地獄へようこそ。
これは人間一年生なルキノ・ディルシがノートンをはじめとする荘園の人々の「こころ」という定義できぬ何かに触れ、ヒトという生物を人間という存在として認識するようになるお話です。いや、一年生ではないか。義務教育真ん中くらい入ってるかも知らん。
テーマソングは人間っていいなだから。
暗い異国の夜の街を橙の灯りが照らす。頼りない光源の元にある全てが、ぼんやりと浮くようにそこに在り、視界に映る全てがどこか不自然なものに思えた。
まあ、今この場で何より「不可思議」であるのは、己の姿に違いないのだが。
ぐっと脚に力を込める。誰が見てもヒト科のそれではない鋭い足が地面を蹴った。身体が宙に浮く。いや、これは、飛ぶ、と言うべきか。生憎翼までは持ちはしないが、鳥居を上から越え、路面電車の屋根を跨ぎ、空を行くこの身体に跳ぶという表現を充てがうのは、些か過小評価ではないだろうか。
硬い皮膚に覆われた足にじわりと痺れが走り、それから、グシャリと肉が潰れ弾ける音が響く。線路に叩き付けられたサバイバーが漏らす声が、夜を這う。
「これは、私の勝ちか」
「……それは、僕への嫌味かな」
ヒュウと、足元で細い呼吸が鳴る。直後に吐き出された赤い体液がべとりと地面を濡らす。口の中だけに酸素を巡らせながら彼が頭一つ分身体を這わせる度に、濁った水音が広がっていった。椅子の焼け跡が三つ残るこの街には、他に、生き物の音はない。先程見かけた仔猫もどこかへ消えてしまった。
「諦めないのか」
口は、今のこの身体程、軽やかではないはずだが、そんな言葉が滑り落ちる。それもまた、彼の耳には嫌味として届いたのだろう。死地にあっても尚、この街の灯りに似た、底の見えない光を持つ目が自身を射抜く。当たり前か、と他人事のように喉の奥で呟いた。胸には、焼けるような感覚が一つ。
「いや、すまない。そいういうつもりでは」
要らぬ弁明はどこから出たのか。気が付けば、目の前にあった。今宵はどうにも口が軽い。羽でも生えてしまったか。声にすらしなかったくだらない冗談に、一人ふふと笑ったこちらに、男は血反吐と共に溜息を吐き出す。
「なんとなく、気付いてはいましたけど」
そこで、ゴポリと、嫌な音が彼の腹からせり上がる。限界であることは見て取れた。しかし、やはり変わらず進む。
「貴方、変な人、ですね」
遂に一匹だけになった狩場で、待ち人を失った脱出ハッチは鳴くように空気を震わせている。余計な話に付き合わせなければ恐らく彼はそこへたどり着いたことだろう。
いい感じの何か(後で書け)いい感じのなにかってマジでなんなんだよ。
残るのは、不規則に揺らぐ心音と、最後に彼が見せた笑顔の影のみだ。
ああ、確かに彼は笑った。そうか、笑えるのかと、新種の生物でも見つけたような気持ちになる。この奇妙な場所に落とされまだ幾程も経ってはいないが、それでも彼が笑顔というものが不得手なヒトであることは感じていた。いつも表情のない顔で何処か遠くを眺め、俯きながらもその瞳に炎を持つ男。生来の性か、歩んだ道の過酷さ故か、薄暗い空気ばかりを纏った男。そう、把握していた。
それが、笑った。ふ、と最後の呼吸を零し、色の消えた唇で弧を作り、こちらに笑いかけてみせた。その声を音にする力すらの残っていない口は、微かな動きで言葉の残骸を置いていった。
「またね」
これは大発見だ。何の役にも立たないが。しかして自身の心臓には、一つ何かが記された。彼はあんな笑顔を作ることが出来るのだ。そして、再会を望んだ。意図は知れぬが興味深い。
そう、青いインクで褪せた紙に綴る。日記のような、記録のような、紙の束は彼のことだけで嵩を増す。これはなんだ。この高鳴りは。名のつかぬものは恐ろしくもあり、愛おしくもある。まだ自身には知らぬことが多くある。その喜びを噛み締める。
興奮は冷めぬがそろそろ眠りにつかなくては。丁寧にインクを拭ったガラスペンを置きかけ、大切なことを記していないと気付き、持ち直した。
これは、そう、「私(ルキノ・ディルシ、あるいは、魔トカゲ)」が己の手で初めてヒトを殺めた日の話だ。
プロローグ 完
二時間でこの文字数は普通にグロ。