私は銃の無い国に生まれたから、銃声と言うものをこの耳で聞いたことはない。ただ耳に響くこのパンッという音はきっとその音に近いのだろう。音の後に、痛み。目の奥がちかちかと明滅して、次にぼすんと柔らかい感触。ソファに倒れたのか――私が身体を起こすと、目の前の小さな女の子、私の大好きな千波ちゃんはハァハァと荒い息を漏らしていた。
「ひどい」
そう言って千波ちゃんはローテーブルの上にあるものをすべて回し蹴りで机の下に落とす。まあるいガラスのグラスに注がれた私のアイスティーと、千波ちゃんのミルクティーがバシャンと白いカーペットに染みを作った。グラスは割れなくてよかったと思っていると、千波ちゃんはそれをサッカーボールのように蹴り上げて壁に当てた。パリンッと軽快な音が響く。私は痛くて顔が上げられないからグラスのたどった運命は分からないけれど、きっと割れちゃったんだろう。まあせいぜい三百八十円、週末一緒に買いに行きましょう。
主観だけど、千波ちゃんはとてもかわいい子だと思う。小柄で、ぱっちりとした二重で黒くて大きな丸い目をしていて、なんだか善良な小リスみたいだ。その小さな手から先ほど激しい音が生み出されたとは思えない。千波ちゃんはボロボロと涙を流しながら私に馬乗りになり、ピシャンッと右の頬をぶった。
ピシャンッ。パシンッ。耳が変になるほどその音を聞かされる。目からは生理的な涙がにじむ。私はぼんやりと千波ちゃんの顔を見つめた。千波ちゃんのかわいい顔はぐしゃりと歪んで、眉はつり上がっている。鼻の頭は真っ赤で、歯を食いしばっている。ふーっ、ふーっと漏れる荒い息は大型の肉食動物っぽくて、ちぐはぐで、私はそれがなんだか面白かった。
千波ちゃんは手を思い切り振り上げ、握り拳を私に振り下ろす。頬骨にのめり込んだそれはゴヅッともゴリッとも聞こえる音をさせた後、そのまま滑って目の方にも痛みを与えた。千波ちゃんの顔が一瞬ひるむ。私は彼女の手をとって、痛む片目を瞑ったまま口を開いた。
「どう思う」
千波ちゃんはぼんやりと「許せない」と呟いた。千波ちゃんがまだそう思っているんだったら、続ければいいと思った。私は無抵抗にだらりとソファの上に寝転がる。千波ちゃんは素直で、そう言われるとまた顔を鬼のように恐ろしくして拳を固く握りしめた。右頬やみぞおちにばかり繰り出される攻撃に、私は千波ちゃんって右手の方が攻撃しやすいんだなとぼんやりと思った。
千波ちゃんは泣いていた。ひとしきり私を殴った後、私に馬乗りになったまま真上を向いて大きく息を吸い「うわああん」と泣いた。殴られてた私が生理的に浮かべた涙よりもずっと、千波ちゃんの方が大粒の涙をこぼしている。私は痛む体をゆっくりと起こして、千波ちゃんの小さい身体を抱きしめた。背中をゆっくりと擦る。千波ちゃんは赤ちゃんみたいにヒックヒックとしゃくりあげて「かやの」と私の名前を呼んだ・
「ごめんね、ごえ、ごめんっ、ねえ」
「すっきりした?」
千波ちゃんはこくんと頷く。千波ちゃんがすっきりしたなら、私ももうすっきりしたことにする。千波ちゃんの真っ赤になった拳に一度キスをして、私は千波ちゃんより先に立ち上がった。殴られたみぞおちが妙にぎゅるっと音を出したけど、私は気付かなかったふりをして台所にためていた古新聞を取りに行く。ガラスの破片を拾おうとする千波ちゃんは既に眠そうで、私は「後は私がやっておくから」と言った。
「千波ちゃんは寝ましょう、あなた七時間は寝ないと。お薬飲んだ? 自分で忘れず飲めたの、偉いね。ハグしてから寝ようか」
「かやの、あの」
「明日も」
そう言うと、千波ちゃんはびくっと身体を震わせた。私は彼女を揶揄うように「あはは」と笑った。私の日常、そんなに嫌なことばかり毎日あるわけじゃないから安心してほしい。私はふと時計を見る――零時を過ぎていた。私は「今日も」と言い直す。怯えたような顔をする千波ちゃんの頭を撫でて、私は口を開く。
「今日も、嫌なことがあったら私の代わりに怒ってくれる?」
千波ちゃんはおずおずと頷いた。訂正、私の日常って千波ちゃんがいなければ嫌なことばかりだ。
▽
六月の電車は嫌い。べたべたするし、普段歩きや自転車で通勤している人たちもこぞって電車を使うから人口密度も高い。
千波ちゃんとは乗る電車のホームが違うから改札でバイバイしたのだけれど、やっぱりなんだか今日は悲しそうな顔をしていた。ああいうことをした日はいつもそう。私は頬と目の周りに出来た痣を綺麗にコンシーラーで見えなくしたのだけれど、それでもまだ気になるのか千波ちゃんは朝私の顔をほとんど見なかった。気にしなくていい、私なんか。
乗り換えはなく、十五分ほどで会社に着く。乗り物酔いしやすいのでこれはありがたい。私は古いビルの入り口に立つやる気のなさそうな守衛さんに社員証を見せてから、建物の中に入る。机に着いてまず目についたのは、今月のボーナスに関する通知だった。今月は6月24日に振り込まれるらしい。去年と同条件、昇給もしていないから手取りも大体同じ額だろう。私は自分のものにならないそれにさほど興味が持てず、すぐに引き出しにしまって業務を始めた。
今は違う会社に勤めているが、千波ちゃんと出会ったのはこの会社だった。短大を出て二十歳の春に一緒にこの会社に二人で事務として入社した千波ちゃんは、なんだか妙に元気な子だった。妙に元気で、いつも机の下で足がぱたぱたしていて、同じ指導を受けても千波ちゃんはミスが多かった。私は千波ちゃんと比べて褒められることが多くて、でもその反面千波ちゃんがミスして遅れた分の仕事が回ってくることも多かった。だから千波ちゃんのことは好きってわけでも、嫌いってわけでも無かった。
千波ちゃんのこと、好きだと思ったのはその年の六月。初めてのボーナスが振り込まれた日に、千波ちゃんは電子の給与明細を見て目をきらきらとさせながら「ボーナスですよ! どうするかやのさん、何買う、何食べる。一緒行く!?」とまたパタパタと楽しそうな声を上げていた。私はそのボーナスの使い道が決まっていたのでそれを口にした。
「全額母に振り込みます」
千波ちゃんは一度首を傾げたあと、ぽんっと手を叩いて「親孝行だ~」と呟く。そんなんじゃない、と思っていつもなら黙っていられるのに私は何故か「別に、寄越せといわれたから渡すだけです」と呟いた。千波ちゃんはぴたりと固まって「え?」と首を傾げている。話は終わりと言うようにパソコンを向いたが、千波ちゃんはまだ私の方を向いていた。
「……自分で稼いだのに?」
「まあ、うちは進学のお金とかも親に出してもらいました。これくらい渡してもいいかなって思ったんです」
「親孝行じゃなくて?」
「別に渡したくて渡すわけではないです。うち、除湿器ないからもしこのお金手元に残していいならそれに使いますよ」
「そうしたらいいんじゃないの」
「まあでも、これくらいなら渡してもいいかなって」
平行線、というのは私だけが感じていたわけではないようだった。千波ちゃんはスッとパソコンの方をむいてしまった。冷たくあしらいすぎたかも、と私は千波ちゃんの方を向き「千波さんは、なにか買うんですか?」と内心どうでもいいことを聞いた。千波ちゃんは真下を向いて、すんすんと声を上げて泣いていた。
どうして泣いているのだろう。私のこと、分からないから泣いているんだろうか。それとも部屋に除湿器のない私に同情したのだろうか。どれにしたって、千波ちゃんはきっと自分のためではなく私のために泣いていた。
それを見て私は千波ちゃんのことを、可愛いと思った。他人のことを自分のことのように悲しんで泣ける女の子を可愛いと、好きだと思った。
この子は私のために泣いてくれて、怒ってくれるんじゃないかと思った。
結局事務には向いていなくて千波ちゃんが会社を転職するときに告白したのも私。珍しく他人からあまり望まれていないことをした気がした。千波ちゃんはたっぷり一週間悩んでから電話で「つきあうってこと?」と聞いてきた。私は「あなたがそうしてくれるなら」と言った。私たちは付き合い始めた――今年で三年になる。
▽
二人で暮らす2LDKのアパートに帰ると、千波ちゃんは玄関でしゃがんでいた。今帰ってきたのだろうか、小さい背中に「ただいま」と声を掛けると、彼女は振り返って「桃」と言った。彼女の足元には大きな段ボールが置かれている。ふわりと甘ったるい果物の匂いがした。
「桃じゃなくて、おかえりでしょ」
「おかえりかやの。桃だよ桃。初物ですね」
千波ちゃんの実家は時々こうやって私たちの家に二人で食べるのにちょうどよい量の季節の果物を送ってくれた。それどころか千波ちゃんの両親は私たちの関係を知っている。私も千波ちゃんの両親に会ったことがある。なんだか自分の親のべったりした感じとは違う、爽やかな干渉に羨ましさを感じた。私の親は一度も果物なんて送ってくれたことは無い。時々賞味期限が切れそうなレトルト食品なんかは送ってくれるけど。仕方がない、私は千波ちゃんと私のことお母さんには言っていない。
「お礼の電話、土曜日になっちゃうね」
「明日の昼休みに私がするよ。お母さんはいるはずだし」
「お父さんも千波ちゃんの声、聴きたいと思う」
そう言うと、千波ちゃんは「じゃあ今日はメールだけにする」と言った。私は靴を脱いで先にリビングを目指す。千波ちゃんは小さな体で大きな段ボールをうんしょうんしょと運んでいた、可愛い。
千波ちゃんを先に風呂に入れて、私は段ボールの中身を見る。桃が六つ、賞味期限の長いクッキーの小さな缶が一つ、千波ちゃんへの手紙が一通。私は桃をひとつひとつビニール袋に分けてから冷蔵庫にしまい、ふたつだけ氷水につけた。これで私と千波ちゃん、お風呂上りに桃が食べられる。クッキーは冷蔵庫の上のお菓子箱に入れる。これで背の低い千波ちゃんが無計画にもぐもぐ食べてしまうことは無いだろう。
「お風呂どーぞ」
「はい。千波ちゃんお手紙机の上置いておくね。段ボール潰してから読んで。桃は今冷やしているところです、触らないように。包丁も危ないから剝かなくてオッケー」
「はーい」
私はスマホを弄りながら、下着とパジャマをカラーボックスから出して風呂を目指す。千波ちゃんのお母様に私もお礼の連絡をしておくと、すぐに返信が来て「かやのちゃんこそいつもあの子のことありがとう」と書いてあった。私はくすぐったい気持ちになりながら脱衣所に置いたパジャマの上にスマホを置く。服を脱ぎ終わったあたりに、ぽよんとスマホが音を立てた。
画面を見る。メッセージアプリを使った兄からの連絡だった。短いひとこと「真に受けてあいつに金送らなくていい」だけ。私はそれに既読もつけずに、風呂にとぽんと浸かった。
お兄ちゃんは結婚するまで毎月お金を送っていたじゃないか。私は女だから給料も少ないだろうしボーナスの時期だけでいいって言われているの。専門学校を出たお兄ちゃんと、短大を出た私、大してお給料は変わらないはずなのにお母さんはそう言った。お母さんはどちらかというと、娘の私が好きらしかった。私はお兄ちゃんが大事にされていない横で、優越感に浸っていた。だから、これくらいは平気。お兄ちゃんより全然平気。
お風呂から上がると千波ちゃんが桃を食べたいのか、つんつんと氷水に浮かんだ桃をつついていた。私が桃の皮を剝いていると、千波ちゃんは足元に座ってぽやぽやと歌を歌っている。皿とフォークくらい出してほしくてそう言うと、千波ちゃんは「はあい」と間の抜けた返事をして食器棚の方に行く。用意されたガラスの小皿にひとつぶんずつ桃を乗せると、千波ちゃんはどっちが多いのか一生懸命見比べていた。
私はアイスティーを紙コップに注いで先にソファの前のローテーブルに置く。千波ちゃんはゆっくり机の上にそれを置いたけど、まだどっちを食べるのか迷っているらしかった。
「……千波ちゃんって、すっっっごい馬鹿だよね」
「う、うるせー! たくさん食べたいでしょ!」
「私の一切れあげますよ。その代わりこれから食いしん坊と呼ぶ」
「ひどっ、いらないよっ、それはずるだから!」
千波ちゃんは手で大きく罰を作り、そしてうんと悩んだあと右の皿を選んだ。どっちも変わらないと思うけど、そっちの方が皮が硬かったから削られた実も多そうだけど無粋なので黙っていた。
初物の桃を食べながら、今日の仕事の話。千波ちゃんは今別の会社で営業の仕事をしている。大きな会社で、私のいる会社よりも仕事がしやすいのかのびのびとしている。今日、同僚が結婚をしたらしい――同性と。だから同じ部署の人たちでランチ会をしたらしい。千波ちゃんのそういう話を聞くたびに私は別の世界とまでは思わないけれど別の国の話みたいだなって思う。私は上司に「女は二十四ぐらいが旬だ」と言われ、二つ年上の営業職の男と来週飲み会に行かされる。一度挨拶をしたことはあるが、それくらいの相手と――向こうも困っていた。
まあでも本気で嫌なら転職をすればいい。それをしてないならきっとそんなに嫌じゃない。千波ちゃんのこと、いいなって思うけど何も行動を起こしていないのに羨ましがるのはなんというか、甘えんなって自分を罵る以外出来ない。あこがれるくらいなら行動すればいいんだ。本当に私は自分に甘くて嫌になる。
「桃ってせかいでいちばんおいしい」
「柿の時もあなたは言います」
「柿の時は柿がせかいいちおいしい。困るよね」
千波ちゃんは皿の上に残った果汁をスーッと飲み込んで、小さなフォークを咥えたまま開けていなかった手紙の封筒を切った。私は彼女の口からフォークを取り上げる、危ないよ。便箋が一枚、ボールペン字講座の見本のような綺麗な字。手紙の中に「かやのちゃん」の字が見えて、私は恥ずかしくなって目を逸らした。
「……おわ、お小遣い入ってる。かやのちゃんと美味しいもの食べに行ってだって。もう、いいのにね」
「……」
「でもありがとうって言わなきゃ。なんかおいしいものでも食べにいこっか、ハンバーグ食べたいな~」
封筒から出てきた五千円札が、ひらりと落ちて机の下に滑り込んだ。千波ちゃんは急に反転した視界に目をぱちくりとさせながら「かやの」と呼んで私の顔に手を伸ばす。私は昨日と丁度逆――千波ちゃんのことを押し倒しながら荒い息を吐いた。
なんだかむしゃくしゃした。いろんな気持ちが綯交ぜになる。なんでだよ、24日のお昼休みにお母さんに振り込みにいかなきゃいけないこと、来週知らない男と飲みにいかなきゃいけないこと、私が家でずっとお兄ちゃんのこと見捨てていたこと、今日やらされていた残業がどう考えても事務ではなく経理の仕事だったこと、千波ちゃんのお母さんが優しいこと、全部全部、気持ちが悪かった。千波ちゃんの頬に触れる手だけが冷たくて、心地よかった。私はぎゅっと目を瞑る。嫌なことは全部袋に入れて、布団圧縮みたいに小さく小さく潰して、押し入れ投げ込む――そして押入れが溢れそうになったら千波ちゃんに代わりに怒ってもらう。千波ちゃんに代わりに怒ってもらって、暴れてぶん殴ってもらわないと私は自分で泣くことも出来ない。
「嫌なことがあったの?」
「わからない」
考えられない。自分のことは何も。
「触ってほしいって言って」
私の口からまろび出た言葉に、千波ちゃんは首を傾げて「触りたかったら触っていいんだよ」と言った。私はぶんぶんと首を振って、もう一度同じことを言った。千波ちゃんはその言葉を口にした。小さな手を割るように繋いで、キスをする。桃の味がした。
私はきっと幸せの中央値にいる。もっと幸せな人もいてもっと不幸な人もいる、そんな真ん中。もしかしたら平均よりちょっとだけ下かもしれないけれど、そうなるだけの悪いことをたくさんしてきた。それに頑張れば抜けられる不幸せに浸かっているのは、努力が足りないからに違いない。私の気持ちを察したのか、千波ちゃんは不安そうに口を開いた。
「かやのは頑張ってるよ、頑張ってる」
「……千波ちゃんだけよ、そう言ってくれるの」
それに加えて私には千波ちゃんがいてくれる――怒る気も湧かない私へのボーナスだ。千波ちゃんの声が部屋に響く。彼女がいなくなったら、私も自分で怒ってみたいと思う。やり方は分からないし、千波ちゃんがいなくなったらたぶん死ぬのだけれど。
おわり!