可哀想に。それ以外しっくりくる言葉が見つからない。いつも子犬のように喧しく忙しなくじゃれついてくるヴィラルが言葉も発せずにぼんやりとしているその姿を見て、流石のロシウも彼に同情させられた。アディーネが怒りのままにさっさと部屋を出て行けと唸ったというのに、彼女の精巧な尻尾で随分と頭を叩かれたヴィラルは目の焦点もあっていない。呆けたまま返事をせずにいる彼にアディーネが顔を顰め、もう一発と大きな尻尾をゆらりと持ち上げたのを視界の端に捉え、ロシウは彼を庇うように肩を貸した後、一目散に彼女の部屋を出た。
「使えるか」
部屋についてゆっくりと座らせ、ロシウが自分のハンカチを持たせてもヴィラルは焦点の合わない目で返事の代わりに吐息を漏らすだけだった。珍しく大人しい彼の鼻からはだらだらと鼻血をが流れているが、それを拭わずにいる。ロシウはため息を吐き、部屋に備え付けてあるティッシュを数枚手に取った。彼に向かい合ってしゃがみ、どこを見ているのか分からないヴィラルの顔に手を添える。軽く上を向かせると、ぬるりと顎まで血が流れ、ロシウの手にもぽたぽたと血が付いた。
潔癖症のきらいがあるロシウは汚れたその手をじっと見つめる。他人の体液を好ましいと思うことはないが、あまりにも静かな彼を見ているとそれ以上に可哀想だという気持ちが煽られて、ロシウは彼の顔をそっと拭った。
「……?」
「大丈夫か、大分おかしくなっているぞお前」
目の焦点が合っていない、脳震盪を起こしているのかわずかにゆらりと揺れ、返事の代わりに息を吐くだけ――心配になり、ロシウが彼の目の前で手をひらひらと振ると、ヴィラルは首をこてんと傾げ「……ろしう?」と掠れた声で呟いた。ロシウは安堵の息を漏らし、彼の手に持たせたままのハンカチを指さし「使え」と言い聞かせた。ヴィラルは数秒手元をぼんやりと見つめた後、それをゆっくりと自分の鼻のあたりに押し当てた。
意志の疎通は出来るようになったと考えながら、汚れたティッシュをゴミ箱へ入れる。ふと、ヴィラルが目線で自分の動きを追っていることに気が付き、ロシウはどことなく笑いたいような気持ちになりながら彼に声を掛けた。
「頭は痛むか」
「……いたい」
「血は止まったか」
「たぶん」
「物が二重に見えたり、吐き気がしたりはしないか」
「にじゅう……」
幼子のように言葉を返す彼にロシウは眉を顰める。おろおろと困ったように返事に詰まっているヴィラルにもう一度「物が掠れて見えたり、見えにくかったりしないか」と尋ねる。彼はぼんやりと首を振った。
それならば大丈夫だろうとロシウは立ち上がった。不安そうに見上げてくるヴィラルに「手を洗ってくる」と告げロシウが洗面台の方へ足を進めようとすると、ヴィラルは汚れていない方の手でそっと服の裾を掴んできた。
焦点が曖昧な目で不安げに見つめてくる。いつもきゃんきゃんと煩い彼の殊勝な態度にロシウは揶揄うのも馬鹿らしいような気がしてその手を掴んでそっとはがす。それでも目を逸らさないヴィラルに「どうした」と声を掛けると、彼は表情を変えずに掠れた声で呟いた。
「きもちがわるい」
手についた血は爪の間に入り込み、硬くこびりついていた。何度擦っても汚れが落ちていないような気がして、ロシウは何度も手を洗いなおす。部屋に備え付けてあった洗面所はトイレと一部屋にまとめられていた。ロシウは徒歩一歩の距離で蹲っているヴィラルの姿を見つめながら、深いため息を吐く。
便器に突っ伏しあまりにも静かにしているからそのまま寝てしまったのかと思っていたが、ヴィラルは荒い息を吐き、顔を真っ青にしている。口からはぽたぽたと断続的に唾液が流れ、水面に落ちていた。
「……う、ぇっ……、……っ」
手に着いた血は大分落ちたと、ロシウは自前のハンカチで手を拭う。旅行前に「ハンカチばかりそんなに持って行ってどうする」とヴィラルが唸っていたことを思い出しながら彼の方をちらりと見ると、ヴィラルはロシウが先ほど鼻を拭うように渡したハンカチをまるでお守りのように強く握りしめていた。
可哀想に。いつも喧しく目につくせいで、ヴィラルはロシウの倍叩かれる。ぼんやりとした彼は幼子のように、自分の状況がわからないと不思議な顔をしながら息を荒げていた。
「……っ、え」
びちゃびちゃと水面を打つ嫌な音が響き、ロシウは顔を顰める。饐えた臭いの後に、ヴィラルは「ああ」と呆けた声を出した。ぼんやりと自分の吐き出したものを見つめた後、彼は息を吸い、もう一度悲しそうに「あ……」と呟いた後ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
ロシウは彼の横にしゃがみ、背中を擦る。痛い目にあって、吐いて、泣いて――今日顔を突き合わせて戦った子供達だって、もう少しマシな精神構造をしているとロシウは眉間に皺を寄せながらヴィラルに声を掛けた。
「大丈夫か」
「……ろしう」
「どうした」
「あたまがいたくて……」
「ああ」
「きもちがわるい……っ、いたい」
「それが嫌で泣いているのか?」
ヴィラルはそれには答えず、けほ、と小さな咳をした。ぽたぽたと濁った唾液が口許を伝い、顎まで滑り落ちる。ロシウはヴィラルが大事に握りしめているハンカチを取り上げて、彼の口許を拭った。ヴィラルは小さな子供のように目を瞑ってそれを受け入れていたが、ひゅっと小さく息を飲み、彼の顔が再び青ざめる。
「……っ、え、うえ、え……っ」
「ああ、もう」
だらだらとヴィラルの口から吐瀉物が流れる。その様子は吐いているというよりは、無抵抗にあふれているだけのようにすら見えた。ぼたぼたと粘度の高い液体が水面に落ちる音がまた響き渡った。
髪の毛がだらりと下がろうとするのを片手で掬い上げる。生理的に流れる涙や、ぐちゃぐちゃと汚れている唾液で手が濡れたが、もう今更だと諦めた。ヴィラルは何度も苦しそうに胃の中身を吐き出し続ける。その様子を、可哀想以外どう表せばいいのか分からずロシウは息を吐いた。
しばらく嘔吐を繰り返し胃液までもどしきったあとも、しばらくヴィラルはぼんやりと便器の前に座り込んでいた。そんなところにいてどうすると水のペットボトルを渡しヴィラルがそれをゆっくりと飲み込むのを、ロシウはじっと見守る。さらに吐き戻すことは無さそうだ。空のペットボトルを受け取り、ロシウは彼に向って「頭は痛むか」と声を掛けた。
「……少し。けれど大分マシになった」
「そうか」
「つかれた」
受け答えが大分まともになったと考えながら、ロシウはもう一度彼に肩を貸し部屋まで引きずる。ヴィラルは掠れた声で「すまない」と言った。ロシウはそれには答えなかった。
ヴィラルは返事が返って来ないことに不服そうな表情をしたあと、大きく欠伸をした。今度はとろとろと視線を溶かし、かくんかくんと頭を揺らしている。軽く身体を揺すると、彼は蕩けた声で「ねむりたい」と呟いた。
「そ、……れはまずいんじゃないか」
「どうしてだ、時間がないのか」
「いや、そうではなく。頭を打った後に眠いのは、良くない気がするんだが」
ロシウの言葉を聞かずに、彼は目を瞑る。焦って彼の身体を揺すると、ヴィラルは鬱陶しそうに顔を顰め「疲れただけだ」と呟いた。
特に何を言っても聞くつもりはないらしい。すやすやと子供のように寝息を上げるヴィラルの顔を眺め、ロシウは眉を顰めて「三十分後に無事を確認させてもらうからな」と声をかける。すでに眠りは深いのか、返事はなかった。
相も変わらず縋るように握りしめている彼の大きな手を見つめる。力無い彼はどうにも幼子のように見えて可哀想だと思いながら、ロシウはもう一度手を洗うため洗面台の方へと向かった。