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途中で配信切れちゃったりすると、その都度URLが変わっちゃうみたいなので、もし「あれ」って思った時は一度Twitterの確認をお願いします
今日書いていく文は粗削り原型文みたいな感じなので、多少の読みにくさはあるかもです
投稿する時にはまた整えますのでー! ゆっくり執筆ですが楽しんでもらえたら幸いです
出来てる分をとりあえず上げてしまおう
Salvazione ‐血露の花‐
陽差しは少し暮れかかっていた。眩しさが和らいで、微かにオレンジがかった金色の光が辺りに満ちている。
チチ、と遠くで囀る小鳥の声。乾いた靴音が近づいてくる。
その持ち主たる男の姿を思い浮かべようとして、彼の周りをゆるやかに漂う、ひんやりとしたほろ苦さが鼻先で微かに蘇った。あれの靴底にはいつだって硝煙と紫煙の気配が潜んでいる。
寒がりの癖に、どうやら車から出てきたらしい。
「よくこんな寒いとこでじっとしてられんな」
降ってきた声に五ェ門が振り返ると、ずい、と小振りのペットボトルを差し出された。
柿色のラベル。「本格焙煎 焙じ茶」とある。
「自動販売機など、この辺りにあったのか」
貰い受ければ、じんわりした熱が冷えた両手にたちまち伝わって、ほぅ、と小さく息が零れた。
「途中にあっただろ。気づかなかったのか?」
「桜しか見ておらん」
道の反対側にあったのだろうか。ここまで来るのに池沿いの桜ばかり見続けていたので気がつかなかった。見事に咲き誇った桜ばかりだ。
その内の一本を背に座り込んでからは、心奪われるままにずっと眺めている。
「……まぁ、こんだけ咲いてりゃあ無理もねぇか」
深みのある声がほんの少し笑みを滲ませたので、手元から目を上げた。臙脂色のマフラーを巻いて佇んだ次元と、目が合った。
「花筏までできて、見事なもんだ。ここいら一帯には三万本も桜が植えられてるって話だろ?」
そう言う間にも、花びらがくるくると回りながら目の前を滑り落ちていく。まるで薄紅に染まった雪のようにはらはらと散った花びらは、手前の池にうっすらと積もり、美しい花筏の欠片として返り咲いた。
それだけではない。池の向こうに広がって見える山々の斜面は、生命萌ゆる喜びに満ち溢れ、どこもかしこも見渡す限りの桜で埋め尽くされていた。
多くはほの甘く色づいたシロヤマサクラで、中には愛らしい桃色をしたものや、冴え冴えとした鮮やかさでよく目立つ紅紫色のものまで様々に咲き乱れている。
ああして特に桜が群がって生えた場所は、一目千本と称される。が、もしかすれば一目にして幾千本の桜を目に収めているのやもしれない。
まさに桃源郷と表すにふさわしく、うっとりと魅入ればあっという間に時間なぞ過ぎていってしまう。
「その昔、太閤秀吉も五千人の配下と共に花見を行ったらしい。花見塚がどこかに残っているはずだ」
「ほぉ~……五千人たぁ、さぞかし豪勢な宴会だったんだろうな」
しげしげと見回す次元だったが、ぶるりとやはり寒そうに身震いして、持っていた缶コーヒーに手を掛けた。
そういえばコートを持ってこなかったことをごちていたな、と道中車でのことを思い返しながら、五ェ門もほうじ茶の封を開けた。
東京の拠点を飛び出して丸一日。ルパンの車でふらふらと寄り道しながら目指した先が、奈良県南部に広がるこの吉野山であった。
古くからの桜の名所であり、また山岳霊場の一つとしても名高い。熊野三山へも参詣道が続くこの地には、かつて五ェ門も修行のために籠ったことがあるので馴れ親しんだものがある。
「時代が違えば、落ち延びたといえど帝の居わします畏れ多い地でもあったのだが……」
ほつりと零した言葉は、独り言だ。
今でこそ戦乱も起きぬ、穏やかな世である。
だがこの山を、日本の命運を分ける大きな歴史の奔流が駆け抜け、史実にも残らぬような人々の小さな息吹が数多にも行き交ったのだ。そう思うと、その途方も無さを前にただ圧倒されて立ち尽くしていたくなるような、感慨に浸りたいような不思議な気持ちが湧く。
言い表そうにも適した言葉が見つからなくて、少しもどかしい。
ペットボトルのキャップを外すと、筒口から淡く湯気が立ち昇った。
「……いただきます」
小さく微笑った吐息が返ってきた。
「南北朝時代の話か。ガキの頃に習った以来だな」
カコ、と缶の飲み口の開いた音が響く。
「こんな山奥を舞台に大層な揉み合いが起こってたなんざ、想像もつかねぇ」
それからふと思いついた様子で次元は言葉を継ぎ足した。
「もしもう一方が勝ってたら、今と違う歴史を辿って俺たちもいなかったかもしれないな」
何でもない一言だった。けれど不意にそれが五ェ門の心を引っ掻いて――何かが零れ落ちる音がした。
「……もし」
思わず口に出そうとした。けれど、
「もし?」
「……いや」
もし己が男として生まれ落ちていたなら……なんて。
この男なら、虚しい夢想でも聞いてくれるのだろう。だがあまりに愚かしいことだと思い直して、喉奧へと押し込めた。
「言うだけタダだぜ」
「詮無きことだ」
それよりも、迷った姿を見られたくないと思う。これは己の弱さそのもので、いずれ打ち勝つべきものなのだから。
風が頬を撫で去っていく。草木のさざめきをさらいながらそよぐそれは、花の微かな甘酸っぱさと若芽の柔らかい香りを孕んでいた。
清い冷たさにふ、と心を手放して――ああ、と先ほどから自分が抱いている願いの正体に気がつく。
多分、己を些末な存在に思えるほどの大きな流れにさらわれてしまいたいのだ。何を顧みる間も無く、前に進まざるを得なくなるようなどうしようもなさで。
無意識の心許なさに空いた手が動く。着物の合わせをそっと手繰り寄せて、冷たい空気に晒されていた首元を閉ざした。
全く、気迷ってばかりでまだまだ修行が足りない。
……傍らでしるり、と衣擦れの音がした。と思ったら、視界の端でただ立っていただけの影が急に近づいてきた。
「次元?」
少し驚いて、屈んできた男を見る。次元は何も言わないが、代わりに淡々とした手つきで自分がしていたはずのマフラーを五ェ門の首に巻き始めた。
ふかふかの上質な毛糸。人肌の温度を残したそれは、冷えた肌に酷く優しかった。されるがまま身を委ねていると、肌を隠すように整えて次元は手を離した。
そうして仄かだが、自分もこの男と同じほろ苦い気配を纏ったのが分かった。
「……煙草の匂いがする」
ケッ、とふてくされた声が上がった。
「悪かったな、ヤニ臭くて」
「文句を言ったのではない。が、」
「……何だよ」
「寒がりではなかったか」
正直ありがたいが、さっきまで缶コーヒーの熱に縋っていた彼の姿を忘れた訳ではない。
だが次元はゆっくりと首を横に振り、
「お前さんの恰好を見てる方がよっぽど寒い」
と、大真面目な顔で言った。
「ったく。どうせその風通しのよさそうなの一枚着ただけで、ロクな防寒もしちゃいねぇんだろ」
「だが、」
「いーんだよ、これでも厚着してんだ」
つべこべ言うな、と目で強く制された。あんまり野暮な追求をすると、いらぬ説教を食らいそうだったので大人しく口を閉じた。
マフラーの巻き具合を調節し、ぽすりと鼻先まで埋めれば、思いの外顔も冷えていたことに気づかされる。じわじわとぬくさが染み入る感覚は、素直に心地よかった。
「こっから一週間冷えるってんだからよ。頼むぜ先生」
「うむ……」
そうは言うが、この中で真っ先に風邪を引きそうなのは次元である。自分の心配をすればいいのに、仕事が終わるまで頑として譲らなそうなところが想像に容易い。
「……というか、」
今さら聞いたところでだが、という言外の響きを含めて次元に尋ねられる。
「止めなくてよかったのか」
何を、とは訊くまでもなかった。
返事よりも先にため息が漏れる。
「……仕方あるまい」
「気が進まねぇんだろ?」
「進まぬに決まっておろう」
神社に押し入り、畏れ多くも御神宝を盗み出そうとは……全くどういうつもりなのか。一昨日話を持ってこられた時は、文字通り頭を抱えた。
いっそ奴に罰が当たればいい、とも思う。
「だが止めたところで、ルパンが益々面白がるのは目に見える。……ならば事が穏便に済むよう取り計らうのがせめてもの某の務めであろう
「賢明だな」
「お借りするだけだ。用が済めば必ずお返しする」
「大丈夫だ。無理矢理連れてきといて、あいつもそれ以上の無体はしねぇさ」
束の間会話が途切れたタイミングで、車の走る音が近づいてきた。すぐそばで停まったので一緒になって振り返れば、黄色いフィアットから「おーい」と手を振るルパンの姿が目に入った。
噂をすれば、と互いに顔を見合わせる。
「……行くか」
桜は名残惜しかったが、次元の言葉に応じて立ち上がった。
明日の仕事が終わったら、今度こそゆっくりと見に来よう。
二、三歩、草の上を歩く。――マフラーのことを思い出してはた、と立ち止まった。
車に乗るのだから、返さなくては。
もそもそとマフラーを解こうとしたが、「いい、いい。つけとけ」と慌てたように押し留められた。その拍子に次元の顔が近づいて、帽子の下の目が何やら意外そうに見開かれた。
「お前さん、」
「………?」
「……つけたのか」
視線がマフラーに触れた五ェ門の手に留まっている。何のことか考えかけて、袂に仕舞ったハンドクリームの存在を五ェ門は思い出した。
「分かるのか」
「少し」
先程塗ったのが香ったらしい。
これを次元から手渡されたのはつい最近のことで、それまでは不二子の物しか使ったことが無かった。当然ながら好みの傾向は全く異なる訳で、半ば強引に塗布させられる度に匂いがきつ……少々華やかすぎるように感じられて、あまり好きになれなかった。
しかしそんな五ェ門の苦手意識を、次元はあっさりと覆したのである。
「その……どうだ」
「塗り心地が軽くて使いやすいな。……香りもよい」
桜に寄せた上品な香りは、指先にほんのりと灯るような優しさがあって……すごく、気に入っている。
手のひらに隠れてしまうほどの小さなチューブに入っているので、気軽に持ち歩けるのもよかった。パッケージにささやかに描かれた桜の絵も好ましい。
「……お主からは貰ってばかりだな」
謝意も籠めて言うと、次元はこそばゆげに表情を綻ばせる。
「なに、俺もお前さんには世話になってばかりだ」
温かみの籠った瞳を見た時。五ェ門の心の深い所で、微睡んでいたはずの何かが柔らかく波立った。
もう何度も感じているこの揺らぎは、寂しさを掻き立てられる感覚によく似ている。決して悲しさを伴うものではないが、くうぅ、と胸の真ん中が熱くなって、甘く引き攣れていくような。
どうにもこの切なさは慣れなくて、持て余してばかりだ。
「行こうぜ」
先に歩き出した次元の背が目に入ったところで、五ェ門も後に続いた。
……次元は、確かによい男だ。
素直にそう思える程度の好意は自覚している。
飄然として多くは語らぬが、口にする言葉は小気味よく、大概の荒事には応じてしまえる有能さには時々驚かされる。胆力も実に申し分ないものだ。
そしてあのルパンの相棒を務めて、己のような取っつき難い者にも心を尽くそうとするぐらいだから、義理堅い男である。
あの情の深さには幾度となく救われてきた。ほとんどの男相手に少しも警戒を解けぬ五ェ門でも、次元の隣ならば気を休められた。
――この身に何かがあった時は、彼に斬鉄剣を託してもいいとさえ思っている。
「秘密のお話なんかしちゃってまぁ~」
「別に何でもねぇよ」
「青春ね~」
二人を乗せて発車したフィアットはのんびりとアスファルトの道を駆って、人里へ向かっていく。今日はこのまま民宿に入る予定だ。仕事は明日の午前中に行われる。
『――ここで関西のニュースをお知らせいたします』
後部座席に身を預けた五ェ門の意識は、ラジオから流れた女性の声に傾いた。
『今朝早く、大阪市××区のビルで八名の男性の遺体が発見されました。身元はいずれも暴力団関係者のものであることが分かっており、死後数日以上が経過しているとのことです。犯行には非常に鋭利な刃物が使用され、争った形跡があることから、警察は暴力団同士の抗争の可能性を視野に入れて、捜査を続けています』
「ふぅーん……」
気の無い声を上げたルパンが、フロントミラー越しにちらりと五ェ門を見遣る。
「お前さんのお仕事だったりする?」
「………? いや」
「おいルパン。刀持ってるからって五ェ門のせいにするなよ」
軽い口調で次元が嗜めた。
「いや~だってね、非常に鋭利な刃物っつったら刀想像するでしょ」
なるほど。言われてみれば、わざわざ「非常に鋭利」とまで形容する刃物など限られる。そんな些細な言葉の違いなど気にしたこともなかった。
ふむ、と視線を落とし、己の記憶を幾つか掘り起こしてみる。
「確かにお主らと合流する前、いくつか依頼を請け負ったが……いずれも表沙汰にならぬよう葬った。某に関わりのあるものではない」
己のように殺しに手を染める者なら、相応の理由が無い限り誰の目にも触れさせないことを徹底する。
事件として警察や報道機関に取り沙汰されたところで、利益などほとんど生まれないのだ。見せしめや、あるいは何らかの触れ出しなどの意図がない限りは。
「あ、やるこたぁやってんのねぇ……」
ルパンのへらへらした声は、何故か語尾へいくにつれて消え入るように小さくなっていった。
ニュースは、既に別の話題へ移っている。
宿に着いてからのことを考えようとして――ふと思い浮かんだことに顔を上げた五ェ門は、ルパンに向かって口を開いた。
*****
「本当にいらねぇってのか」
「よい。……本来境内に持ち込んでいいものではないからな」
斬鉄剣を置いていくことに、助手席の次元が気にした様子で尋ねてきたが、五ェ門は首を横に振って車のドアを閉める。
あれから時間は経って、辺りはとっぷりと夜の闇に沈んでいた。
木々の狭間に住むものはみな、ひっそりと静けさに抱かれて眠っている。そんな頃合いを見計らって一行が宿から件の神社までやって来たのは、他でもない五ェ門の願いによるものである。
ルパンと次元は車内で待機する。境内に踏み入るのは自分だけだ。
不本意とはいえ、結局五ェ門はルパンの盗みに手を貸す。
ならば己だけでも御祭神に顔を見せて、懺悔すべきであろう。斬鉄剣を置いていくのも、無用な争いを持ち込まぬという心づもりと、血を穢れとする神道の考えに則ってのこと。
……そもそも人斬りであるこの身を思えば、今さらなのだろうが。
とにかく筋を通さねば、何だか気が済まなかった。
最初は渋っていたルパンも、斬鉄剣に手をかければ慌てて車を出した。そして交換条件として一つ頼まれ事も承っている。
ああ見えて慎重な奴なので、計画に支障が出ないかはらはらしているのかもしれない。が、大した騒ぎにはなるまい。顔を見られたところで、どうせ明日には嵐のように何もかも攫われて終わるのだから。
何かあれば、五ェ門自身に仕掛けた盗聴器が音を拾ってルパンたちに知らせてくれるだろう。その時はその時だ。
「行って参る」
「気ィつけて~」
ルパンはすっかり諦めた表情で見送っている。……車に背を向けた五ェ門は、神社へ続く夜道を歩き出した。
民家のある地域から遠く離れた森の中に建っているので、街灯はほとんど無く、天の月だけが頼りだ。
……それにしても標高が高いせいか、夜になったら気温が酷く下がった。思わず身震いしてしまうほどの寒さに、なるたけ口元まで隠せるようマフラーを整えた。
あのまま借りて来てよかった。
ぬくもりを抱き込んだ毛織物はふかふかで……やはり煙草臭い。
*****
「ちゃちなお社なんだろ?」
ずるりとだらしなく運転席に寄り掛かったルパンに、次元から言葉を投げられる。無理に連れて来る必要があったのか、という言外の響きをルパンは違えず拾い上げて口を開く。
「あとでめっかって手打ち騒動になるよか、五ェ門ちゃんの気の済む盗み方で共犯に仕立てた方が楽だもん」
呆れたため息が返ってきた。
次元の言う通り、件の神社はこじんまりとした規模のものである。正直盗むだけならルパン一人で十分だ。三人いても邪魔でしかない。
だが今回ぬす――お借りする御神宝自体に財宝としての価値は無いが、真実であればなんと巨万の富へ自分たちを導いてくれるという大事な鍵なのだ。
明日の仕事は始まりであり、宝探しのほんの一端に過ぎないのである。
「俺たち悪党が今さら神様事を学ぶのも滑稽な話だ。多少通じた奴がいりゃ何かといいだろ?」
「巻き込みてぇだけだろ。手垢のついたおとぎ話なんざ信じやがって……」
「語り古されたお宝こそロマンがあっていいんじゃないの~。……まぁ、ちと骨は折れるだろうけどよ」
「あんまり先が見えねぇようなら降りるぜ」
「なんでい、ノリが悪ィ」
あーあ、と肩を竦めてごそごそとジャケットのポケットを漁った。
全く。誰のためにわざわざ五ェ門を引き込んだと思っているのか。最近はルパンと二人の時より、五ェ門もいる時の方がやけに働きがいい。
「お前ってば、最近五ェ門にばっか肩入れしちゃって」
「斬鉄剣持ち出した時に誰が止めると思ってやがる」
「……好きでやってる癖に」
「何か言ったか」
「にゃーんもぉ」
過保護とかカッコつけとか似非ハードボイルドとかむっつりスケベとか。言いたいことは山ほどある。でもこれ以上言ったら多分蹴られる。
シガレットケースから飛び出た煙草を咥え抜き、ルパンは小さくため息を吐いた。
自分もついつい不二子に釣られるので他人のことは言えないが……いざ逆の立場になると少し寂しいかもしれない。
*****
その昔。
急進的な時代の変化を求めたもののふたちの台頭により、華やかな都文化が幕を下ろし、日本が新たな夜明けを迎えた頃のこと。
武勇に名を馳せ、財を成した時の武将が、死に際に莫大な財宝を遺した。その多くは既に失われ、今ではどこにあるかも定かではない。
が、ただ一つだけ。現代に至った今でも見つからないまま、どこかに眠っているものがあるのだという。
それこそが巧妙に隠された真の財宝であり、見つけた者には巨万の富をもたらす伝説が残されているのだ。
……と。
要するに、最近になってそのお宝のありかを記したものが関西の神社に伝わっていたと分かったから、暇つぶしがてら行っちゃおうぜ、というのがルパンから聞かされた話である。
次元の言葉を借りるなら、また奴は「悪い夢」とやらを見ているのだろうか。どうせ不二子も絡んでいるに違いない。
鳥居の前で一礼した五ェ門の影は、その先に広がった鎮守の森の暗がりに音も無く呑まれた。
細かい玉砂利を敷かれた参道に人気は無く、冷たい月明かりに洗われた大気が道の奥深くから流れ込んでくるだけ。
ここより先は神々の居わします浄域。
何人たりとも身なりを正し、心を整えて入らねばならない。
足を進めれば、玉砂利の擦れて転がる音が響いた。これも神道においては穢れを払う意味合いがあるのだとか。一族の誰かから聞いた記憶がある。
五ェ門にとって、神道は幼い頃から身近にあるものだ。
家を離れるまでは、一族総出で氏神様を祀る神社を詣で、毎年執り行う神事に参加していた。今でも神事の流れや、参列する者の作法などはすぐにでも思い出せる。
ここの参道が比較的綺麗にされているのも、明日神社で行われる神事のためだろう。両側に木々が犇めいているにも関わらず、枯れ葉が数枚落ちているきりだ。
ルパンが言うには、御神宝は普段どこか別の場所に保管されていて、本殿に納められるのは神事の間だけだという。
ちなみにご神体はまた別にある。ご神体といったら御祭神そのものなので、ルパンのターゲットがそちらでなくてよかったとつくづく思うばかりだ。
歩くうちに、闇の向こうから二基目の一回り小さな鳥居が姿を現し、ぽつぽつと灯篭が灯された斎庭(ゆにわ)、そして奧の御殿もぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせた。
木造の古い拝殿で、奥に小さな本殿が連なっていると聞いている。普段神主が控えるのに使う社務所は、この二つの建物の右隣。
恐らく神主が一人で運営できる規模の小さな神社だ。
……やはり三人乗り込んだところで邪魔なだけではないだろうか。未だに落としどころが見つからないせいで、気持ちがすっきりとしない。少しでももやもやしたものを逃がせれば、とため息を一つ落としてみるが、諦めの念が胸底でただ巻き返るだけだった。
そんな五ェ門の吐息を、真正面からゆるやかに訪れた風がそっと貰い受けていく。
その時小さな花びらも共に過ぎていったのが見えて、は、と僅かに息を呑んだ。桜だ。淡紅色が小さな喜びを揺り起こす。ここにも咲いているのか。
よく見ればあちこちに散ったものが落ちている。
暗闇の中、灯篭のぼんやりとした灯りを透かして見る夜桜も、趣があって美しいことだろう。そうと思うと、少し気が紛れるものがあった。
束の間、歩みが軽くなる。
そうして鳥居を目前にした時。五ェ門は、拝殿の中に誰かがいることに気づいた。
「―――」
――振り返った。
遠く、ぽっかりと口を開けたように駐車場の灯りに照らされた入り口が見えるだけで、暗闇は道の両側にそびえて沈黙を守っている。音も光も、何もかも呑み込んでしまいそうなほどに真っ暗な暗闇。
来た時と変わらない。無人の参道はしんと静まり返ったままだ。
「………」
前に向き直った五ェ門は再び身なりを整え、鳥居の先に足を踏み入れた。周りが森にぐるりと囲まれ、満開の桜が境内の各所で咲いていた。
短い階段を設けて、地上より一段高く造られた拝殿。蔀戸(しとみど)が全て上がっているために、内部はよく見えた。二十畳程度の御殿の中央にいたのは、若い女だった。
白い単衣(ひとえ)に赤い袴姿で、長い黒髪を一つに束ねている。
女の足運びに合わせて板張りの床がきし、きしと微かに鳴いていた。身振りからして何かを舞っているようなのだが、楽の類は聞こえない。
ほんの少し見ただけで洗練されたものと分かるほど、その所作には指先まで優美な線が通っていた。
思わず彼女の動きに魅入った五ェ門は、引き寄せられるように拝殿へ近づいた。しかし斎庭を中ほどまで進んだところで砂利の踏みしめる音に気づいたのか、女が振り返った。
「ああ……いや、すまぬ」
ぱたりと舞うのを止めてしまった彼女に、五ェ門は声を掛ける。
「見ていただけなので、どうか続け、て……」
驚いて、言葉を途切れさせてしまった。
「――いいえ」
瞼を閉ざしたまま彼女は声の出処を捉え、目の覚めるような美しい相貌を五ェ門に向けた。呆気に取られて五ェ門は女を見つめるが、やはり彼女が視覚に頼っている様子はない。
「少し、足の運びを確かめていただけでございますので」
薄っすらと紅い唇が紡いだ声は落ち着いていて、語尾に柔らかな余韻があった。
……それにしても、なんと美しい人なのか。
不二子の持つ妖艶な華やかさとは全く違う。
優しい弧を描く細眉に、長い睫毛が縁どった形のいい瞼。鼻筋の通った顔立ちは色白で品がよく、しとやかに佇む百合の花を思わせた。
今は静かな表情をしているが、瞳を見せて笑みを浮かべればさぞ人目を引くに違いないと、いつのまにかそんなことまで思い及んでいた。
この時既に盲目であることへの驚きより、女に見惚れる気持ちの方が勝っていたが、五ェ門自身そのことには気づいていなかった。
「どうぞお詣りなさってください」
そう言った女がす、と右へ行こうとしたので、ぎょっと我に返る。
つまずいたり、ぶつかったりするのではないか。そんな危機感が一瞬のうちに脳裏を過ぎり、慌てて手を貸そうとした。が、そんな五ェ門の心配を他所に、女は危なげなく端へと辿りついてしまった。
結局柱に手を添えるところまで見届けてしまい、舞を続けてもらおうと思っていたことまで言いそびれた。声を掛け直そうにも、彼女が移動してしまった今となっては躊躇われる。
……そもそも、彼女の言う通り自分は参拝に来たのだ。目的を忘れてはならない。
女の勧めを無碍にせぬよう、少し時間を掛けて手を合わせた。考えてあった懺悔の言葉を一通り心の内で申し上げる。そうすると罪の意識にささくれ立っていた心も、ほんの気休め程度には宥められた。
今できることはした。あとは明日よりの行い次第。
そう言い聞かせながら目を開ければ、再び女の姿が目に入った。やはり両目は閉ざされたままだった。
……本当に、この女性は目が見えていないのだ。
合わせていた両手を下ろし、女に終わった旨を伝えた。
すると女はゆっくりとまた歩き出して、階段の方にやって来る。
「舞は、もうよろしいのか」
もう舞う気は無いのだろうと分かっていても、何だか悪い気がして声を掛けてしまう。やはり来るタイミングが悪かったか。
「風も冷えて参りましたので、そろそろお仕舞いにするつもりでした。……どうかお気になさらないでください」
女は、小さく微笑んだ。目が見えずとも、五ェ門をそっと慮る気持ちを表すのにどう振る舞えばいいか、きちんと分かっているらしい。
そのさりげない気配りに気がつけば、語尾に優しい響きが残るのも、耳当たりのよい言葉遣いをするのもそういうことなのだと思い及んだ。聡明な人なのだろう。
自然と五ェ門も、彼女には礼儀を尽くして返したくなった。
それでもやれることといったら、階段を下りる際の手助けぐらいなのだが。……さっきのようにおっかなびっくり見守るのでは、とても心臓が持たない。
まず白杖の類を探したがどうにも見当たらず、代わりに雪駄を見つけたので、彼女の下りる先に合わせて置き直してみる。
それから女の手を取り、段差の位置を教えながら慎重に補助に回った。
「雪駄は、このまま下りた先に」
「ご親切に、ありがとうございます」
雪駄を履いて五ェ門と同じ所に立つと、女の背が五ェ門よりも頭半分低いぐらいなのが分かった。五ェ門が一六五センチほどあるので、目の前の彼女も女にしては少々背が高い方だ。
……ほんの少しの憐情と敬意、そして好意が奇妙に入り混じった感情。彼女を前にすると、そんな気持ちが湧く。
恐らく同じ年頃だろう。服装からしても五ェ門と似通った家風の元で育った感じがするというのに……こうも違う人間になるものなのだろうか。
彼女の持つ嫋やかさは、一生かけても己では得られまい。
「どちらまで行かれるおつもりです。某でよければお送りしましょう」
言いながらようやく立てかけてあった杖を見つけたので手渡すと、女は自分の後ろを振り返る素振りを見せた。
目が見えていれば、すぐそばの社務所が映っただろう。
五ェ門の背後では、さわさわと木の葉の擦れ合う音が聞こえる。やがて森を通り抜けてきた風が、いくらか花びらを巻き込みながら二人の元へ吹き下ろした。
「隣の社務所へ戻ります。あとは一人で……」
そう言って五ェ門に向き直った女の声がふと立ち消えた。
どうしたのだろう、と五ェ門も一緒になって動きを止めた。ちょうどマフラーの位置が気になって、顎の下の布地に指を掛けていたところだった。
「よい香りがいたしますね」
「え……」
思いがけないことを言われて、五ェ門は呆けた声を漏らした。……もしや。
「これのことだろうか」
「……はい。何の香りでしょう?」
彼女の鼻先に己の指を近づけると、いっそう興味を持った様子で尋ねられた。
……目が見えないからこそ、鼻が利くのだ。
五ェ門と女の間は一人分空いている。次元がすぐそばまで近づいてやっと気づいた時のことを思えば、かなり嗅覚がよい。
「これはハンドクリームの匂いで……」
そこまで言ってから、ふと思いついたことを口にする。
「よければ、つけてみられますか」
袂から小さなチューブを取り出して、キャップを外した。
「まぁ……よろしいのですか?」
遠慮がちに尋ねる女に近づいて華奢な手を取り、指の上になめらかな白いクリームを少し乗せる。
「桜の香りです。……本物とは少し遠いですが」
それを自分で両手に馴染ませて、くん、と指先の香りを嗅いだ彼女は、まるで小さな花が綻ぶように心から嬉しそうな微笑みを浮かべた。
礼を述べた声も心なしか上向いてる気がして、ようやく彼女の感情らしい感情を垣間見た五ェ門も、少し嬉しくなった。
これをきっかけにいくらか会話が続き、社交辞令の域は越えないながら互いのことにまで内容が及んだ。
「今日はどちらからお越しに?」
「関東から参ったのですが、そちらは? 綺麗な標準語を話されるから、この辺りの方では無いでしょう」
「住まいは関西にあるのですが……やはりこの言葉遣いでは目立つようですね」
「ああ……以前逗留していたので覚えがあります。気取った風に聞こえるなどと言われて、いささか参りました」
「ふふ」
彼女にも覚えがあるようだが、笑うだけでそれ以上は何も言わない辺りが慎ましい。元々五ェ門も口数の多い方ではないから、このゆるやかなやり取りがちょうどよかった。
「ところで先ほど舞われていたのは、このお社と何か関係が?」
「このお宮に奉納するものですが……」
「そうでしたか。……少し見ただけで分かる、美しい舞でした。相当の修練を積まれたのでしょう」
「恐れ入ります」
頭上で風が一際強く吹き荒んだ。ざああ、と森をざわめかせ、多くの桜の花びらを攫いながら押し寄せてくる。
是非拝見したいものです、という五ェ門の声がこの中で果たして聞こえたかどうか。
――不意に女がす、と近づいてきた。
「――明日だけはどうか、」
巻き上がった花吹雪に掻き消されてしまいそうな、秘そやかな声だった。
「いらしてはいけませんよ」
束の間言葉を失って、五ェ門は固まる。
女はもう微笑んでいなかった。最初に見た時と同じ静かな表情で耳元から離れ、丁寧な動作で頭を下げる。
「お気をつけてお帰りください」
返事を待つでもなく、女は五ェ門にくるりと背を向けて、かつ、かつと杖を突きながら社務所へ行ってしまった。
――警告。
……なるほど。
建物に入った女が引き戸を閉めたのを見計らい、ほんの少し緩めていた神経を五ェ門は再び張り巡らせる。特に殺気を飛ばしてくる訳でもなかったので彼女の手前、素知らぬ振りをしていたが。
参道を振り返ったあの時から、複数の視線に見られていることに気づいていた。今この場でどうこうする気は無いようなので、神社に訪れた人間を監視しているだけなのだろう。
彼女がわざわざ知らせてくれたのは、その連中と関わりのあることに違いなかった。――となると、彼女は連中の関係者になるのだが……いや、あの状態では巻き込まれていると考えるのが妥当か。
そう思うと女のことが気になったが、あまり長居もできない。境内をざっくり見回す程度にして、五ェ門はその場を後にした。
先ほどの邂逅が幻だったかのように、辺りは静まり返っている。
参道を戻る最中に、空を見上げた。
煌々と輝いていた月が、薄雲にかかって朧に翳るところだった。
*****
「ルパン」
「行くか」
五ェ門の硬い声音を聞くまでもなく、後部座席のドアを開けた段階で大泥棒はすぐ気づいてくれた。限りなく自然を装って発進した車は、ゆるやかに灯りの乏しい夜道を下っていく。
「……やはり夜の神社は恐ろしい」
「らしくねぇな。幽霊でも見たか?」
斬鉄剣をいつもの定位置に抱えながら言うと、次元がからかった口調で合わせた。
「今話せば幽霊がついて来てしまいそうな気がする」
盗聴されている可能性があるから宿で話す、と遠回しに告げると、フロントミラー越しにルパンと次元がちらり、と一瞬視線を交わしたのが見えた。
「……ああ。見える体質だったっけな、お前さん」
「一人で寝るの怖かったら、俺んとこに来ていいんだかんねぇ~。んふふふ。……次元顔こわ」
「………」
「何だよもう~、素直に俺様と一緒のお布団で寝たーいって言やぁいいのに」
「さぞ寝苦しい夜になるだろうな」
宿に着くまで当たり障りのない会話を飛び交わせ、最終的に大阪のどこぞのラーメン屋がうまいだのそういや飯代貰ってねぇぞ返せだの、やいやい賑わいながら三人まとまって部屋へ入った。
ちなみに見た目からしてそこそこガタの来ている民宿で、宛がわれた八畳の部屋も壁紙が少し剥がれていたり、カーテンや備え付けの備品が古臭かったりと、いわゆる典型的なボロ宿である。
改めて部屋の真ん中に腰を落ち着けた三人は、顔を寄せて本題に入る。
「森から複数の妙な視線を感じた」
最初に口火を切ったのは、もちろん五ェ門だ。
「警察では無かろう。二基目の鳥居をくぐる手前で気づいた。それ以上の動きも無かった故、捨て置いたが……かといって迂闊な真似もできなかったので、お主から預かった盗聴器は仕掛けられなかった」
「あー、ね。そりゃしょうがない」
交換条件として頼まれていたことは結局やれず仕舞いになってしまった。それをルパンに報告すると、彼は特に残念がった様子も無く、うんうんと頷いた。
「車にも何か仕掛けられた様子は無かったぜ」
「ほんじゃあ俺たちのことが勘付かれちゃった訳でもなさそーね」
「大方見張ってたとか、その程度だろう。……五ェ門と話してたお嬢さんの言葉と合わせて考えりゃあ」
その辺は二人も五ェ門と同じ見解らしい。
「で、」
ルパンが口を開く。と同時に、それぞれ考え込むのに違う方を見ていた男たちの視線が五ェ門へと向いた。
「門ゴェが話してたお嬢さんってのは何なの? やけに甲斐甲斐しかったけども」
「目が見えておらぬ方だった。話はお主らも聞いていただろう。恐らく、明日の神事で舞を奉納なさる」
「舞ねぇ……」
五ェ門の言葉を繰り返した次元が、にやっと笑った。
「あれだ。御幣とか振り回すやつだろ?」
「可愛い娘ちゃんだった?」
次元が茶化すとルパンまで便乗してきた。
「お主ら……」
女人の話になった途端ふざけおって。ため息を吐きかけたが、まぁいい、と気を取り直す。
「確かに美しい人ではあったが」
「……ほぅ?」
「ふぅ~~ん……?」
「……何が言いたい」
「いやー、ねぇ? 五ェ門の口からそんなわくわくする話が飛び出すたぁ思わなかったから……オニーサンたち、ちょーっと詳しく聞きたいなぁ~なんて」
「どうでもよかろうっ」
何なのだ、全く。
頭が痛くなってきた気がして、眉根を寄せた五ェ門はこめかみを押さえた。
「とにかく……その方は関係なかろう。それよりもあの神社、後ろ暗い連中と絡んで明日の神事に臨もうとしておる。お主らといえど、油断はせぬことだ」
「多少のアトラクションは、望むところよ」
に、とルパンは好戦的な笑いを浮かべる。
「ちと張り合いがねぇと思ってたとこだしな」
「約束を違えるなよ。その方まで争いに巻き込むことになっては、最早御祭神に顔向け出来ん」
「分ーかってるって」
そう言いながら、すでに厄介事を期待した顔でいるので先が思いやられる。ただでさえ無断で御神宝を持ち出すのに、この上争いを持ち込むなど、あってはならない。
「そんじゃ、ルパンや俺にドンパチさせねぇためにも計画を考え直すか」
次元が地図を取りに立ち上がった。そのため話の流れは作戦の練り直しに変わり、多少神道に通じた五ェ門の意見も含めて、新たに段取りがまとめられる。
そうして日付が変わる前に新しい計画がおおよそ形になると、一旦解散の運びとなり、明日に備えて各自休むことになった。
*****
……ちと疑り過ぎているかもしれない。
考えていたことを奥深くに呑み下し、五ェ門の姿が消えた扉から目を離した。
「次元?」
のそ、と立ち上がる次元を見上げて、ルパンが機器をいじる手を止める。
「煙草」
「外さんむいよ?」
「知ってる」
小さなバルコニーに通じる掃き出し窓を開けると、冷蔵庫から出したばかりの陶器を彷彿とさせる、つるりとした冷たさが部屋に忍び込んだ。うぅぅ、と思わず身震いして唸ると、「そんな寒がる?」と後ろから声が上がった。
「寒がり」
「うるへー」
いひひひひ、とこれ見よがしに笑う声を、ぴしゃりと後ろ手に閉めた窓で遮った。息を吐いて、仄かに白い煙が立ち昇る向こうに、夜空よりも黒々とした森が広がっているのを見る。その間を挟んで、眼下では月明かりを反射してちらちらと光るものがあった。何かと思ったら、小さな川が流れているらしい。意識すると、ささやかなせせらぎが耳に届いた。
……寒い。
そう思ったところで、夜がため息を吐いたかのように風が吹いた。また身震いする羽目になった。
全く、ただでさえ煙草を吸うのに肩身の狭いご時世なのだ。早く暖かくなってもらわねば、凍え死んでしまう。
スーツの内ポケットからシガレットケースを取り出し、煙草を引き抜いた時。隣の部屋からもカラカラ、と窓の開く音が聞こえた。
「……あ」
振り返った先で上がる、微かな声。窓から顔を出した五ェ門と目が合った。
「よお」
寝る前にもう一度会えるとは思わなかった。声を掛けると、彼女も同じようにバルコニーへと出てきた。
「寝ないのか」
「お主こそ。……あまり身体を冷やすと寝付けなくなるぞ」
「そりゃこっちの台詞」
こんな枯れたおっさんはともかく、女が身体を冷やす方がよくない。だがその心配も軽く笑われただけで、五ェ門は柵に手を掛けて景色を眺めた。
……存外月が明るいことに気づいたのは、彼女の横顔を見た時である。雪をも欺くほどに白い肌が、月明かりを透かすように淡く輝いて見える。
鼻筋のすぅっと通った、綺麗な造りの顔立ち。どこか遠くを見つめる眼差しには、清く冴えた光が宿っていた。
端然とした佇まいに、ふと〈花明かり〉という言葉が頭を過ぎった。
満開の桜の花は、闇の中でも仄かにその姿を浮かび上がらせる。白くて小さな花びらの一つ一つが、どんなに淡い光でも取り込んで、隅々まで行き渡らせようとするからだ。
そうして何よりも芳しく存在を際立たせて、他者に己の在り方を示す姿にいつしか名がついたのである。
何故そんな言葉を知っていたのかと考えかけて、それこそ五ェ門を表したような言葉だと思って覚えていたのだと思い出した。
本当にどこまでもまっすぐで、危うげで、そして美しい。
――五ェ門がこちらを見た。そっと見つめ返された瞬間に、得も言われぬような彼女の清艶さを感じてしまって内心狼狽えた。
「聞いておったとは思うが……お主から貰ったハンドクリームを先刻話した女性に分けたら、よい香りだと言ってとても喜ばれたのだ」
「ああ。……聞いてたぜ」
まるで彼女自身が褒められたかのように、嬉しそうに口にする。……ああ、これは一旦落ち着いた方がいい。煙草を咥えて、どうしようもなく波立つ気持ちを誤魔化した。
火を点けて、ゆっくりと肺の中に紫煙を満たす。それをゆるやかに吐き出す頃には、いくらか余裕が戻ってきていた。
「そんなに気に入ってくれたなら、贈り甲斐があったな」
五ェ門は答えなかったが、その表情の明るさが肯定を伝えていた。……しかし心配事が翳った様子で、間もなく表情を曇らせた。
「どう考えても、よくないことにあの方が関わっているのは明白だ。……あの様子では為し崩しに巻き込まれているのだろう」
うん、申し訳ない
今日のところはこれにて終了します!
ここまで見ていただきありがとうございました!
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