって、お前らそんなんじゃ駄目だろー」と言ったこともあるし、もちろん半分は本心だった。もう半分は「なるようになれ」、そう思っている。だって、なるようにしかならないし。その事実は、俺たち四人共、二年前の夏に痛感している。
 松尾君がコーヒーを選んだのは意外だった。『突っ込むほどでもないかな? って思いつつも、気になってるんだけどなー』と訴えかけるために、いつもよりもぎゅっと唇の端を引いて黙っている。知り合った頃によくやった、ゲームのコントローラーにまつわるやりとりみたいに。意を汲んだ松尾君の方から答え合わせをしてくれる。
「誰から聞いたってわけでもなくて、リツイートで流れてきたんだよ。美味しいって」
 佳代と同じだ。
「……美味しいって評判らしいねー、そのブレンド」
 去年の夏のことがあり、一拍、間を置いてしまった。松尾君がばしょーなら、その名を名乗ってユーチューバーとして活動しているときなら、もちろん彼の編集でカットされている間。あからさまな間。松尾君は、ちょっとだけ、しかし目に見えて狼狽する。「変かな?」と、口にはしないが目は口ほどに物を言う。ぱちぱちと瞬きが俄かに増えた彼の目を真っ直ぐに見つめて、俺は細く前歯を覗かせて微笑した。変じゃないよ、珍しいなって思っただけ。にこり。落ち着かせるための笑顔を送りつつ、『コーヒー頼むの珍しいよね、なんで?』って内心では思っている。もうすっかり安心した松尾君は、「夏目君っぽいよ」とか言ってきてるけど。
 俺が佳代と別れたことを「気にしないで」と言っても、気にしいの松尾君には難しい。分かっていて言った。俺に踏み込むことを躊躇した松尾君は言葉に詰まり、勝手に引け目を感じ、勝手に自分を曝け出した。
「ちょっと前に――」
 親しい人間にだけ分かる程度に眉を顰め、そう切り出した松尾君は、案の定例の幼馴染の名前を出した。あーやっぱり織田ね、とコメントしたくなる。『あいつは普段からコーヒーだし、それを当たり前と思っていて、他人にも何気なくそれを言うタイプだよねー』。頭に浮かべながらも、まず黙って一通り話を聞く。微笑を波立たせないようにしながら。
「――でさ、別に僕もコーヒー飲めないわけじゃないんだけど」
「なに、からかわれたの?」
「そう。いつものノリでね。過保護ぶるの好きなくせに、そういうところつっこんでくるから」
「それも過保護の一環でしょ? まあ……親だよね」
「え……やだ……」
「そろそろこれくらいできるようになりなさいよー、みたいな」
「……親なの? それって」
「あのねー、松尾君のご両親が普段めちゃめちゃに寛容なだけだから。普通、多少なりとも干渉してくるものだから」
「そういうものかな?」
「そういうものだよ」
 一旦会話は途切れる。編集点。思うともなく、そう思う。職業病かもしれない。
 お冷のグラスを取ろうとして、右手首から右肘の下にかけて左手が空ぶった。今日は洋服なんだった。顔出しで活動している中堅ユーチューバーが二人集まって目立ったら、面倒事を呼び込んだりするかもしれない。家を出る前にそう思ったために、そうせきの衣装として認知されている和服は今日は着て来なかった。ただ、入学当初は多少指を指されたりもしたけれど、今では、一人でいるぶんには何も言われなくなった。今日は二人だが、気づいた人が、「ねえ、あれ、あの席」と連れに耳打ちするくらいの反応しかない。
 グラスを取ったら、ちょうど注文の品が運ばれてきた。強炭酸のジンジャーエール。あっさりめのアイスコーヒー。
「模試おつかれー」
 グラスをささやかに掲げると、松尾君が少し低い位置にグラスを当てた。こういうところに距離を感じるよね、二年経っても。そんな風に思ってしまう。けれど、実際、彼は意識せずにグラスがたまたまその位置になっただけかもしれなくて、そうであるならば、俺たちの距離をいちいち測ろうとして二人が画面に収まる位置までカメラを引いているのは誰なんだろうね? 俺だ。そう自嘲してもいる。
 ドリンクには俺が先に口をつけた。それもそのはずで、松尾君はガムシロップの個包装を、ぷち、小さな音が聞こえるくらい、丁寧に開けている。ガムシロップはひとつで足りるかな、佳代は桃のサンデーと一緒に口に入れてちょうどいいって言ってたな、去年は桃のメニューがあったんだっけ? 我ながら、どうして今そんなことを思い出すのかと問い詰めたくなるような記憶が、頭の芯から飛び出して眼前に下りてきた。
 去年の夏、佳代の部屋には通されなかった。「座ってて」と言われ、家族全員が座れるテーブルの、彼女の父親の席にかける。何故それを知っているかというと、佳代が話したから。いつだって話すのは佳代の方。専門学校のことまで知っていたのもそういう理由。
 氷を満載したグラスにたっぷりのコーヒーを注ぐ後ろ姿を、俺はしっかりと見た。見納めだろうな、と分かっていたので。
「『これからも今みたいな関係がずっと続けばいいな』って、私には言ったことないよね」
 佳代が俺と別れたいと自覚したきっかけは、そういうことらしかった。
 一昨年の夏の、例の事件の生放送――或いはそのアーカイブ――は、もちろん佳代も見ていた。見ていて、呆れなかった。織田がそうしていたように、俺や俺たちが、俺と佳代の交際について視聴者に隠していたことも、責めなかった。「元々、部内でも隠してたし」、そんなふうに言って、更には「芸能人と付き合ってるみたいでドキドキするかも」とまで言い連ねて、終いには軽快に笑いすらした。デートはどちらかの家でというのが暗黙の了解になった。
「言ったことないっていうのを恨んでるわけじゃなくてね、普通に、先輩後輩に戻ってもいいなって思ったんだ」
 そもそも私の勘違いにずっと付き合わせちゃったようなものだし。
 佳代はともすれば聞こえなくなるような声量で呟きながら、グラスにささりっぱなしのマドラーをぐるぐる回している。いつも溌剌としている表情がすこし曇って、困ったように眉を下げている。それでも笑おうとしている佳代は健気で、かわいらしい、大事にされるべき存在だ、そう思う。けれど、それを解っていながらも大事にしてやれないのが夏目拓光という人間の性で、たぶん、この話に到った原因はそれだろう。
「私がたっくんと一緒にいたくなくなったら、一緒にいる理由、もう無いよね。たっくんもそう言ってたけど」
「……言ったね。最初に喧嘩したときに」
「あの喧嘩のことなんてまだ覚えててくれたんだ」
「もちろん。佳代とのことだから」
 というより、忘れるわけがなかった。あの喧嘩から巡り巡って、今ユーチューバーをしているようなものだから。――とは言わない。当然。いくらなんでもそれを口にしたらまずいことは解る。
 松尾君や織田、坂上と出会うきっかけになったあのライブ、に彼らを呼び込むきっかけになったPV動画、を作るきっかけになった喧嘩、へと到る口論の弾みの最初の一言。それが、付き合いはじめた頃に佳代が感情に任せて叫んだ「たっくんなんか嫌い」の一言だった。そう、それに対して俺が「そっちが俺を嫌いなら、一緒にいる理由ないから」と正直に返してしまったのでこじれかけた。今となっては昔々のお話。
「えーと、たっくんって、元々そういう感じだったでしょ?」
「そういう感じって?」
「我が道を行く、的な。健康法師もそうでしょ」
「うん、そうだね」
「最初は私の勘違いだったけど、でも、そういうところが好きだったの」
「ありがとう」
「好きなのは変わらないんだけど、付き合うってなったら……」
 わかる。喉元までせり上がってきた返答を飲み込む。十中八九、本当の意味ではわかってなんかいない。
「……私が好きになったのと同じだけ、私のことを好きになってくれる人が、私はタイプだったみたい」
 そうだろうね、そして俺は、君に好きになってもらえても君に好きを返せる人じゃなかった。
「ちょっと苦いかも……」
 目の前で松尾君は首を傾げている。一昨年の夏でもなく、去年の夏でもなく、今年の夏。今、俺の前でコーヒーを飲んでいるのは松尾君で、恋人ではなく友人で、友人はコーヒーフレッシュの蓋を開けている。
「ミルクのにすればよかったかな」
 いかにも普段コーヒーを飲まない人らしい、あやふやな言い方だ。
「いつもジュースだもんね」
「夏目君まで何か言う?」
「いやいや、そういうつもりじゃなくてね。これから慣れていけばいいんじゃない? ってこと」
「……やっぱ慣れた方がいい?」
 淡い色になったコーヒーをストローでぐるぐる混ぜている松尾君が、言いにくそうにそう呟いた。気まずさをあらわにした上目遣い。
「別に? かわいいよ、そのままで」
「ほら、すぐそういう風に言う! 織田のこと言えないからね?」
「あはは」
 本当にかわいいと思ってるんだけどな。
 年下は無条件にかわいく見える、そこから新たに知ったことを足したり引いたりして印象をつくっていく、そういう風に暮らしてきた。佳代は、漠然とした「かわいい」の域からついぞ出なかった。出なかったし、それでいいと思っていた。そこまでの興味でしかなかった。
「本当に飲めなかったら、換えようか?」
「そこまでしてもらうのはちょっと……」
 松尾君に対しての興味は、“そこまで”ではないということを、自覚してしまったきっかけがある。
 一昨年の夏、記念すべき指導室送りのあとに行った科学博物館。その帰り道で、織田が何気なく暴露したこと。何かの拍子に、軽薄な口調で、雑談でしかない言葉としての「松尾は俺も坂上も夏目も愛してるんだってさ」。
 そのときに、俺だけならいいのに、なんて考えが頭を過ぎった自分に気づいてしまった。踏み込みたいし、踏み込まれたいという欲に気づいた。ただ、それに気づいても、どうしようもないことはよく分かっている。今日も今日とて、松尾君に見られたい“夏目拓光”としての振舞いを無難にこなしている。ただの構われたがりであり、また、ただの構いたがりである自分を装う。本当は、特別に踏みにじられたいと思っているくせに。
 換えようか、と笑いかけながら揺すった自分のグラスで、ジンジャーエールの泡は弾ける。うまれては消える。それぞれが他の泡に干渉することなく、黙って消えていく。
「でも、飲めるよ。うん」
「美味しい?」
「分かんない……多分、美味しい……」
「じゃあ今度は不味いコーヒー飲み比べしに行く?」
「え、それどこ? っていうか、言ったら絶対角が立つけど」
「俺が淹れてあげる」
「いや美味しく淹れてよそこは。むしろ『夏目君の方が美味しいよね』みたいな、美味しさを更新していく方向に比較したい。不味さじゃなくて」
「うーん、でも松尾君は本当に、たまには不味いものも口にした方がいいと思うな」
 本心を混ぜ込みながら、いつもの笑い方をした。
 松尾君がそうであるように、俺だっていつでも語れるくらいにはこの愛に、その形に自覚的であるつもりだ。ただ、そうしちゃいけないっていう分別の方が絶対的に優先されているだけで。例えば、俺がみっともなく泣きながら縋りついて、松尾君に何もかもを打ち明けたなら。どれだけ好意的に見積もっても、無様でしかない。
 秘すれば花、その花が実をつけず、夜空に弾けて消える様こそを、俺は美しいと思う。この愛は、叫ぶには失うものが多すぎるので。
(了)
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愛lダlサ/松夏「愛なんて叫ばねえよ、夏」
初公開日: 2020年08月08日
最終更新日: 2020年08月11日
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