肺呼吸の人魚
1
そのひとはあまりに美しかった。
暗い海を上へ上へひたすらに泳ぎ辿り着いた陸の砂浜に、倒れ込まないよう腕で体を支えながら座る彼は紛れもなく人間だった。ずっとそばに居た片割れのまるで知らないその姿は脳裏に焼き付いて決して離れない。ウツボの時とはまるで違う血色のいい肌は陸の光の中であるからか今までみたどんなそれより滑らかで透明で、濡れそぼった青が張り付いた所為か一層白さが際立っていて。見慣れた筈のオッドアイが、いやに魅力的な色を孕んだその瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「…とても綺麗です、フロイド」
恍惚とした表情であった。ジェイドは真っ直ぐにフロイドを見つめている。かち合う視線、互いの瞳にはそっくりの人間が写り込んでいる。
「ジェイドこそ、」
続く言葉を口にするより先にフロイドの胸にジェイドがそっと体重を預けてくる方が早かった。乾いた毛先が肌を掠めると擽ったい。未知の感覚だった。触れた部分から温まる人肌は新鮮で、規則正しい呼吸音が心地いい。
「ジェイド、どうしたの?具合わりいの?」
「いいえフロイド、心臓の音を聴いているんです」
ゆるゆると上体を起こしてジェイドは微笑んだ。肩に添えられたフロイドの手を自身の胸元にまで運ぶ。とくんとくんと脈打つ音、先程のジェイドのように抱きつくようにして胸に耳を寄せると温もりに包まれて安心する。
「ね、落ち着くでしょう?本で読んでからずっと気になっていたんです」
頭上から降る穏やかな声は柔らかい。暖かな手にそっと髪を梳かれるとそれだけで眠りに落ちてしまいそうだ。甘えるようにして頬をすり寄せるとジェイドはくすくすと笑って、それから優しく抱きしめられる、それがどうしようもなく嬉しくて堪らなくて。
「…貴方達、いつまで素っ裸でそうしているんです」
一糸纏わぬ裸体で戯れる双子を既に衣服を着用したアズールは呆れたように声を出した。真新しい衣服を着ている割に座り込んでいるその姿を不思議そうに眺める双子の視線にアズールは一言、今すぐに立ってご覧なさいと返す。長い脚を縺れさせ砂浜に転げた2人は結局アズールと同様新品の服を砂まみれにしながら移動する事となった。
2
陸の生活は想像していたより窮屈で面倒で厄介だった。二本の脚で立つのにすら途方も無い時間を費やしたというのにその上歩いて走って、それだけで音を上げてしまいそうになる。震える脚で何とか立って、ゆっくりと歩行の練習をする。大概の場合は直ぐにバランスを崩し倒れ込んでしまうものだから生傷は絶えない。元が8本足のアズールはまだ何とか様になる歩行をしているもののフロイドもジェイドもそもそも脚などという概念が存在しないウツボの人魚なのだから一向に歩行は上達しない。何とか最低限は身につけなくてはならないため、人気のない平坦な土地で2人は練習に明け暮れていた。当初転んでも痛くないと練習場所にしていた砂浜は存外歩きにくい場所である事に気付いたのはつい最近だった。
「脚飽きた」
何度目かの転倒の後フロイドは唐突に手足を地面に投げ出すようにして立ち上がろうとする努力を放棄した。打撲痕と擦り傷で覆われた痛々しい肌に寧ろ良くここまで耐えたものだとジェイドは感心したがやる気を失いきっているフロイドを見て思い直す。こうなったフロイドはテコでも動かない。このままでは本当に脚を使いたくないからと這って移動しかねないのだ。
「フロイド?折角2、3歩は歩けるようになったんですからもう少しだけ練習してみましょうよ。なんなら僕が手を繋いであげますから」
手を、とフロイドは一瞬顔を上げたが直ぐ地面にくっつけてしまう。
「ジェイドこけるじゃん。巻き込まれて俺も転ぶだけだからやだ」
「困りましたねえ」
地べたで駄々をこねるフロイドに微笑を浮かべたままその傍に座ったジェイドはポケットから紙包みを取り出した。日光を反射して輝く海色の菱形にフロイドは興味を示した様子だ。
「フロイド、これは人間の付ける装飾具です。僕たちが2人とも歩けるようになったら2人でお揃いのをつけようと思うんですがどうします?」
「…あるく」
「流石ですねフロイド」
それ褒めてる?と訝しげな顔をしながらも地面から身体を起こす。足をしっかり地面に付けてゆっくり手を離し少しずつ立ち上がる。毎回ここまではいいのだけれど、そう考えていると不意に風が吹いてジェイドの持つ紙の包装紙が飛ばされた。
「あ」
それが風に乗って遠くへと飛んで行く前にフロイドは数歩の助走ののち軽く跳んで掴む。
「ジェイド、これ」
「フロイド!」
紅潮した顔でジェイドが駆け寄ってくる。フロイドの手を取ったジェイドは随分と興奮した様子だ。
「貴方いま、立って歩いてジャンプまでしたんですよ!凄いじゃないですか」
「え?ジェイドも今走ってこっち来たじゃん」
2人で顔を見合わせて、自分の足を見て、また互いの顔を見て。バランスを崩す事なく真っ直ぐ立てている事に気付くと2人はまた驚いて、笑った。直ぐ付ける事になりましたね、と手元のピアスを眺めながらジェイドは零した。帰宅を急かすフロイドにその脚で追いついて2人は並んで帰路についた。
「…フロイド、付きましたよ。どうです?」
右耳が俄かに重くなる感覚がして動くと微かに揺れるそれは、自身と反対に付けられたジェイドのピアスと同じような動きをしているのだろうか。心配そうな色を滲ませながら顔を覗き込んでくるジェイドのピアスにそっと触れてフロイドは目を細めた。
「おれ、これ付けてたら歩くの飽きないかも」
お揃いのピアスが互いの耳元で揺れる。苦難を極めた歩行練習はこうして幸福な思い出へと上書きされたのだ。
3
学園生活においてジェイドとフロイドが行動を共にできる時間はそこまで確保できない。確実なのは登校や食事くらいなもので、興味の対象の異なっていた2人はそれぞれ別の部活動に所属しているため放課後の時間は合わない事だって多い。1年目は相当応えたものだが2年目ともなると少しずつ隣に片割れの居ない生活にも順応してくる。けれど結局共にいる事に越したことはないため可能な限り入浴は2人で、というのが決め事だったのだが、ラウンジや役職やら補講やら、最近の2人は兎に角時間が合わなかった。
久々に2人で、となったのは夜更けであった。海の中にあるオクタヴィネル寮では太陽が没していようとさして変わりはないのだが気分的な問題なのか、その日はやけに電灯のオレンジが強く感じられる夜だった。
フロイドは、たっぷりと湯の張られたバスタブから洗髪中のジェイドを眺めていた。常ならジェイドの部屋に行くのだが近頃のキノコと土の匂いには耐えられない。今日だってキノコの世話をたっぷりしてきたのだからフロイドの視線にはしっかりと匂いが取れるまで洗浄するよう監視の意味合いも兼ねていた。
「そんなに見つめなくてもしっかり洗いますよ」
ボディーソープをプッシュしながらジェイドは苦笑する。こうまで警戒されてしまうと少し悲しいですねなんて白々しいセリフを吐きながら、それでも少し念入りに洗ってみせる。
「フロイド、入りますよ」
身体の泡をしっかり流したのち律儀に声をかけてからバスタブに手をかける。少し寄って詰めると脚の間に座るようにしてジェイドが湯の中に入ってきた。
「随分と熱くしたんですね」
「今日は熱いのに浸かりたい気分だったし」
濡れた髪から水滴が滴ると湯の温度の割に冷えた空気に晒された肩が寒さのためか小さく震えた。寒いの、と声をかけて後ろから抱きしめるとその肌は温まった身体には余りに冷たい。
「フロイドが冷えてしまいますよ」
「んー…俺ずっと浸かってて逆上せてきたとこだったし丁度いいよお」
ジェイドもあったまったでしょ、フロイドは機嫌がいいけれどくらくらしてきたと笑うものだからジェイドは溜息をつく。
「無理せず上がりなさいと言ったでしょう」
「だってジェイドと風呂入んの久しぶりだったし」
膨れ面しても駄目ですよと叱られて、それから20だけ数えたら上がるんですよと条件を緩めたジェイドにフロイドは渋々といった顔で約束通り20数えたのち大人しくバスタブを出る。湯気で白く霞んだ浴室でジェイドは手足を伸ばして改めて湯に浸かった。
手に残る感触が常と異なった気がしてフロイドはふらつく身体をベッドに沈めた。浴室内での触れ合いはいつも通りだというのに自分の中に残る感覚だけがなんだかおかしい。今までにジェイドの肌の滑らかさがこうも忘れられなかった事などないし脳内で繰り返し反芻してしまうこともなかった。久々だったから。そうだろうか。兄弟とともに入浴するのが久々だからといってその肢体が忘れられない事などあるのだろうか。ぼんやりと夢想するのはやはり先ほどの光景、匂やかに色づいたきめ細やかな肌。齧り付けば甘美に蕩けてしまいそうなその桃の肌はヴェールのような湯煙越しに甘い芳香を放っているようで、それがオレンジの電灯に照らされていた。
甘そうだなんてそんな馬鹿な、ウツボは勿論人の肌に甘みなどこれっぽっちもありはしない。湯の熱に浮かされたのか。それともこれは所謂あれか、食べてしまいたいほど好きという奴だろうか。
「ジェイドいつからキノコになった訳?」
「はあ?」
バスルームから上がって早々のジェイドに問いかけると露骨に顔を顰められた。かと思えばキノコになったと言われるのは満更でもないらしい。
「てか俺ジェイドは好きだけどキノコ好きじゃねえし、なに?」
「貴方が言い出した事でしょうに」
おざなりに流してジェイドは水のボトルを手にとった。最早見慣れたフロイドの突飛な言動より自身の水分補給を優先するが特に真剣な対応を求めていた訳でも無いためフロイドはボンヤリとジェイドを見つめていた。こく、と白い喉仏が上下して透明なボトル口から唇が離される。
「フロイドも飲みますか?」
そう言って差し出されたボトルに口をつけるのが躊躇われたのはきっと気分が落ち込んでいたから。
要らないと突き返してベッドの半分に身を寄せる。
「俺もう寝る…ジェイドも寝るでしょ?」
おやおや、なんて困ってもいないくせに大袈裟に眉を下げて、その癖なんの抵抗もなくジェイドはフロイドの隣に収まった。それからそっとフロイドの腕の中で胸に擦り寄るようにして丸まる。2人で眠る時は心音を聴きながら眠るのもまた2人のルールだからだ。
「おやすみジェイド」
「おやすみなさいフロイド」
いつもよりほんの少しだけ速い鼓動にジェイドはなにも言わなかった。ただ愛おしげに目を細めただけだった。
4
「こい」
ぽかん、と間抜けな効果音がよく似合う顔でフロイドは1人呟いた。部屋に1人であった。その時の気分で適当に見繕った何冊かの本を本腰を入れて読む気になれず適当に流しみしている最中、ふと気になる項目を見つけたのだ。その人のことをずっと考えてしまう、とか目で追ってしまう、とか独り占めしたい、だとか。それらは全て恋という概念に当てはまるらしい。けれどそんな事を今更言われてもフロイドには理解が難しかった。海の中でジェイドと一緒にいるのは当たり前のことで