潮騒のような音が頭上を満たしていた。
さて視線を竹林から地平に戻せばそちらは灯りの下でやいのやいのと騒ぎ声。一味の面子が小さな紙片を片手にああだこうだと騒いでいる。ワノ国由来の風習で、夏に願い事を紙に書いて笹に結ぶというものだ。島民に混じって楽しそうで結構なことなのだが、彼らが願い事を書いた紙を結びつけているのはどう見ても竹だし、加えて現在この島は秋の頃合い。風情も何もあったものではない。
が、まあ、風習というものはそういうものなのだろう。
由来の故事があって、伝える人がいて、伝わる時と場所がある。形は大分変わっても、願い事を何かに託すという根幹は抱いたまま、ちぐはぐな行事は島に残り続けているようだ。
無論、ゾロは何かに願い事をするような人間ではないので、騒ぐ一味と竹林と夜風を肴に島の地酒の方を楽しんでいた。何も敷いていない地面に直接腰を下ろし、手酌どころか瓶のまま酒を楽しむ。一味にとってはいつものことなので注意は飛んでこないし、柔らかい草地の地面はまだ夜露のない時間帯。冷たい夜風と竹林のざわめきは心地よくて、つまみもないのについつい酒が進んでもう三本目だ。
「てめえ飲み過ぎだぞ」
輪から外れている身内は他にも一人。呆れ顔のサンジは紙片とペンを手に、しかし白紙のままドカドカとゾロに近寄って酒瓶に手を伸ばした。まだ飲む気なのでそれをさらりと躱し瓶を煽る。はぁ、と呆れた溜息が聞こえた。
「いいのか?」
言葉少なに尋ね、ゾロはサンジの手元の紙片を睨んでから改めて目を合わせた。
「あぁ……どうすっかな」
てっきり「世界中のレディとお近づきになれますように」だとか「もうつまみ食いされませんように」だとかを書くと思っていたが、サンジは存外仲間と違って盛り上がってはいない様子だった。それでも紙とペンを置いてはこなかったあたり、何か含むところはあるらしい。
サンジは黙ったままゾロの隣に腰を下ろした。そのまま再びゾロの方へ手のひらを向けてくる。今度は奪うつもりではないらしい、とそちらに酒瓶を手渡せば、一口煽ったサンジはそのまま瓶を返してきた。
「てめえは書かねえんだろ?」
「ああ」
「おれは……」
その横顔に覚えがあった。
もう心は決まっていて、実行する気であるのに、後ろめたさがあっていつ一歩を踏み出そうかと迷っている顔。
サンジがいつもそんな顔をしているわけではない。ゾロが二一年生きてきた中でほんの数回、そういう顔を見てきただけだ。厄介なのはその横顔をした者は大抵ゾロや身内にとって見当違いの方向に決意をしていて、放っておけばわりととんでもない害になりかねないこと。
たかが願い事ではあるけれど。
「昔の航海ってのは」
「あァ?」
願い事の話で何故航海に話題が飛ぶのか。怪訝な声を出したがそれをまるきり無視し、サンジは紙片を見下ろしたまま続けた。
「今より技術がなかったから、神頼みすることも多かったらしい」
「……」
相槌の代わりにゾロも酒を煽る。
「そりゃ水夫や航海士の腕前で無事に乗り越えられるならそれに越したことはねえけどな。航海ってのは結局海と天候との戦いだ。今だってどの海でも事故があって、沈む船がある。昔は相当だったろうよ。だから技術でカバーしきれねえモン――嵐とか、地震とか津波とか、そういうモンが起こらねえように、お祈りしてたんだと。
出港前に祈願祭があるとか、船に縁起のいい意匠を彫り込んだりな。船首像が海の神様モチーフだったりもした。そうやって、人間じゃどうしようもねえことは神様がどうにかしといてくれって頼んでから航海したんだとさ」
人間にはどうしようもないこと。
ゾロが祈らないのは、己の夢や仲間の征く道を自らの刀で選んで守っていきたいからだ。そもそも願いだの祈りだの考えたことがなかった。それでも人の手に余ることは必ずあるということについて、一応同意しないでもない。
サンジはペンのキャップを口で咥えて外し、そのままゆっくりと紙片にペンを走らせた。
その手元の文字は、夜であるとてゾロにもきちんと読むことができて。
「それは――」
思わず、一言挟まずにはいられなかった。
「その内容は、てめえがいりゃ願う必要はねえだろ」
「馬鹿だねえ阿呆マリモ君は」
「あァ!?」
案外真面目な話の後、存外真面目に口を挟んだつもりなのだが、サンジのセリフは――セリフ通りあからさまにゾロを馬鹿にしていて、となれば声を荒らげないわけにはいかない。しかし勿論サンジは怯みもせず、察しの悪い子供を諭す口調で続けた。
「コックがいたってどうにもならねえことはある。荒野の無人島が続いた、海軍駐留で手が出せなかった、補給する暇もねえ事件が起きた。そうでなくとも冷夏やら虫害やらで作物の収穫ができなけりゃ余所者に回す食料なんてなくなる。
食べ物ってのはな、人間が技術を磨いたり警戒したりしたって、どうにもならねえ時がどっかで絶対起こるんだよ」
だからこれでいいんだ、と言ってサンジは立ち上がり、皆の方へ向かって歩き去っていった。しばらく黙って見守れば、彼はルフィやウソップと笑い合いナミにメロリンした後に、その紙片をしっかり竹に結び付けていた。
――誰も飢えませんように。
サンジが幼少の頃、飢餓を経験したのは知っている。
寝物語で少しだけ分けてもらったその過去について、ゾロは詳細を知らない。教えてもらったかも知れないが覚えていない。そして、
――そして、サンジのその願いに、何が含まれているのか悟れない程浅い仲でもなかった。
コックがいたってどうにもならないことがある。それは紛れもなくサンジの本音だろう。ゾロだって説明で納得はした。サンジは航海中きちんと管理して皆に食事を与える技術を持ってはいるが、それは食材が無事補給されていればの話だ。霞からハンバーグは出てこないし、酒もパスタも作りようがない。
だからこそ納得はしたけれど。
「……難儀なコックだ」
その願いには、きっと単語が抜けている。
「救世主にでもなるつもりか」
――世の中の、誰も飢えませんように。
件の飢餓は、ゾロが覚えている限りでも、覚えていることからしても、サンジの根幹に今も傷を残した酷いものなのは想像がついていた。そして彼は筋金入りのコックだ。調理だの何だのの前に、彼は一人の人間として、誰かが飢えるのを良しとしないし望まない。
それが結局、ただ一人の人間であるサンジがいくら足掻いたとて、叶わない願いだとしても。
叶わない願いだからこその、祈りとして。
ゾロは酒瓶の中身を全て飲み干し空き瓶を放ると立ち上がった。仲間に向かってゆったり歩み寄ると、一番に気付いたのはやっぱりルフィだった。「ゾロ! 願い事見つかったか!?」「無え」「えぇー! 楽しいのに! なんかねえのか! 美味い酒がほしいとかそういう!」「ああ、うん? たまには良いこと言うな船長」軽口を言い仲間達の輪に入りながら、ふとサンジの気配を探る。
視線は流さず、背中で捉えた気配は、すっかりいつもの賑やかなサンジのもので。
だからゾロは、先程確かに捉えていた違和感と、彼が紙片に託した願いの一つを、先程の酒と一緒に意図的に喉奥へ閉じ込めた。
その横顔に覚えがあった。
もう心は決まっていて、実行する気であるのに、後ろめたさがあっていつ一歩を踏み出そうかと迷っている顔。
――誰も飢えませんように。
その願いには、きっとまだ単語が抜けている。
海賊稼業は何が起こるかわからない。偉大なる航路、新世界という難所を進む一味は世の中珍しい少数精鋭で、船仕事にしろ戦闘にしろ一人の人間が負う責任が大きい。だからこそ、きっとルフィ以外の皆が――二年の期間を置いてこそ頭の片隅で考えているものがあることを、ゾロはなんとなく悟っていた。
それはきっと、皆の中にもあって、サンジの中にもある。
誰の中にもあるからこそ、皆は奮起してしっかり甲板に足を踏みしめ立っているのだが、きっと彼の胸中には別のものが芽生えているのだと、ゾロは気づいていた。
――おれがいなくなっても、誰も飢えませんように。
そんなつもりはないけれど、万が一途中で離脱するようなことがあっても、先に死ぬようなことがあっても、代わりの優秀なコックがすぐに見つかりますように。
どうか皆が飢えませんように。
それは、サンジが一人一味の前から姿を消す、二ヶ月程前の小さな願い事だった。