2時間遅れでパリ、シャルル・ド・ゴール空港を飛び立った飛行機は、30分だけ時間を取り戻して東京中央国際空港に着陸した。いささか時代遅れ感も否めない4基のエンジンが大きく音を上げ、一気に速度を落とす。
本当はもう30分早く、予定より1時間遅れで済む筈だったが、別の飛行機が緊急着陸をすることになり、一度着陸をやり直すことになったのが原因だった。
滑走路から外れて、ターミナルへ向かうトリコロールの機体から、彼はプライベートジェット用のエリアに駐機した、1機のプライベートジェットを見つめた。あれが無ければ、もう30分早く着いた。しかし、国際線が遅れるのはよく有る話で、定刻から90分で済んでいるのだから、まだマシな方だ。東京からのフライトは、台風の影響で8時間遅れだったほどだ。
イミグレーションを通過し、パリで預けたキャリーバッグが出てくるのを待った。到着から50分後のことだった。
「夏休みでよかった」
と彼は思いながら、日の丸とトリコロールのステッカーが貼られたキャリーのハンドルに手を掛けた。それに貼られた名前のスペルは、Luna。
流雫。これで、るなと読む。日本人の父とフランス人の母との間に生まれたハーフで、夏休みに故郷のリヨンに帰省していた。数日後から、日本では2学期が始まる。それに合わせての帰国だった。両親はビジネスの都合でリヨンにいて、昔から日本でペンションを営む親戚に預けられている。その生活を16年、過ごしてきた。尤も、誕生日は7月だから親戚と両親の両方から祝われるし、今はネットでカメラ越しに会うことはできるし、そこまで不便には感じていない。
日本特有の蒸し暑さは、少なくともターミナルではそう感じない。ここから、電車で1時間半かけて帰ることになる。軽く溜め息をついて、流雫は地下の駅へと向かい始めた。
2023年。未曾有のパンデミックを乗り越え、奇跡的に成功した東京オリンピックによって、日本は再びインバウンド需要に沸き返った。しかし、同時に外国からの難民の扱いに苦心することになる。
四方を海に囲まれた島国の日本は、陸路での入国は不可能ではあるが、代わりに船でやってくる難民を全て取り締まることは不可能で、既に少なからず街に溶け込んでいる。そして、それに対する生活支援を巡るデモも時々発生しているが、その中の過激派が暴徒化し、機動隊と衝突するようになってきた。日本の次の課題は治安だった。
エスカレーターを下りようとした流雫の目に、数人の男が見える。大きな、登山用ほどではないが大型のバックパックを地面に置いて広げ、荷物整理をしている。それ自体は空港でもよく見る光景だ。しかし、そこに黒の光沢を見た。一瞬、イヤな予感がした彼は、エスカレーターに乗ろうとした足をステップに落とさず、背を向けた。それと同時に…。
轟音、そして地震とは違うインパクト。階下から一気に上がる煙、けたたましく鳴り始める火災報知器と重なる悲鳴。
「走れ!!」
誰かが叫んだ。聞こえ始める銃声。流雫は、キャリーを捨てて走った。何処が安全なのか知らないし、何しろ空港の警備員も含めて誰1人冷静に、今何が起きているか脳が追いついていない。
偶然開いた到着ロビーの自動ドアを逆走し、逆走防止のストッパーをくぐり抜ける。警備員と空港職員が彼の前に立つが
「ばっ、ばくっ人ったすけっ!」
断片的な言葉しか出てこない。その場に居合わせた乗客たちもその場から動けない。エアラインの職員は、咄嗟にターミナルの方へ流雫と乗客を避難誘導した。本来、一度受託手荷物の受取を過ぎると戻れないし、戻すことは重大な規約違反だが、今は文字通り非常事態だ。遠くで銃声が聞こえる。それも何発も続けて。
2時間前まで機内で、空港でテロリストと戦う警察モノの映画を見ていた。それと似ているが、決定的に似ているのは、フィクションか否か。そして今は当然、後者だ。
どれほどの時間が経っただろうか。1時間ぐらいか。夏の終わりの太陽は、その角度を少し変えただけだ。しかし、半日ぐらい経ったような感覚になるほど、頭が時間の認識さえも鈍らせていた。
流雫は、エアラインの職員から警察官に引き渡され、空港の詰め所に連れて行かされた。そこで、何が有ったか話すよう迫られた。アイスコーヒーを見つめるオッドアイの目は曇っていた。
男たちのバックパックに、遠目に少し不気味な何かが見えたこと。それが何かは知らないが、とにかくイヤな予感がしてエスカレーターに乗るのを止めたこと、何かが爆発した音と同時に地面が揺れ、誰かの言葉で走り出して、直後に銃声が聞こえ始めたこと…。1時間前の記憶だが、できることなら今すぐにでも葬り去りたい。それでも、必死に掘り起こして動揺混じりに話した。
アイスコーヒーは元々大好きだが、この時は苦味も酸味も何も感じない、ただの黒い液体でしかなかった。
詰め所を出る間際、別の警官が先刻放り投げたキャリーを、流雫に手渡した。あの混乱の中で、逃げ惑う誰かに蹴られた足跡こそ有ったが、それだけだったのは奇跡だと思った。
その時、彼のスマートフォンが鳴った。ネット通話アプリからの着信通知。フランスの家族からだった。朝方だが、たまたまブレイキングニュースを見て慌てて掛けてきたらしい。無事だと云うと、安堵の余り泣き出すのが判った。
次に、親戚から掛かってきた。無事と伝えた後で、帰り着くのがかなり遅れるだろうと話した。事件は収束したものの、爆発の影響で地階が封鎖され、鉄道が使えなくなっていた。残る手段はバスとタクシーだが、それもこの混乱で何時乗れるか判らない。
最後に掛かってきた相手は、数少ない高校の同級生。しかし、彼の無事を確かめたかったワケではなく、彼を崖に突き落としてきた。尤も、それも善意としてのことだったし、遅かれ早かれ知ることになるのだが。
流雫は、端末を持ったまま文字通り膝から崩れ落ちた。生き延びた天国から、地獄に突き落とされた感じがした。力が入らない体で、彼は泣き叫んだ。
「ファウスト」と云う、ドイツの有名な伝説が有る。流雫にとっての隣国のそれは戯曲や文学作品となって多く使われてきたが、大雑把に言えば学者のファウスト博士は己の人生に満足せず、悪魔メフィストフェレスとの契約を交わす。死後地獄に落ちることを条件に、人生のあらゆる快楽や知識を欲しいままにできる契約だった。
もし、彼のように流雫がメフィストフェレスを召喚できるのなら、今この場ででも召喚しようとし、契約しただろう。地獄に落ちることと引き換えてでも、或る少女を生き返らせられるのならば。
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Lunatic tears 1-1
初公開日: 2020年06月06日
最終更新日: 2020年06月06日
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