瞼を下ろせば、何度も夢に見た光景が浮かび上がった。
師匠と出会った夜。満月が煌々と輝いていたのを覚えている。
彼は大きな杉の樹に背を預けて、柔らかく目を閉じた穏やかな表情で、浅く長い呼吸を繰り返していた。
長い黒髪の間から覗く顔は微動だにせず、わずかに肩が上下しているのを見なければ、すわ屍かと見紛う有様だった。彼は静かに、じっと気配を殺していた。
「……おっさん、何やってんの」
そんな彼に声をかけることは、まだ幼い子供でしかなかった私にとって、とてつもない勇気が必要とされる行為だった。だが、幼さゆえの好奇心が私の背中を押していた。
見知らぬ相手に話しかけるときには、きちんと敬語を使わなくてはいけない。そう知ってはいたものの、恐怖を誤魔化すための強がりが、私に乱暴な言葉を使わせた。
なにしろ当時の私には、彼はまさしく死体か人形にしか見えなかったのだ。
掌中にじわりと滲んだ汗の珠を握りしめながら、私が震える声で呼びかけてから、きっかり三秒間の後。彼はゆっくりと、六秒ばかりかけて瞼を上げて、透き通る蒼の瞳で私を見た。
煌々と満月が輝く夜。光沢のない影のような髪の間から窺う蒼い光は、今でも私の脳裏に焼き付いて離れない――。
「――おい、あんた、何やってんだ!」
引きつった悲鳴が、青い光の向こう側から聞こえた。光が弾けて、瞼の裏側が闇に染まる。瞼を上げれば、燦々と降り注ぐ陽光に照らし出された、初夏の草原があった。
悲鳴の主は、あまりの恐怖に歪んでしまった顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、必死に私に呼びかけていた。それはもう酷い有様で、少しばかり笑えてしまうほどの見事な絶望っぷりだが、頼みの綱の用心棒が、あやかしの前でいきなり瞑目したともなれば、無理からぬことだと思えた。
無駄に怖がらせてしまって申し訳ないと思うが、私にとっては必要なことだ。
きぃ、と、甲高い威嚇音が鳴り響いた。泣きわめく雇い主から、わずかに焦点をずらす。私と彼とのちょうど中間の位置に、燃え上がるような赤い毛並みがあった。
否。奴の毛並みは、実際に轟々と音を立てて燃え上がっている。常人の体躯の、ゆうに三倍はあろうかという巨体を、燃え上がる炎で包んだ大猿だ。炎の毛並みを靡かせながら、奴は私に向けて口を開けていた。
私の親指よりも太い牙がずらりと並んだ口腔の奥から、きぃきぃと耳障りな威嚇音が聞こえてくる。どうやら、何も考えずに獲物に飛びかかるほど愚かではないらしい。それに、無力な雇い主は無視して私に向かって威嚇を続けているあたり、強者を見抜くだけの力は持っているようだ。
黄色く濁った瞳を光らせながら、あやかしがぐっと息を吸い込んだ。爆発するように奴の全身を覆う炎がより一層強く噴きあがり、立ち上る黒煙がもうもうと天に伸びていく。
炎の赤と煙の黒は、存外悪くない組み合わせに見えた。美しい、と言ってもいい。あやかしにしては、という枕詞は付くが。
「ひぃぃっ」
奴の向こう側で、雇い主が腰を抜かすのが見えた。このまましばらく睨み合っていても良いのだが、彼の心の安寧のために、そろそろ仕事を果たした方が良さそうだ。
ごく個人的な嗜好からすれば、奇麗な炎を眺めている方がより好ましいのではあるが、雇い主にへそを曲げられてはたまったものではない。
「斬るか」
左手を、鞘に添える。
「――!」
あやかしの炎が弾けた。威嚇のために広げるのではなく、獲物の息の根を止めるために、熱を拳の先に集中させることにしたらしい。
熱量の高さゆえ、だろうか。白く輝いて見えるようになった拳を振り上げて、大猿が跳躍した。火花と煤の赤と黒を残して、白い光が伸びる。ゆうに三間ほどあった私と奴との間の距離を、常識外れの脚力が一瞬にして縮めてみせた。
人智を遥かに超える、超常の力。常人であればろくに反応すらできず、光り輝く拳に叩き潰されて容易く消し炭となることだろう。
しかし人智を超えているのは、こちらも同じことだった。
右手で柄を握る。鞘の中、刃が小さく音を立てた――。
「――君を、待っていた」
はじめて師匠と出会った夜。師匠はそう言って、直後に利き腕を振りぬいていた。私の目には、死んだように座っていた男が唐突に片手を突き出したようにしか見えなかったが、彼の手に抜身の刀が握られているのを見つけたとき、全身から汗が噴き出していた。
斬られた。目にもとまらぬ速さで――実際、当時の私の目には見えなかった――私はこの男の居合を受けてしまっていた。
泣きそうになりながら、慌てて自分の身体に触れた。最初は腹を、次いで胸を、それから肩と腰を一通り触って、どこも離れていないことに気付き、おや、と小首を傾げたとき、急に私の胸に刃が生えた。
「驚いたろう」
ぎょっとして顔を上げた私に、師匠はにやりと笑って言った。彼の刀は、間違いなく私の胸に突き立てられていたが、しかし私は一分の痛みも感じてはいなかった。
斬られている。しかし、斬られていない。混乱する私に向かって、彼は楽しそうに言った。
「こいつは、決して主を傷付けない。こいつは――」
――赤と黒。炎と煤の塊を、一筋の蒼が断ち切っていた。両腕を振り上げたまま絶命したあやかしの体が、そのままぶすぶすと燻りながら燃え尽きていく。
近隣の村落を散々悩ませた炎を纏う大猿は、みるみるうちに灰の山へと姿を変えていった。
「師匠の技には、まだまだ遠く及ばないか」
鞘の中へ、静かに刃を収める。師匠が同じように刀を抜いたのなら、一瞬でこのあやかしは文字通り消し飛んでいたはずだ。
「精進、精進」
「お、おい、あんた、だ、大丈、夫、なの、か」
妙にたどたどしい口調で、雇い主が声をかけてきた。よほど恐ろしい思いをしたのか――間近であやかしの全力の威嚇を目にすれば無理も無いが――生まれたての小鹿のように足を震えさせながら、おぼつかない足取りでこっちに近付いてくる。
「ご心配なく。ご主人の方が大丈夫じゃなさそうですよ」
「ううううるせえほっとけ!」
「お元気なようで何よりです」
頷く私に、げんなりとした顔を向けてくる。こいつはいったい何者だ、と、その顔にありありと書いてあった。
「……あんた、なんであの距離で平気だったんだ?」
「幸い、炎が届かなかったもので」
「嘘つけ。足元見てみろよ」
視線を落とせば、青々と茂っていた草原が、見るも無残な真っ黒焦げである。
私の後方一間ほどの草が、すっかり燃え尽きてしまっていた。
「おやおやこれはひどい。どうやら私は運が良かったようです」
「運が良かった、って……はぁ。わかったよ。どうやらあんた、余程神様に愛されてるらしいな」
「ははは。そんなまさか。私なんかを愛してくれるのは、精々――」
腰に吊るした鞘の中で、かちりと小さな音が鳴った。
「――この刀くらいのものですよ」
<了>
はーとありがとうございまああああああああああああ!!!!!!!
やっぱ衝動的に書くとわけわかんねー感じになりますな。
もっとちゃんと整えてやらないととてもじゃないけど読めたもんじゃねーですね。
70分で約2800字はまあそこそこいいペースです。ちゃんと考えない故の高速とも言えますけど。拙速ってやつですかね。
最初と最後にハートもらえるとめっちゃ嬉しいですねこれ。
ちょっとだけ頭の方から修正していきます。本格的にやるには時間が足りなさすぎるのでちょっとだけです。
オチをもうちょっと考えたい。でももう22:00なので寝ます。おしまい。