青い爪の男
目が覚めて、最初に気づいたのは雨音。今は梅雨の最中で、だからあぁまた今日も雨か、と途端に憂鬱になる。それから雨音がやけに大きく近く聞こえて違和感。窓が開いてるのか?ならば閉めないと、中に吹き込んでは建材が傷む。そうしてやっと開いた瞳に映ったのは、見覚えのない部屋だった。
あぁ、昨晩、なにがあったか、ちゃんと覚えている……。
まずはじめに言い訳が許されるのなら、こういうことは初めてなのだ。つまり、そう、酒に酔って誰かと……その場で初めて知り合った誰かと関係を結ぶようなことは。完全に記憶がぶっ飛んでいたらまだ救いがあったかもしれないが、悲しいかな深く酔えど記憶をなくす体質ではなく、おかげで翌朝如何ともできない状況で頭を掻き毟ることになる。
ひどくセクシーな男だった。
たまに立ち寄るその手のバーでーー落ち着いた内装や真面目で硬い店主の醸す雰囲気のおかげで浮ついた空気のない居心地の良さが好ましく、出会いだのなんだのよりもそこでひと時を過ごすことを愉しみとして通っている店なのだが、昨夜はカウンターのいつもの席でスコッチウイスキーを舐めるようにゆっくり飲んでいたその隣に、スッと気配なく座った男がいたのだ。そう、あまりに静かに現れたので風景のように溶け込んでいた。だのに、その風貌は誰の目をも惹く苛烈さでその場にいたものの注目を集めた。黒いパーカーのフードを深く被り、高い鼻梁が覗く。肌は透き通る白。フードから溢れる長い髪は漆黒なのに灯りがあたると濃紺から翡翠のような光沢を零す。広い肩幅と厚い胸板。身体が鍛えられた硬い筋肉に覆われているのは厚い服越しにも容易に見て取れる。黒いデニムパンツに包まれた脚がすらりと伸び30センチを超える大きさのスニーカーがカウンター下の陰で床を踏み締めている。
異次元の者を見ている気分だった。いつもより少し酔っていると気づいたのはその時だった。どくどくと波打つ血流が熱を全身に運ぶ。日頃のストレスとか、ここ最近の寝不足気味の生活とか……要因が重なって、どうも酒のまわりが速い。手元が覚束なくなり、枷を外れた指がグラスを行儀悪く音立ててコースターの上に着地させる。少しいい加減で少し投げやりで……酔った勢いとはこういうことを言うのだろう。私はあろうことか、その目を惹く大きな男を酒の肴にしようと思った。別に声をかけもしない、話をしたいわけでもない。ただ頬杖をついて少し斜め下から、その偉丈夫を眺めて酒を呑もうとしただけ。
そうして夢うつつなふわふわとした気分で美しい造形美を肴にグラスを一杯空にし、ご機嫌にもう一杯追加しようかとしたところで、その作り物のような男がこちらを向いた。カウンターに肘をつき、下から覗くようにこちらにグイと顔を寄せ……両頬に赤いラインのタトゥーのようなものが見えた。白い肌にやけに似合うソレをぼんやり眺め、その上にギラリと光る赤い宝石が2つ。それが彼の鈍く光る瞳だと気づいた時には私の手首は彼の骨張った大きな手に捕まえられていた。
「ヒトの顔見て呑む酒はうめぇかい」
恐怖は特になかった。私は無邪気に笑って頷いた……良い気分で酔っていたのだからわかるだろう?
「あぁ、とてもうまい。君は美しい」
「……。それは誘ってんのか?」
「?誘う?なにを……あぁ、君にもこの気持ちを味わってほしいものだが、いかんせん君以上に美しい物がいないから、困ったな」