「ねぇ、覡くん。ちょっとこっち向いて?」
その言葉で白い髪が散って、そして間もなくまっすぐな双眸が二見を見た。馬鹿正直に怪異に従うその危なっかしい純粋さに言いたいこともあったが、それよりと二見は覡の白い額に手を当てた。
「うわぁ。ねぇ、そういえば水分とってなかったよね。休まないの?」
「いや、あと見ていないところがあるんだ。そこさえ行ったら休むから」
「駄目でしょ。それにこんなに熱くなってるのに休まなかったら脱水、だっけ。そんなのになっちゃう」
二見が人間の体調を気にかけているというのも珍しいことだった。しかしそれくらいに覡の体調は怪異から見ても悪そうな、いや実際に悪かった。足取りも先ほどからまっすぐではなかったし、小さな念縛霊の討伐が終わってからもしばらく壁によっかかっていたほどだ。どうにも心配性というか、お気に入りのものに対して敏感な二見は一般的な人間の観念に従って彼を休ませようとした。覡はただでさえ白い肌と白い髪の持ち主なのだ。それに加えてその日のハードワークを考えると懸念はぬぐえなかった。
「大丈夫ですよ、心配してくれてありがとう。少し休んだら大丈夫だから」
そう言って覡は西日が差す路地の壁に背中を預けて息を吐く。オレンジがかった灰色は温度をあげている。内心ひやひやしながら見ていた二見であったが、彼はほんの一瞬目を離した。ほんの一瞬のその隙に覡は真っ赤になった顔に影を落としてその後ずるりと地面に尻をつけた。視線を戻して彼の様子に気づいた二見は覡のもとに駆け寄った。
「あぁもう、やっぱり……どうしよう。このままじゃ熱中症?になるんだっけ」
彼は口元に手を当てて少し考え、誰もいないことを確認した。そして、
「涼しいところ、うーん。まぁ、覡くんならいいよねぇ」
そういうが早いが彼は自身に格納されている『地獄』を展開させて包み込んだあと、自身も『地獄』に潜り込んで外から見える入り口を閉じた。
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重い瞼を開けた覡の視界に最初に目に飛び込んだのは、木の太い梁であった。
慌てて体を起こそうとするが、まだ少し熱を帯びている頭には刺激が強かったのか、締め付けるような痛みと視界の歪みが差し掛かる。畳と彼の服が擦れる音は小さいはずなのに、彼がいる空間__日本家屋には人の気配を感じないゆえかやけに大きく聞こえた。
「二見さん、二見さん!」
「あ、起きた」
覡の言葉に反応するように、いつの間にか覡の横で二本のペットボトルを持っている二見が姿を見せる。驚いたように肩を跳ねさせる覡の首筋にペットボトルをあてた。
「ひゃっ!?」
「あはは、驚かせちゃった、ごめん。ここはおれの『地獄』の中だから、安心して。飲める?っていうか、飲んで」
押し付けるような形でペットボトルを渡した二見の笑顔を拒むことが出来ず、覡は指先の力でキャップを開けた。口をつけるとそれは麦の香ばしい匂いと味が口の中を抜ける。ヒビが入っているかもしれないという錯覚に陥らせるほど乾いていた覡の口の中が潤い、そして独特の力の抜ける感覚がした。
「あ、これ携帯でしょ?」
「時間、今どれくらいですか……」
「ここの時間はおれが好きなように出来るから安心して。でも、覡くんの体調がちゃんと戻るまではおれも出さないつもりだし、今日はもうこれ以上行かせないよ」
「……それもそうですね。ごめんなさい、迷惑をかけて」
善意のすれ違いというか、怪異と人間の感覚の違いというか、ともかく彼等独特の会話のずれを残しつつも『休む』という口約束を立てる。覡の肌を過度な湿気も人工的な冷たさでもない適温の空気が撫でる。なんなら奥の空間に聞き耳を立ててしまえば蝉の音も聞こえるくらいだ。二見の『地獄』の話はかねがね聞いていた覡であるが、こうして実際に刮目するのは初めてである。ここまで自由度のきくものなのかと感心していると、二見がいつの間にか部屋に置かれていたテレビのリモコンでチャンネルをあちこちに変えている。
「ねぇ、これ外を映してるんだけどね。見て見て」
そう言って他意なく肩を寄せて二見はテレビの画面を見せる。そこには夏の夜を彩る提灯の光とそこで動く活発な人々が映し出されている。しかし、覡は直感で『これは怪異だ』と理解する。それが覡の祓い屋の勘であるかそれとも二見という怪異の領域にいることでの感覚強化なのかは定かではない。
「これ……『マツリ』ですか?」
「そうなんだよね。この飲み物もあそこで買ったんだ。あ、半分は飲んでね」
「う、わかっています」
こくこくと少しずつ麦茶で喉を潤しながら、覡は自身の理解の及ぶ範囲で『マツリ』がなんであったかを思い出す。
いくつかの条件のもと成り立つそのマツリは、怪異も人間も無礼講というか深く気にしなくていい空間であると聞く。それと同時に、その条件を破ったら結解からはじき出されたり場合によっては攫われるということも思い出す。今までは話に聞いただけで彼のいる地域に訪れることはなかったと彼は記憶していた。自身の手の届く範囲に、その怪異がいる。その事実だけでも覡は浮足立った。
「行く?マツリ」
「えっ」
「大丈夫。おれがいれば、攫われることもないし喧嘩になることもないと思うから」
そう言ってにこりと笑う二見の様子はあくまでいつも通りだ。一人での行動が危険だと言われているマツリで手に入れた飲み物はあくまで自身が飲んでいるものであることを確かめる。
「……一応、悪霊とかがいたら一般人が危ないですしね。行きましょう」
「多分大丈夫だよ。だってお祭りとかは元々霊を慰めるためのものなんだから。むしろ悪霊だからっていってむやみに仕掛けちゃこっちが危険な人って思われちゃうから」
「そう、ですか。あなたとは一度その、お祭りとかに行ってみたいなって思ってたんです」
そう言ってはにかむ覡は二見の目からは年齢より少し若く映る。彼を怪異の目に晒していいものだろうかと彼にしかわからない悩みを思ったりもするが、仮に一人でマツリに遭遇してしまうよりかはいっそ見せてしまったほうが安全だ。その考えに行きついた二見はその笑顔を崩すこともなく柏手を一つ打つ。先ほどまで外での服装と変わらなかった覡の服装は紺地に白のからせみがあしらわれている浴衣へと変わっていく。
「あまり目立って危ないものの気を惹いたら駄目だから、一応ね?」
グレーのラグランTシャツに、ジーンズ。そんなあまりにもラフな格好をした七海は、手にしているりんご飴を見ながら困惑の表情をしていた。
事の顛末を話すと、仕事が早く終わったからということでいくつもあるお祭りの中でも少し静かな雰囲気のところに足を踏み入れていた。面や布で顔を隠している人が多いなとか、外なのに寒気が止まらないなとかそんなことを思いながら歩いていた。屋台を物色しては、かつて胸元に提げている指輪のもう片方をはめていた妻と歩いたお祭りを思い出しながら。しかし、そんな郷愁の思いもある少女がりんご飴を彼に突き出したことで削がれてしまった。狐の面の下の表情は悟れず、着物のような巫女服のようなよくわからない格好、「代金不要」と言ったその声になかった子供っぽさ。それに対して片手にはりんご飴を持っているのだからなんだかそれがミスマッチな気がして、ついその飴を受け取ってしまったのだ。
「……鯉口、なんか言ってた気もするんだけどな」
祭りでは食べ物がどうとかいう同僚の言葉が気がかりというか心残りというか、ともかく様々な要因が絡んで中々その飴を食べる気にはなれず今に至っているというわけだ。
「これどうすりゃいいんだよ……捨てるのは嫌だしなぁ」
お祭りで獲った金魚がトイレに流されただの様々な問題がつきものであるが、メディア系の会社に勤務している彼は余計にその話題に神経を引っ張られてしまう。
「食べないより、食べたほうがいいのかな」
そう言って七海は袋をバリ、と破いてその袋をポケットに突っ込んだあと、改めてそのりんご飴を見る。ほんのり赤い飴が艶めいて、林檎をより美味しそうに引き立てている。その甘い香りは否が応でも彼の食欲を刺激する。そして彼はそれを口に入れようと近づけた。しかし、その時だった。
「それ、食べちゃ駄目よ」
「えっ」
彼の行為は少し低い女性の声にさえぎられる。耳がいい彼は直感でその人物が知らない人だと悟り、その声の方向を見た。明るい茶髪の下で光るような橙色と赤色の瞳がこちらを引き付ける、そんな女だ。その身には黒地の着物。ただ普通の着物と違うところをあげるとするならば、それには金や銀の染料で美しい鞠が描かれたいたところであろうか。ともかく、その人物は露店の光を浴びながらもそれらと同じような力強さを持ってそこにいた。彼女は七海のもとに歩くと、その手にあったりんご飴をひょいととりあげて地面に落とした。あっと七海が声をあげるのも無視して、彼女はりんご飴の飴部分にヒビが入るまでその焼きの台の草履で踏みつぶす。唖然となる七海にしびれを切らしたのか、間もなく彼女は彼の手を掴んでそのマツリの光がふりかからないところまで引っ張った。七海は少々いやかなり強引な様子の彼女に何か言いたげにしていたが、だからと言って言いたいことも思いつかず、口をつぐんだ。
コンクリート壁に凭れ掛かって息を吐く七海に、女ははっきりした声でまくしたてる。
「さっき、あれから飴を受け取るのを見てたのよ。食べないでしょ普通、あんなもの。っていうか怪異から受け取った物を食べようなんてどんな神経してるのよ」
「食べてたら、どうなってたんだよ……っていうか、あれ怪異だったのかよ」
「ろくなことにはならないでしょうね。怪異から差し出されたものなんて食べたらろくなことにならないじゃない」
と、ここまで話したところで女はさっと血相を変えたかのように驚いた表情をした。七海の目にはどうもコミカルに映ったが、今の状況で笑ってはいけないと察したのか俯いて誤魔化す。
「っていうか、貴方はあそこが何かわかってないって言うんじゃないでしょうね」
「……ごめんなさい、そのまさかです」
「考えられない……」
呆れたようにため息を吐く彼女に七海はなんとなく苛立ち、そして吐き捨てる。太鼓や篠笛、摺鉦の音はまだかすかに聞こえる。
「っていうか、アンタ勝手にあそこから連れ出したくせに名前も名乗らないのかよ」
「それもそうね。私は富野。富野二郎っていうのよ。好きに呼んで。あれはマツリの怪。ニュース見てないの?」
おちょくっているようなその口ぶりに七海の苛立ちは募るが、あまり強く言えない立場である以上、ぐっとこらえる。
「ここ最近仕事が忙しくて見れてなかったんだよ。……っていうか、アンタなんか普通と違う感じっていうか、なんていうかそのー……祓い屋とかその部類か?」
ぶっきらぼうに言い捨てたその言葉に富野は目をそらして考えるような仕草をしたが、間もなく咳ばらいをした。
「ええ、まぁそうね。『トミノの地獄』……そう言ったらわかるかしら」
「えっ」
知らないわけがない。教科書部門の人が別の出版社でその詩が載っただのなんだので騒いでいた記憶があったから。
「あれ、人の形してたんだ……」
「伊達に戦争二回見てないわよ。何?それで、貴方はどうするの?」
「何って、戻るよ」
「死にかけたのよ!?」
「……その時はその時でしょ。オレだって怪異と人間の区別はつくけど、あんなにごった返してたらわかんねぇし」
「だからってもう一度飛び込む必要はないでしょ……それに、あそこを一人でうろついて御覧なさい。またあれの餌食になるわよ」
怪異とは言えあまりにも彼の私情内情を無視した発言。とうとう顔を赤くして怒鳴りつける。
「なんだよっ。じゃあなんだ?お前が一緒に来いよ」
「いいわよ」
「……えっ」
親戚の遺品を追い求めなくてはいけなくなったり妻のことであったりで心労を極めていた彼の思考はとうとう停止する。彼の想定一段二段飛び越えた発言は彼にとって度し難いというか理解の範疇を越していて処理が出来ない。眉間に皺をよせて呻っていたが、やがてふっきれたのか諦めがついたのか、言葉をそこに置いていくように言う。
「じゃあ、勝手に来たらどうですか」
そう言って歩みだす七海を心配するように、富野は追いかける。草履の音が耳について、それをマツリの賑わいでかき消してほしいと言わんばかりに彼は人波に飲まれた。
彼が電話に応じて真っ先に聞いたのは、仲間のしくじりであった。
「どういうことだい?」
『サツ連中、受け子の連中が群れてるところにがさ入れしたってんだ。どうする語部?』
「……知ったこっちゃないよ。別にアイツらが警察になんか吐こうが俺たちにダメージはないさ。勝手にぶちこませとけ」
そう言って彼は一方的に電話を切った。ああは言ったもののその界隈では顔が知れている彼である。目立ちたくもないと彼はつい先ほど遭遇した面塗れの怪異からもらった兎面で顔を隠す。
「……めんどっちいね、全く。あたしが何したってんだ。いや、してるかしてないかって言うならしてるけどさ」
草履で擦り歩く彼の声は疲れたようである。ふらりと歩む先には、彼と同じように面や布で覆い隠したようにしている『何か』が騒がしくしている。
「攫ってくれんなら、万々歳。そうじゃないなら、うーん……その時考えっか」
禍をその身にまとう男は、死さえも嘲笑うような顔を隠しながら喧騒に踏み込んだ。
マツリが賑わう夜は、まだ明けない。