門番の任務を交代し、家路につこうとしていた途中だった。
夜空に浮かぶ北斗七星の話に触れたあとに、隣を歩く銀狼が望遠鏡を今から見に行かないかと言い出したのだ。
明日の仕事のために早めに就寝すべきではないかという思案もあったが、返答するまで空いた間に思考の揺らぎに感づいた弟が、とどめとばかりに笑みを浮かべこちらの手をとり前方に駆け出した。
走る速度は意外と自分より弟のほうが早いため、引かれる右手を支点に前方に傾いた上体を、下半身に重心を置き踏み出した足でどうにか支える。
踏み出した軸足と逆の足をまた前に出して、つられるように走り出せば、そのまま交互に動く足がサクサクと雪を踏み固めていく。
手を引かれ二人で走る夜道は、満月から注がれる月光が地上の雪に反射され、陰が一つもないような純白で明るい世界だった。
「手を放せ、銀狼、転びそうだ」
振り向いてこちらを見上げてくる相手の、前髪の隙間から覗く瞳が悪戯な童心に満ちているのがわかる。
雪と銀狼の瞳を経由し己に注がれる月光のきらめきを、最後にハッキリと見たのはもう何年前の冬の話だろうか。
科学の力で視力が補正され全てが明朗に見えるようになってから、弟の瞳の吸引力が増しているような気がして、視線を外すことができないまま白い息を細く吐いた。
「明日の仕事に響かん程度ならかまわん」
己の台詞に安堵したのか、兄である自分が言うことを聞いたことにより得意気になったのか、
勝ち気に口角を上げたまま手が離される。
瞬時に冬の冷たい空気に包まれた掌が、手を繋がれる前よりも寒く感じるのは、きっと仕方のない話なのだろう。
冷えて体温が奪われていく指先を握りしめながら、自分より歩幅の狭い足跡をなぞって夜道を歩いていった。
※※※
季節は巡り、雪がとけて草木が萌える季節になった。
千空が調整を終えた望遠鏡は、完成直後は星を見たい人々で賑わっていたが、しばらくするとそれもまばらになっていた。
今となっては誰もいない時間のほうが多いようだ。
先客のいない二人きりの室内で、先に望遠鏡を覗きこむその背中を見ていると、春の夜風がその黄金色の髪をすくった。
衣替えをして身軽になった衣服は、夜の空気にさらされると少し心もとない気がする。
熱心に望遠鏡を覗き込む弟は、何かクロムに聞いた星を探しているようで、静かに装置を動かしていた。
普段は幼く騒がしい動作が目立つ銀狼が、この空間にいると静かに夜の月明かりに照らされるばかりだ。
望遠鏡の前方の壁の大きな窓によって切り取られた夜空に散らばる無数の星を眺めながら、どの星を探しているのだろうかとぼんやりと思考がゆるんでいく。
音のない薄暗い室内でただ星を見ていると、視界の端からまどろみが滲んできて、自分と周囲の境界が曖昧になるような感覚がする。
銀狼と二人でこの空間にいる時は、浮遊感のような、逆に水の中に沈んでいくような、なんともいえない感覚になる。
「あった」
突然大きめの声量で発せられた言葉に、水の中に一匙の氷が投げ込まれたような衝撃を覚えた。
「あったよ金狼、クロムが言ってた星!」
得意気に笑う表情は幼子のようで、いつまでたっても変わらないなと苦笑したくなる。
ただ別にあえてそれを表に出す必要もないと思い、表情は変えずに弟の顔を見つめ返した。
誘われる手の動きに導かれ隣に膝をつくと、銀狼が立ち上がり場所を譲る。
装置の角度や位置を変えないように注意しながら、筒の中を覗き込む。
狭く丸い画面の中央には一つ大きな星が煌めいていて、見つけてくれてありがとうと言わんばかりに自己主張していた。
ふと筒から目を離し窓を見つめると、もうその星がどこにあるのかわからないのだから、不思議なものだ。
銀狼が語るクロムに教わった星の知識を聴きながら、再び望遠鏡を覗き込んだ。
※※※
望遠鏡を覗き込んでいる金狼の様子を見ながら、なんだかんだ誘えば一緒に来てくれる兄の優しさに甘えているなと思う。
不思議と一人ではあまり来ようとは思わないのだ。
一度だけ一人できて星を眺めた夜があったが、それも悪くはないけれどどこか寂しさを感じて、すぐに帰ってしまった。
それ以降、自分はここに来る時は、毎回必ず兄を誘っている。
きっと自分は共有したいのだ。
幼い頃は一緒に見ることができた星は、いつの間にか金狼は見ることができなくなってしまっていた。
夜空を見上げて星を指さしたり口頭で説明しても、眉をひそめるばかりで、その横顔を見上げる時、なんともいえない気持ちになったものだ。
きっともう自分は、兄と、美しいと思う風景や、世界の彩りを、共有することが難しくなっていくのだと、ぼんやりと考えていた。
クロムが星を見て何か話しだした時、金狼が見えていないことを隠すために、いつも以上に饒舌に会話に乗っかりもした。
あのねクロム、金狼には見えてないんだよ、と、喉まで出かかった言葉を飲み込んで見上げた夜空は、なんだか重たく暗く感じたものだ。
それが今は、千空が作ってくれた眼鏡のおかげで、兄は昔の視力を取り戻せたのだ。
悪くなってしまっていた目つきも昔の穏やかさを取り戻し、朗らかなものになっていた。
そして今こうして同じ景色を二人で共有できていることが、なんだか嬉しくてたまらない自分がいる。
直接言うのはさすがに恥ずかしい気がして伝えたことはないけれど。
美しいと思う風景や、綺麗だと思うものを、二人で同じものを見られることの喜びが、心に咲いていく。
「金狼、眼鏡作ってもらって良かったねぇ」
千空が来てからいろんな新しいことがたくさん起きて、皆が楽しんでいる。
今までになかった活気に溢れている村の中で、人一倍浮かれている自覚もあった。
面白いことは面白いし、知らないことは気になるし、すごいことはすごい。
素直に感情が溢れる自分と反対の性格をしている兄ですら、千空の科学に心躍る瞬間があることが如実に伝わってきた。
これからますます村は発展していくだろう。
その中で、自分と兄はどうなっていくのか。
戦うのは好きじゃないし怖いけど、また司帝国の時のように争う時がくるんだろうか。
それとも、もうそんなことしなくてもいい世界が来たりするんだろうか。
自分はそんなに頭がよくないし、先のことはそこまで考えられない。
けれど、どんな未来を思い描いても不思議と今と変わらず隣に金狼がいることだけは確かで、なんだかそれがおかしくて笑いたくなってしまった。
「ねぇ金狼、これからの話をしようよ」
兄が思い描く未来はどんなものなのだろう。
好奇心なのか、興味本位か、あるいは答え合わせがしたいのか。
望遠鏡から顔を外してこちらを見上げるその表情は穏やかな夜そのもので、やっぱり眼鏡作ってもらってよかったねと再度心の中で呟いた。
※※※
これからの話をしよう、と唐突に降ってきた言葉に、返答までに時間を要してしまった。
これから、と考えれば、いくらでも可能性のある未来が目の前に広がっていた。
少し前までは考えもしなかった世界や、価値観や、景色が、無数に手の先にあるのだ。
千空が語る石化した全人類の復活ーーーそれが己が生きているうちに実現するのだろうと、信頼し受け入れているのだから不思議なものだ。