まだ鷹村の到着まで三十分ある。
そのあいだに窯野へ、このことに関して軽く連絡でも入れておこう、と思いかけて、ふと指が止まった。このタイミングでアザクンが怪我したことなど教えれば、彼女は出張どころではなくなるかもしれない。それに第一、彼がなぜ背中に大怪我など負ったのか知らない。知らないままで怪我の事実だけ教えても、余計な不安を煽るだけだ。
アザクン本人に話を聞こうと思って顔を覗き込んだとき、彼はちょうど目を覚ましたところだった。
赤くなっていた目はサファイアブルーに戻っていた。
「おはよう、ユイ」
「具合はどう?」
「ヨクナイ」
良くないと言われると困るので、わたしはその弱々しい返事を聞かなかったことにした。
「具合はいいのね。それは良かった」
「ヨクナイケド」
「ヨクナイににしても聞きたいことがあるの。きみ、ムラサキに何か隠してるでしょ?」
尋ねると、彼は驚いたように目を見開いた。
「隠してることって、ドレノコト?」
「いや何個かあんのかよ」
「ボクの秘密は、ユイに関係ない。だからムラサキに秘密にするなら、言ってもいい」
秘密と聞いて、嫌な予感がした。
もとより突然現れた不審者だというのに、おまけに隠し事などあると言われると否が応でも、悪いことをしているんじゃないかと疑わざるを得ない。窯野はああみえて情にほだされやすい女だから、わたしが突っ込んで聞いてやらないと騙されるかもしれない。
「隠し事なんてなしよ」
わたしは勤めて冷静にきっぱりと言い切った。
「ぜんぶ吐きなさい。さっき散歩って言いながらどこ行ってたのか。なんでそんな大怪我してるのかも、ぜんぶね」
だが気が弱そうに見えたアザクンは意外にも食い下がった。
「ぜんぶムラサキには秘密にしてほしい。それ約束できるなら、教える」
「だめ! 秘密はなし」
「秘密にしなきゃいけない。ムラサキのこと大事なら教えちゃだめ」
「いいえ、ムラサキが大事だから話すの! きみは信用ないの。わかる?」
「わからない」
「わかれ!」
「わからないッ!」
あまりにも頑固な態度に、ついにわたしはカチンときて、怒鳴った。一気に捲し立てた。
「良い加減に教えなさいよ! わたしは窯野に本当のこと秘密にできるなんて約束できないわ。だってあいつは大事な友達だからね! もしも本当のことを聞いて、窯野に教えたほうがいいって思ったら教えるわ。秘密にしたほうがいいって思ったら秘密にする。それだけよ」
彼は――わたしの勢いにびっくりしたのだろう。
何か反論しようとするみたいに口をパクパクさせて、けれど、何も言わずに俯いて黙り込んだ。
そしてもう一度顔を上げたとき、彼は泣きそうに顔を歪めていた。
「ワカッタヨ」
「なにがわかったのよ」
「ユイは、ムラサキを大事にしてるってこと」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「それとても大事なこと。それなら、ボクもユイを信じないと失礼ダヨネ」
「じゃあまずきみがここにきた目的から教えて」
「目的は秘密じゃない。包み隠さず言う。一つ目の目的、頑張ってるムラサキを励ますこと。二つ目の目的、ムラサキの危険取り除くこと」
「危険ったって、むしろ迷惑かけてんのきみのほうでしょ」
「それは……そう。ボク、ムラサキに迷惑ばっかりかけてる。でも、もうこれ以上は迷惑かけないつもり。ボクはもともと、一週間分しか命、ない」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。彼はもう一度ゆっくりと、はっきり、確実に発音した。
「ボクは一週間後の満月の夜に消える」
絶望的な宣言だった。
窯野が恥ずかしそうに『いつか結婚したい』だなんて話していたことがフラッシュバックした。
「それ窯野は」
「知らない。言ってないから」
悪びれもせずにさらりと言う。
「なんで言わないのよ」
「ムラサキきっと悲しむ。ボク、ムラサキを元気にするために来たのに、悲しませるの、望んでない」
言葉に詰まって、反論できなかった。たしかに窯野は悲しむに決まっている。悲しむに、決まっているのだ。
「ボク、ムラサキを元気にするために、声、ゲットした。お月さまに毎日毎日お願いした。ほんのちょっとでいいから、ムラサキと話すチカラください、願った。声あれば、ムラサキに、良いことも悪いことも伝えられるデショ」
「ちょっと待ってよ。それだと、まるで一週間以内に取り除きたい危険でもあるように聞こえるけど?」
「危険、迫ってる。ムラサキ、危ない。とても危ない」
もう一つ、とんでもない秘密を暴露されるような予感がした。
予感は、当たった。
「ムラサキ、悪い霊に取り憑かれてる」
「わ、悪い霊……?」
急にそう言われても話についていけない。実感も湧かない。何から尋ねようか迷っていたところ、彼はそんなわたしを気にとめる様子もなく、静かに喋り続けた。
「ボク、この姿、お月さまにもらったもの。一週間、期間限定。一週間以内に、ムラサキについてる悪い霊、取り除く」
「本人はそのこと知ってるの?」
「知らない」
「なんで言わないの?」
「言おうと思った。でも、ムラサキ、気づいてない。それなら、それでいい」
「それでいいって、きみねぇ……」
馬鹿じゃないの、と。思ったことをそのまま口にしようとしたが、彼の表情を見て、辞めた。顔が真っ青だったのだ。泣きそうに目尻が赤く腫れていて、震える視線はベッドを通り越して、その下の地面も通り越して、仄暗い闇を見つめているみたいだった。何かに怯えている目だ、と直感的に思った。
「それにボクは、ムラサキに嫌がられてる。だってボク、変わっちゃったから。それ見て思った。大切なものでも、変わってしまったら、ムラサキは傷つく。もしも悪い霊退治したら、ボクもっと嫌われる。でも、そのほうが、ムラサキの記憶、大事にできる」
「何が言いたいの?」
「悪い霊、ムラサキは、悪い霊と思いたくないと思う。それなら、ボク、ムラサキの記憶、大事にしたい。ムラサキのキレイな思い出、キレイなままで、とっておいてほしい。だからムラサキには言わない。ボク一人、悪い霊も一人、なんとかできるはず」
「ま、待ってよ。さっきから何の話。まったく理解できないってば」
彼はすっと顔を上げ、射るような目でわたしを見た。
「悪い霊の秘密、知りたい?」
「知りたい」
「悪い霊の正体、窯野マサフミだよ」
「なんですって?」
窯野マサフミ。その名前を聞いた途端、全身の肌が粟立ちながら凍りついていく。
わたしが固まったのを、理解できなかったというサインだと誤解したらしい。アザクンは誰にでもわかりやすいように、窯野マサフミを言い換えてくれた。
「――悪い霊の正体、ムラサキのお父さんダヨ」
窯野から、父親の話は何度も聞いた。
彼女がアザくんなるぬいぐるみを大事にしていたのは、ほかでもない、父親の形見だからということ。彼女が三歳の頃にイチバンボシ・デパートで父親に買ってもらったのがアザくんで、それだけが彼女と父親をつなぎとめる唯一の思い出の品だったこと。
「……なん、で――そんなわけないじゃない!」
「ムラサキがお父さんを思う気持ち、強すぎる。お父さんもムラサキのこと思いすぎてる。二人の思いが引き付け合って、お父さん、あの世行けなかった。あの世行けないと、浄化されない。ダカラ悪い霊なってしまった」
わたしは元からおとぎ話とか、神話とか妖怪とか都市伝説とか、そういうのは信じるタイプだった。というのも、自分自身、かつて幽霊に会ったことがあるからだ。わたしが会ったことのある幽霊は、うすぼんやりとした影のようなもので、ただの見間違いかと思うほどあやふやな存在だった。
「大切な家族でも、姿変わってしまったら、ムラサキは傷つく」
「それだとまるで――窯野の親父さんが化け物になって、そんな姿見せたら窯野が傷つくだろうって言いたいみたいに聞こえるけど?」
「その通り」
幽霊はもっとあやふやな存在だと思っていた。
まさか。
まさかまさか。
点と点がつながり、アザクンの言っている言葉の意味が次第に理解できてくる。わたしは彼がなぜ背中に大きな傷を負ったのか理解し始めながら、それを認めたくなかった。
「ムラサキのお父さん、異形の怪物。ムラサキそれを知る、ムラサキとても傷つく。だからムラサキ知るはダメなことだと思った。チガウ?」
わたしはただ首を振るしかできない。唇から漏れた声は、自分が出そうとしていたよりもかすれて、弱々しかった。
「きみ」
「ナニ?」
「きみ、さっき散歩って言って、悪霊退治にでも行ったとか、言わないでしょうね?」
「言ウヨ」
絶望的な告白だった。
「悪霊退治、失敗した。オトウサン、思ってたより、怨念がツヨイネ」