30日CPチャレンジ 普独 5日目
5. キスをする / Kissing
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「は、早くないか……?」
兄さんがこちらへ見せているスマートフォンの画面を見て、俺はそう言うのが精いっぱいだった。
「そうか?」
「だって……まだ五日目だぞ?」
思わず声が震えかける。ともすれば逃げ出しそうになるのを、俺は必死で堪えた。
兄さんと机を挟んで座っていて助かった。真正面から見据えられるのは落ち着かないが、距離が近い方がもっと落ち着かない。もしいつものようにソファに座っていたら、俺は距離の近さに耐え切れず逃げだしていただろう。
「俺様は早くねぇと思うけど?」
「早い。その……キ、キスだなんて!」
兄さんが持つスマートフォンの画面には、「5. Kissing」と書かれていた。
「いいじゃねぇか! キス、しようぜ!」
「無理だっ!」
必死で首を横に振る。すると対面に座る兄さんはふてくされた様子で唇を尖らせた。
俺と兄さんが恋人という関係になってから今日で一週間と五日だ。あと二日もすれば恋人歴が二週間になるというにもかかわらず、俺と兄さんは恋人らしいことを一切できずにいる。いや、したといえばした。手を繋いだりハグをしたり一緒に映画を観に行ったりデートをしたり。どれもこれも、兄さんが見つけたリストのお題に沿ってできたことだ。《30 Day OTP Challenge LIST!!!!(30日チャレンジ》という題を冠したリストは、その名の通り三十のお題を挙げている。恋人らしくなれない俺たちは、五日前からそのお題を順番にこなしていたのだった。
そして五日目の今日。お題は、「キスをする」だった。
「ちぇー、そんなにお兄様とキスするのが嫌なのかよー」
机に両肘をついて、兄さんは自分の頬を自分の両手で挟んでいた。唇を突き出して、まるで拗ねている子どものようだ。
「嫌とは言っていない。駄目だと言っているんだ」
「何が駄目なんだよ」
「うぐ、」
思わず言葉に詰まる。兄さんから視線を外して、俺は顔を横に向けた。
「彼氏様とキスしたくねぇのー?」
「……」
したい。
したいかしたくないかと言えば、迷うことなくしたい。
今までの、ただの兄弟という関係性だけでは満足できなくなったから、俺は兄さんに告白したのだ。したくないわけがない。けれど。
ちらり、と兄さんを見る。一秒だけ見て、俺は再び視線を兄さんから外した。駄目だ。かっこよすぎる。
「まぁ、やりたくねぇなら無理にとは言わねぇけど?」
「……やりたくないわけじゃない」
小さな声で呟くように応える。
傍から見れば、なんて面倒な男だろう。駄目だ。けど、したい。けど駄目だ。でもやりたくないわけじゃない。
もし俺の部下にこんな物言いをする者がいたら、はっきりしろ、と怒鳴っているところだ。
けれど、兄さんは俺を怒らない。怒らないだろうと無意識に分かっているからこそ、俺はこんな煮え切らない態度を取っているのだろう。はっきり言って、これは甘えだ。
「何が駄目だ?」
ほんの少しだけ静かな口調で、兄さんが問う。静かだが、優しい声色だ。まるで、幼いころに戻ったようだった。
兄さんは飴と鞭の使い方が上手い。厳しい時はとことん叱るくせに、こちらが何か言いたげにしていると優しく促してくれるのだ。部下によっては、いきなり静かになるのが怖い、と言う者もいるが、俺はそう思ったことは一度も無かった。自分の言葉をまとめて口に出すのを忍耐強く待っていてくれるのだ。これが優しさでなければなんだろう。
自分で考えた答えなら、兄さんは間違いを指摘することはあっても揶揄することはない。そのことを長年の経験で知っているから、俺はゆっくりと口を開いた。
「……やり方を、知らない」
「俺様が教えてやるよ」
それじゃ駄目か? と兄さんがこちらを見つめてくる。銀色の睫毛に縁どられた赤い瞳が、真っ直ぐ俺へと向けられていた。
「けど、その……」
何が駄目だというのだろう。
恥ずかしい?
確かに気恥ずかしさを感じてはいるが、ここには俺と兄さんしかいないのだから気にする必要は無い。ないはずだ。
いっそ強引にキスをしてくれたら良いのに。俺が余計なことを考える暇なんて無いくらいに突然に、俺にキスをしてくれたら良いのに。
かつては略奪で有名だったくせに、こういう時ばっかり行儀正しいんだ、兄さんは。
「その……」
頭の中と口の中で言葉がぐるぐると回る。何を言いたいのか分からないままに、俺は口を開いた。
「……兄さんは、兄さんだから…」
そう呟くと、兄さんは「なるほどなァ」と合点がいったように笑った。
何がなるほどだ。
兄さんは立ち上がると、俺の手を引いた。促されるままにイスから立ち上がり、そのままダイニングから一続きのリビングへと進む。兄さんは俺に、テレビの真正面に置いてある三人掛けのソファに座らせた。
俺の右手を持ったまま、兄さんがこちらを見てくる。その瞳を見返せば、兄さんは唇の端を吊り上げるようにして笑った。何かを企んでいる時の顔だ。そして、俺の好きな表情。
「ムードが欲しいわけだ、ヴェストは」
「むー、ど」
「いいから俺様に任せとけって」
そう言うと兄さんは、俺の手を引いてその甲に自分の唇を寄せた。目線は俺に向けたまま、俺がどんな反応をするのかを、見ている。
ゆっくりと、ことさらにゆっくりと兄さんは俺の手の甲にキスをした。
「に、さ……」
「しっ」
自身の人差し指を唇の前に立てて、囁くような声で兄さんが言う。俺が口を閉じたのを見てから、兄さんは俺の手をひっくり返した。
「愛してる、ヴェスト」
「っ、」
兄さんの赤い瞳が俺を見る。まるで金縛りにあっているかのようだ。兄さんの唇がゆっくりと俺の掌に触れた。
「次は、デコな」
ゆっくりと兄さんが距離を詰めてくる。嫌なら逃げろ、と言わんばかりに隙だらけだ。けれど俺は逃げるどころか指一本動かすことも出来なかった。兄さんの眼から視線が外せない。
兄さんが俺の頬に手を伸ばす。思わず目を閉じると同時に、兄さんの手が俺の頬に触れた。
「っ、」
「可愛ぃ」
もし声色に味があるとすれば、兄さんのその言葉は蜂蜜よりも甘かっただろう。
俺の頬を、兄さんの手が撫でる。剣ダコとペンダコのあるかさついた掌の感触。他でも無い、兄さんの手だ。
頬に触れていた手が、優しく俺の顎をすくい上げた。ほんの少しだけ上を向く。今までに見てきた数々の作品のキスシーンが、俺の頭に思い浮かぶ。まさにあれだ。キスをする直前の体勢。
心臓の音がうるさい。兄さんに聞こえてないだろうか。
顎に添えた手はそのままに、兄さんの逆の手が俺の額に触れた。
「まだだぜ、ヴェスト。次はここだって言っただろ?」
吐息だけで笑って、兄さんは俺の額に指で触れた。
兄さんはどんな表情を浮かべているんだろう。目を閉じている俺には何も分からない。
指が離れて、そして、指よりも柔らかいものが俺の額に当てられる。たった一秒のそれが妙に熱く感じた。
「まだ目、開けんなよ」
何も見えない視界の中で、兄さんの声だけが聞こえてくる。微かに届く吐息の感触や衣擦れの音で兄さんが傍にいることは分かるのだが、それでもなんだか心細くなって俺は思わず兄さんに手を伸ばした。
俺の意図が分かったのか、兄さんが俺の手を自分の身体へと誘導してくれる。触れた兄さんのシャツを、俺は思わず握り込んだ。
閉じた視界に影が差して、兄さんが再び身体を近付けてきたことが分かった。いよいよ、唇、だろうか。
緊張とおそらく期待に身を固くしていると、兄さんの唇の感触が俺の右瞼に降りてきた。その後反対側の瞼にも触れる。
唇じゃ、なかった。
なんだか恥ずかしくなって、俺は俯いた。
駄目だ駄目だと言っていたのに、いざとなったら貪欲に期待して欲しているだなんて。
「ヴェスト」
優しい声で兄さんが呼ぶ。少しざらついたこの声が、俺は昔から好きだった。張り上げすぎて枯れた声は、兄さんが前線で戦い続けた証だ。
「顔上げろ」
兄さんの声に従って、ゆっくりと顔を上げる。
「目、開けろ」
ゆっくりと瞼を開けると、視界いっぱいに兄さんの顔があった。普段外で見せないような大人しい表情を浮かべている。俺が愛おしくて仕方がない、そんな顔だ。
兄さんはずるい。ただでさえかっこいいのに、そんな顔されたら心臓が爆発してしまいそうだ。
「……悔しい」
「何がだ?」
「俺ばっかり、ドキドキしてる……」
拗ねるような口調になってしまった。兄さんは小さく息を吐いてから俺の手を取って、自分の胸に宛てた。
「ヴェストだけじゃねぇって」
兄さんの薄い胸の奥から、心臓の鼓動が伝わってくる。まるで全速力で走った後かのように激しく脈打っていた。
同じだ。俺と。
兄さんも緊張しているのだと思うと、なんだか気が抜けた。
「ふは、」
思わず笑うと、兄さんの肩の力も抜けたようだった。
「兄さん」
「ん?」
「好きだ」
思ったよりもすんなりと、言葉が口から滑り落ちる。俺の言葉を聞いた兄さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……俺も」
ああ、やっぱり俺は兄さんのことが好きなんだなぁ。そう思うと同時に、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
初めてのキスは、兄さんの淹れるコーヒーの味がした。
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