死んだ妹の残した小説
名前
仁杉菊……姉。語り手
仁杉糸……妹・自殺する
自殺したダム……自殺スポット
「ああ、そうなんですね」
1週間前から行方不明になっていた2歳下の妹・仁杉糸が発見されたと連絡が入ったのは、長く続く梅雨の合間に訪れた束の間の快晴の日。木曜日のことだった。仕事の昼休憩にメッセージの通知をチェックしていると、警察から電話がかかってきたのだ。原因はまだわかっていないが、おそらく自殺だろうというのが相手の見解のようだった。
身近な人間の死に出たのはたった一言だけ。勿論それに驚いたが、電話相手の警察官が特段気にする様子もなく話を進めたのには更に驚いてしまった。
なんとなくそうだとは思っていた。しかし、「やっぱり」と付けることはできなかった。糸がいなくなる数日前に電話した時には、彼女は死とはかけ離れた調子で話していたからだ。頭では理解しているはずなのに。感情がそれを拒絶していた。
クーラーの効いた屋内のすぐ外では、セミが命を鳴き声と炎天下に燃やしている。
糸の行方不明が発覚したのは、丁度1週間前の7月16日の話だ。連絡もなしに大学へと来なくなり、心配した彼女の友人がゼミの講師にそのことを話したことで近場に住んでいた私と糸の住むマンションの管理人へと連絡が来、私立ち合いのもと管理人とゼミの講師、そして糸の友人が彼女の部屋の扉を開いた。
部屋の中はもぬけの殻だった。冷蔵庫の中の食材のいくつかとコンロの上に置かれていたフライパンの中身は腐り果て、異臭とコバエを部屋中に漂わせていた。臭いに敏感な友人の一人を置いて、私たちは糸を探した。クローゼットの中、浴室、便器の中。そのどこにも糸はいなかった。私は母親へと即座に電話をし、居合わせていた全員とその足で最寄りの警察署に被害届を提出した。初老の担当警察官は「あまり期待しないでね」とだけ告げた。
その後は順番に面談のような事情聴取を軽く受け、全員が一旦帰路についた。しかし、私は糸のマンションに戻り、部屋の片づけを行った。異臭が酷かくて放っておけないというのもあったが、糸の行方を知る手がかりを探そうと思ったからだ。
まず始めに目についたのは、中身が腐り、カビの生えたフライパンだ。糸は食材を無駄にしない性分だった。冷蔵庫の中身を確認すると、既に腐っていたが、作り置きしていたと思われるおかずだったものはきちんとタッパーに詰められ、中身を書いた紙がかわいらしいマスキングテープで張り付けられていた。そこまでする人間が、このムシムシする梅雨の時期に、フライパンに作りかけの食材を置いたまま長時間出かけようとするだろうか。
私の推理ではこうだった。
糸は料理をしていた。しかし、その途中で食材だか調味料が足りないことに気付き、それを買いに外へ出る。そして何らかの事件に巻き込まれて行方不明になった。
翌日知ったが、監視カメラには実際、夜中の3時にいつも買い物に行くときに使っているショルダーバッグを身に付けた糸の出かける姿が、行方不明が発覚する3日前、つまりは7月20日に映されていた。これも私の推理の妥当性を強めた。
思いついた時には探偵めいた発想に心躍ったが、警察もそのくらいは見当がついていただろうと気が付き、妹から贈られた非日常的な現実に浮く足を沈めた。真面目な女学生が夜中に外へ出る理由なんて、それくらいしかないから。
後から聞いたところでは、警察は近所の防犯カメラを探したが、糸は大通りを自転車でしばらく走ったあと、道を逸れて住宅街に入っていったようで、それ以上の追跡はできなかったそうだ。また、マンションから徒歩3分のところにあるコンビニの監視カメラでは、姿が確認できなかったという。
糸がどういうつもりで夜中の3時に家を出たのか。その思考の表層は糸の遺体が発見されてから知ることとなる。
糸が発見されたのは、彼女のマンションから車で20分ほど、距離にしてみれば10キロメートルのところにあるダムの水面だった。そのダムは自殺スポットとして非常に有名で、周辺も心霊スポットになっているそうだ。治安も悪いと聞く。第一発見者はダムの管理職人だった。湖面の流木やゴミなどの除去作業中に浮いていた糸を最初はゴミと見間違えたらしい。乗っていた自転車はダム周辺の道の脇に乗り捨てられていたのを警察が発見している。
人間は大人になればきれいになれる。いや、自分のきれいな側面だけを見せるのだ。同じように育った黒く汚い部分を隠して。