深い森には魔が住まうという。魔物や魔女がいつから、ではなく。常にどこかに現れてはどこかへ消える。
 元々その森はどこかの貴族が所有していた土地だった。しかし金遣いの粗い彼らは財政難に陥り、没落。多大な借金を方々の貴族から行ったうえに破産し、所有物は全て売り払われた。森も例外ではなく主を失った。数年経ち、森は管理されずに誰の物でもないと噂されている。噂と同時に、森へ出掛けた者達から森に纏わる奇妙な話も近隣の町や村に広がりつつあった。
『森のどこかに小さな屋敷がある』
 場所は定かではない。深く生い茂る木々から場所を借りるように、塀に囲まれた屋敷があるのだという。遠目から見てもわかるほど外壁には蔦が這い、多少寂れているらしい。一見、廃墟だと思えるが庭とおぼしき塀の中は整理されており黄緑色の芝が茂り、苔ひとつない石畳が敷かれている。屋根から出る煙突からは煙が上っているのを見かけた者もいた。だが、話をする者のほとんどが遠くからしか見たことがない。森に入る者は屋敷を一度は見てやろうと、探索してやろうと意気込んでいる者も少なからずいる。館に近付こうとする強い意志があればあるほど、屋敷は遠くに見えるらしい。どういうわけか悪意や好奇心を持つものは排除されているようだった。
 魔物に化かされたか、魔法でもかかっているか。悪いイメージが付きまといがちな話の反面、旅行者や流れの商人、猟師などからは「屋敷に助けられた」とされた。森に迷い疲れ果てたときなど、どんな好奇心があっても困った時には鉄格子と煉瓦でできた塀の側に自分が立っている。まるで心細く不安な気持ちに寄り添うように、優しい温かな明かりが灯っている屋敷をいつの間にか見上げているのだという。
 そこで何を見たかは、助けられた者も口を開かなかった。覚えていないものは話せるはずもない。温かい食事や飲み物を提供されて安心し、帰路を教えられた次の時には森の入りぐちで立ち尽くしていた。どうやって戻ったのか。どのような屋内だったのか。屋敷に関わる記憶自体がごっそり消えているのだ。優しい声色の女性と人のいい館の主に助けられたことは共通して皆が覚えていた。
 ――つまり、どこかの大層な成金が誰にも知られぬように世捨て人として静かに住んでいる。
 そんな噂で納められる程度の認識が周囲に生まれるのは想像に難くない。しかし話は巡り巡って、別の意味も含み始めた。
 悪徳商法で儲けた成金が全財産を持ち出して森の屋敷を買った。誰の手にも入らぬように全て屋敷に隠し、悠々自適な隠居生活を行っていると。
 森に侵入するものは噂が広まるにつれて少しずつ増え、人の行き来が多くなった町や村は生活が潤った。自警団の規模が大きくなるなどの治安悪化もあるが、問題になるほどに態度の横柄な輩なほど戻ってきても二度と森へ行こうとしなかった。元々不可思議な噂のある深い森に恐れをなしたのか再び町の煉瓦を踏まなかったものもいた。
 消えた連中は魔女か魔物に化かされたか、喰われたか。それでも真摯なものには優しく接する深い森。
 人々は懐の知れぬ場所への畏れを抱きながらも、共存していた。
  おぼつかない足取りで今日もひとりの探索者が森をさまよっていた。何日歩いているのか。顔に覇気はなくなっていても、成人したばかりの若い青年だ。肩から鞄をさげてツバ付きの帽子を被り、左腕に腕章を巻いている。物には森から一番近い町の郵便局のエンブレムが刻まれていた。彼はそこで務める配達員だった。気力の限界が近いのか、時折木の幹に片手をついては息を整えていた。
 似たような木々が乱立し、方向感覚を狂わせて心身を削り取っていく。だが彼はどこまでも森の奥を目指し、霧深いなかをさまよわなければならない理由があった。遠方に向かうなら一端の人員でも地図を見ながら安全な経路を選んでいる。青年の目的はこの森自体に存在するのだ。
 喉が渇き、視界が霞んでいった。清流から離れる前に汲んだ水も何時間か前に飲みきってしまっている。
 森にまつわる噂なんて嘘だったのだ。誰かが力尽きる前に見た幻覚だったのだのだと、思考でさえも靄に包まれ始めた青年は思った。力ない笑いがこみ上げてくる。笑ったが、口の端はピクリとも動かない。笑う気力など今日の朝から消失していた。
 落陽が近付き薄暗くなり始めた頃、遂に青年は膝をついて倒れ伏せた。指先が地面に根を張ったかのように動かない。枯れた枝葉や小石、僅かな空をうつろに捉える視界の端で何かが『灯った』。ほわりと光るのは柔らかく淡い橙色だった。光の正体が近付いてくるランプの明かりだと気付かず、ランプの持ち主を気にする余裕もないまま、青年は眠るように意識を失った。
 青年の鼻を甘い香りがくすぐる。よく煮込まれたスープの匂いだ。まろやかな味を想像させるには十分な匂いに釣られて、脳や体も目覚めていく。彼の体には柔らかなものが掛けられていた。布団だと理解するのに数秒、自分がいる場所がベッドだと気付くのにさらに数秒。気絶したのは森の中だったはずだ。青年が驚きの勢いで体を起こせば、家具や調度品が並ぶ部屋が視界に広がっていた。掃除も行き届き、一番近くにあったサイドテーブルにも埃ひとつ落ちていない。整理整頓はされているがけっして放置されている様子はなかった。誰かが丁寧に暮らしている光景が浮かび、その誰かに自分は助けられたのだと青年は考えた。
 不穏な噂の絶えない森で唯一何かの存在を仄めかしている場所など、心当たりはひとつしかない。
 此処は例の屋敷だ。
 青年は改めて周囲を見渡した。丁寧にも洋服掛けには彼が身につけていた上着や小物が全て掛けられている。だが、鞄の中身はわからない。もしかしたら盗まれているかもしれない。確認すべく彼がベッドから降りようとしたとき、閉じられていたドアが軽やかにノックされた。青年は慌ててシーツを被り直して最初と同じ体勢に戻った。目を瞑り、相手の出方を待ってみる。ノックをした相手が入ってくる気配は一向にない。代わりに再び扉が叩かれた。先程よりも少々強くなった音は寝かされいた彼の起床を確かめているようだ。寝たふりを続けていると、静かに扉が開かれた。
 侵入してきた人物は物音を立てないよう、慎重に動いていた。狸寝入りをする青年は僅かな音だけでも拾おうと耳を澄ませる。サイドテーブルにそっと何かを置くと、ベッドの側で止まった。見下ろされていることに緊張しながらも目を閉じ続けていると、相手が動く。寝込みを襲われるのかと縮こまりそうになる体を制して、彼は必死に眠りを装う。が、彼の心配など杞憂だった。近付けられたのは手だった。彼に掛けられていたシーツの皺を優しく整える。表面を撫でただけで他は何もせずに、そっと遠のいていった。
 寝返りをうつふりをして青年はドアがある方向へと体を向ける。薄く目を開けた彼が見たのは、黒いワンピースを着た細身の後ろ姿だった。厚手の生地で縫製された足首まで隠れるスカートに、白い襟と白いエプロンのリボン。後れ毛もきっちりとしまわれたシニヨンは白い布でまとめられ、黒いリボンが飾られている。先程シーツを直した手が優しい手つきでドアノブを回した。外へと出るために背中がくるりと反転する。正面を向いたのは、年若い女性だった。青年と同年代の若いメイドだ。
 まさかこんな若い使用人がいるとは思わず、想像とは違った人物像に青年は目を閉じるのを忘れていた。薄目でも注いでいた視線だ。はた、とメイドとぶつかってしまった。
 慌てる暇もないほどに息を飲んで硬直する青年に、彼女は柔らかくホッとしたように微笑んだ。
「おはようございます。お気づきになられたんですね」
一度また此処で区切ります。おやすみなさい
パンと食べたら黄色い幸せで笑顔にしかなれなさそうな。そんな甘くて優しい
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オリジナル小説書きます
初公開日: 2020年05月17日
最終更新日: 2020年05月31日
ご主人様とメイドさんの話。
地方都市郊外の森にある、こぢんまりとしたお屋敷のお話。