非常事態宣言が出た。
マグルの世界では原因は様々であろうそれも、魔法界で為されたとなれば何が起きたかは推して測るべしと言ったところだ。
特にヴォルデモート卿の脅威が去って三年に満たない自分とあっては、尚更。
魔法界中に警戒網が敷かれている。各地に所属する闇払い達には残らず招集が掛かった上、先の戦いで覚えめでたい魔法使いの一部にも伝令が渡った。各魔法学校の教師陣まで動員されるというのだから大仰なことである。
「要するに闇の帝王亡き後、同じ失敗を繰り返さない為の体制のひとつってことなんですが」
そう言って、ハリーは目の前に立ち並ぶ鉄格子へと目をやった。
「頑丈そうですね、これ」
とても即席で準備できるものには見受けられない。
揶揄うような言葉にも、鉄格子の向こうに立つ男は眉ひとつ動かさなかった。
「なんとか言ったらどうですか、スネイプ先生。こんな物騒なものまで用意して」
『物騒な』というところで、ハリーは首からぶら下がる重たい鎖を揺らした。意識のない間に取り付けられた不本意なアクセサリーである。首輪(この呼び方が抑不愉快極まりないが)自体が革で造られているのは僅かな救いと言えたが、何が悲しくてそんなことを有難がらねばならぬのか。
睨み上げた先で、男──セブルス・スネイプが目を眇める。
「痛むか」
「別に。鍛えているので」
半分意地で固めた答えを返すと、スネイプは小さく失笑を漏らした。馬鹿にしたような所作。ハリーの唇が苦く歪んだ。両親どちらの家系に似たのかなど調べる気も起きないが、育ちの悪い体躯を見透かされている。
「──そんなことはどうでもいいんですが、出してもらえませんか。これじゃ招集に間に合わない」
話題を逸らした──というよりも本筋へと戻したハリーに、スネイプは片眉をひょいと上げて意外そうな表情を浮かべた。
場違いな顔である。至極当たり前の要求を口にしたつもりでいたハリーの眉間に皺が寄った。
「なんですか、その顔」
顔、という単語に対し、無意識にだろうかスネイプは長いそでに半分程隠れていた指先で肉の薄い頬をするりと撫でた。撫でて、それから改めてハリーを見つめる。
「出すと、思うか?」
「出さない理由を存じ上げませんのでね」
非常時に何を言っている。睨み上げると、スネイプは「そうだ」妙なくらい素直に頷き、鉄格子越しのハリーへと顔を寄せた。
「それが正しいのだ、『英雄殿』」
英雄殿。暗示のような呼び方に、ハリーの眉間の皺が更に深くなる。しかし同時、ハリーはスネイプの常ならぬ様子にも勿論気が付いていた。
セブルス・スネイプは一度死んだ人間だ。
これは大戦後の魔法界の大半における共通認識であり、ハリー・ポッター及び彼に賛同する魔法使いがスネイプを安穏に生かすが為に張り付けたレッテルでもあった。
『レッテル』と表現するのは聞こえが悪いが疑いようのない事実でもある。
大蛇に喉笛を噛み切られたスネイプの心臓はあの日、ハリーの目の前で確かに一度止まった。止まった、が、ハリーにはどうしても諦めがつかなかった。持ち得る道具を知識を全て使い、肋が折れる勢いで蘇生を試み──実際に何本かに罅が入ったのだが──スネイプを此岸へと引き摺り戻すことに成功したのである。
『一度死んだ人間を断罪する必要はない』
スネイプの処遇について様々言い争う魔法使い達に対し、ハリーはそう言って憚らなかった。一種屁理屈と言っていいそれが受け入れられたのは偏に、ハリーの後見についた者達の権威を借りたからに他ならない。でなければ幾ら彼が『英雄ハリー・ポッター』であったとしても、成人間もない一魔法使いの言葉など、まともに聴取してすら貰えなかっただろう。そうしてハリーはスネイプの身柄を一時期預かり、預かった男を更にホグワーツ校長を務めるマクゴナガルへと委ねた。
まず間違いなく教職を与えるだろうと踏んだ彼女は予想通り魔法薬学教授の椅子を用意し、どう言い包めたかは定かでないが、見事スネイプをそこに着席させて見せた。
それから二年程が経つだろうか。スネイプが何を思い、どのように過ごしてきたのかを、ハリーは知らない。
通り一遍の報告は受け取っている。時間があればホグワーツまで足を運び、スネイプ本人に会うことだってそれなりにあった。だが、それだけだ。月に一度か二度顔を合わせるスネイプは大戦前には見たこともないくらい穏やかな顔付きをしていたし、『問題なく過ごしている』というマクゴナガルの言葉は疑うべくもない。
それでよかった。
ハリーが仔細を知らずとも、流れる日常がそこにあるのであれば、それだけで。
「僕の思い違いでしたかねえ」
後ろ手に縛り上げられた両腕が軋む。冷たい金属の向こうのスネイプの表情はまるで闇の帝王との戦いが繰り広げられていたあの頃のように硬く凝っていた。ホグワーツの地下室で向かい合い、取り留めない世間話を交わした面影は微塵も見当たらない。
「裏切りと捉えられても申し開きは出来ませんよ」
「元より言い訳をするつもりもないが、」
言葉を切って立ち上がり、スネイプは傍の椅子に掛けてあったローブを羽織った。
大人が五、六人も入れば窮屈に感じられるだろう狭い地下牢だ。ハリーが放り込まれた格子の中には小さいながらベッドが置いてあったが、出入り口側に当たるスネイプが立つ場所には頼りない木の椅子がひとつ置いてあるきりだった。
「一体、いつから」
こんな場所を用意していたのか。
その問いに、スネイプは答えなかった。答えないまま、羽織っただけのローブへと丁寧に袖を通し着衣を整えている。
非常事態の宣告を、ハリーはスネイプの居室で受け取った。丁度彼のもとを訪れ、一通りの近況伺いを済ませ、帰り支度を始めた矢先のことである。報せを運んできた梟に持たせる返信を書く間、届いた書簡にスネイプが目を走らせていたことには気がついていた。しかし、ハリーにはこの件に於いてスネイプの手を借りるつもりはなかった。
公に許しを得たとは言え依然スネイプの立場は危うい。魔法省の中にすら根強く残る批判的な一派を黙らせたいのであれば、彼に闇払いの真似事をさせるというのもひとつの手立てではある。理解していた。理解して尚、安易な策を薙ぎ払ってでも、ハリーはスネイプを戦場へと駆り出すつもりは更々なかった。
「それを、あなた自身が、」
噛み締めた奥歯の間から漏れ出る憤りに、すっかりと身支度を終えたらしいスネイプは口の端を上げて笑った。
「何が、おかしい」
「気がつかないと思ったことだろうな」
「何を、」
「気がついていたよ」
何を?本筋から外れたところを緩く擽るような会話ではハリーには理解ができない。純粋と言えば聞こえはいいが、悪く言えば単純で変化球を嫌うタイプの人間である。
そんなことはお見通しなのだろう。ハリーの目の前まで歩を進めたスネイプが、底の知れない両眼を揺らめかせて笑う。
「闇の魔法使いの残党が、いつか大掛かりな行動に出ることは君達の予想通りだったろうな」
「──ええ」
「そしてそれを嗅ぎつけ次第手が打てるよう、君はこの三年の間網を広げ、信頼できる魔法使いへの繋ぎを作ってきた」
「ええ、そうです」
全て、スネイプには気取られていない筈の話だった。否、頭のいいこの男のことだ。ハリー達の考えることなど深読みせずとも予測がついたろうし、それに口を出してこない以上、関わる気もないのだろうと高を括っていたのだ。何よりも男のすぐ側で、老獪な魔女が絶えず目を光らせているのならば、万に一つの危機も起こらないだろうと、信じていた。
「あなたに異変が起きれば、僕に梟が飛ぶ手筈になっていました。自発的に何かをするとは思いませんが、誰かを──引き合いに出されて、脅される可能性くらいは考えられましたから」
唇を噛んで吐露すると、石床に膝をついたスネイプが、ふむ、と、緊張感のない抜けた声を出した。
「齟齬があるな」
「──は?」
「つまり君は、私が『あちら側』だと考えているわけだ」
あちら側、と言われて真意がわからない程の間抜けではない。ハリーはぱちぱちと瞬きを繰り返し、鉄格子の向こう側でしゃがみ込む男の顔をまじまじと眺めた。
「………違うんですか?」
「違うな。」
今更魔法界に反目して何になる、と、スネイプは鼻を鳴らした。縛り上げられたハリーは思考の行き場を失くし、何を言っていいのかわからないまま、半開きの唇を幾度か震わせる。
「──じゃ、じゃあ、これは?」
これ、と揺らした鎖が耳障りな音を立てる。革の首輪に繋がる重厚な金属の塊だ。冗談だとしても性質が悪いと訴えるハリーに、スネイプは口の端を吊り上げ、そして鉄格子の向こうから手を伸ばして鎖をぐっと引き寄せた。体格の良いスネイプに引かれ、ハリーの体が格子へ向かって引き摺られる。
「冗談──、冗談か」
「………先生?」
「お前の考えを当ててやろうか、ハリー・ポッター。傲慢な、『生き残った男の子』、『英雄』である、君の」
スネイプの顔が近い。冷え切った地下室にあって、目の前に座り込むスネイプの怒気が、僅かな温度の変化となってハリーの膚に感じられる。
「貴様は嫌がっている。嫌っている。我輩ではない。私を嫌っているのであれば、ああまで頻繁にホグワーツを訪れる必要はなかったろう。何しろここには、あのミネルバ・マクゴナガルがいるのだからな」
安定しない言葉遣い。余裕の無さが滲み出るようなそれに、ハリーの目の前に出所の知れない涙の膜が張る。
「君が嫌がっていたのはそう、私が表舞台に引き出されることだった。特に今回のように命が掛かる場合に、私のような前科不定の者の命は、易く扱われることも多いだろうな」
「──ちが、」
「違うことはあるまい。しかし私が気に食わないのはそこではない」
ハリーに繋がる鎖を一層強く引き寄せ、スネイプは興奮で上擦っていた声を僅かに低くした。
「──いつまで君は、『英雄殿』でいるつもりだね」
「は、」
「いつまで魔法界は、君を『切り札』として扱うつもりなのか」
スネイプの指から鎖が零れ落ち、石床に叩きつけられて高い音を立てる。
ハリー・ポッターは、闇の帝王に対する『最後の切り札』だった。
切り札という言葉は一見聞こえがいいものだが、言ってしまえば困ったときに頼られる存在に他ならない。魔法界大戦の最中、多くの魔法使いが身を挺し知恵を絞ってハリーを守り、そして導いた。直接手を差し伸べる機会などないに等しかったスネイプもまた、ハリーを守る為に全てを投げ出す、それこそ命すらも惜しげなく差し出す覚悟を決めていたものだった。
しかし、彼はつまり切り札だった。
魔法界を守る為、いつか使う大事な局面の為、懐で大切に温められていたに過ぎない。結果的に彼が命を落とすことはなかったが、もし本当に彼の命と魔法界とが天秤にかけられた時、間髪入れず彼を選び取る者がどれだけいるというのだろうか。
「そして、君はまだ、切り札でいる」
君への梟便を読んだ、とスネイプが呟いた。恐らく気絶させられる前、ハリーが返事を認める間に眺めていたあれの話だろう。斜め読みしたハリーには中身に関する詳細な記憶は薄いが、どんなことが書かれていたか位は流石に覚えていた。
「本拠地には君と、数名の闇払い。あの報せにはそれしか書かれていなかったが、実際には君一人で向かうのだろう」
「──ええ」
梟便は信頼できるが、100%かと言われれば断言は出来ない。盗み見られても問題が起きないよう、向かう人員やルートについては様々フェイクが凝らしてある。
「君が切り札でいることが、まるでこの世の決まりかのようだな」
「そんなことは」
ないと言い切れるだろうか。一瞬言葉を詰まらせたハリーに、スネイプは冷ややかな視線を向ける。
「君を愛する者の気持ちを考えたことがあるかね」
愛する者。
言われて思い浮かぶ多くの顔に、ハリーは何も言わなかった。考えたことがない訳ではない。ないが、それこそ今更の話で、彼らと自分を天秤にかけるならば、ハリーは迷わず自分を投げ出す覚悟があるだけなのだ。
「────では、」
スネイプの声が一際小さくなり、ハリーは鉄格子へと殊更顔を寄せた。冷たい鉄の棒に顔が触れかけたハリーの頬を、スネイプの指先がそっと撫でる。
「私の、気持ちは」
その瞬間のスネイプの表情を、ハリーはきっと忘れることはできないだろう。
一人残された地下牢で、ハリーは小さな溜息を吐いた。
後ろ手に縛られていた両腕は少し前に縄を引き千切った。杖を取り上げられたようで苦労したが、ベッドのような突起の多い物を牢内に入れておいたスネイプの計算違いだろう。
「勝手な人ですねえ、先生」
首に回った革ももう少しで擦り切ることが出来そうだ。杖なしで使う魔法は苦手だったが、勉強熱心な友人の助言は常日頃から耳を傾けておくに限る。
『私の、気持ちは』
言って、スネイプは言葉に詰まるハリーの唇に小さくキスをした。ぽかんと惚けている間にその黒い男は薄く笑い、そしてハリーに背を向け地下牢を出て行った。
「知りませんよ、先生。」
だって言ってくれなかったじゃないですか。
ハリーがスネイプの身柄を申し受けてから二年間、付かず離れずの距離で二人はずっと一緒に居た。スネイプが何を思っていたのかは知らないままだったが、ハリーがそれを続けてきたのは単に僅かな下心が存在していたからだった。
母を愛した男に対し高望みをするつもりはないが、せめて憎からず思われる存在になりたかった。だからこそあの薄ら暗い戦いの場所に彼を二度と帰したくなくて、彼を真綿の揺り籠の中で大切に大切に守って行きたかった。
「僕ら結局似たもの同士ってことですかね」
彼が用意していたのは真綿などではなく、鉄と石でできた冷たい牢獄だったけれども。
革の首輪が引き千切れ、鎖が鈍い音を立てて落ちる。さああとは鉄格子を壊すだけだと息巻いて、ハリーは腰掛けていたベッドから立ち上がり、開錠魔法の呪文を頭の引き出しから引っ張り出した。齢十一の親友に出来た魔法だ。杖がなくとも何度か繰り返せばやってやれないことはない。
「じゃあもう、一緒にいるしかありませんね、僕ら」
落とした独り言を、届けなければならない。ハリーが向かう筈だった場所へと一人で飛んで行った、あの男に。
「お互い自分が切り札になる以外の解決を知らないんですから」
最後の最後、死が二人を別つその後まで、手に手を取って歩いていかなければならない。
「僕はもう腹をくくりましたよ」
がちゃん。
小気味のいい音を立てて開いた鉄格子の扉を前に、ハリーは吹っ切れた笑顔を浮かべ、地上へ向かう扉を蹴り開け駆けて行った。
非常事態宣言が魔法界に出されて丁度、三時間後のことであった。