戸棚の中を検めると小麦粉が切れていた。
それをそのまま言葉に出して伝えたところ、歯ブラシを咥えたまま、背後に立った恋人が間の抜けた声を上げた。
「ふぁあ……、」
潔癖の気のあるスネイプの背筋には微かな怖気が走ったが、寛容な大人の顔をして無視を決め込んだ。心が広くなったものだ。数年前までなら自分自身にすら予測もつかない反応に、スネイプは胸中だけで独り言ちた。
「じゃあ、パンケーキは無しですね」
己の変化だか進化だかに頷いている間に、恋人──ハリー・ポッターは歯磨きを済ませてきたらしかった。遠慮会釈のない様子でだらしなく着ていたパジャマを豪快に脱ぎ去り、傍のソファへと放ってからクロゼットへと足を向ける。放り出された抜け殻を無意識に回収してたたみながら、何故いつもリビングで脱衣するのだろうかと関係ないことが頭を過った。
「ああ、お腹がすいた」
「そうだろうな」
なにしろ昨夜は帰宅するなりシャワールームへと直行して、髪すら乾かさずにミネラルウォーターのボトルひとつをひっつかんだまま寝室のベッドに懐いてしまったのだから。今日は残業です、と予め知らされ、甲斐甲斐しくも夕食を準備して待っていたスネイプは、半分裸のまま意識を飛ばした恋人にパジャマを着せてやり、行き場のなくなった料理を冷蔵庫に仕舞い込んでからハリーの隣へと滑り込んで眠りに付いた。
先に寝落ちたハリーが後から起床してきたことはこの際ご愛嬌ということで良いだろう。一年前に鳴物入りで闇祓い局へと就職した青年の活躍は目覚ましい。畑違いのスネイプの耳にも届く程なのだから、彼がどれだけの努力をしているか、言葉にされずとも推して測ることは容易だった。
パンケーキが食べたい、とは、昼前に起き出して来たハリーの第一声だった。
朝食などとうに食べ終え、昼のメニューを考えていたスネイプはその言葉に従順に戸棚を確認しに行ったのだが、まあ結果は奮わなかった。どうしたものか、とキッチンを見渡している所に、着替えを終えたハリーが爽やかな様子で顔を出す。
「小麦粉がなければ買ってくればいいじゃないですか」
「──なるほど」
何処ぞの王妃のような言い振りに引っかかる物を感じたが、しかしそれも『デートですね、』とはにかむ顔を向けられれば跡形も残さず何処かへと吹き飛んで行った。
「マグルっぽい感じでお願いしますよ」
依頼なのだか強制なのだか不明瞭な言葉に背中を押され、今日も今日とて真っ黒なローブに身を包んでいたスネイプはクロゼットから適当にシャツとジャケットを取り出して着替えた。自分で買い求めるのであればまず選ばないだろう細かな模様の入ったシャツも、淡い色合いのジャケットもこの一年間の同居生活の中でいつの間にかワードローブに加えられた面々である。
仕入れ元であろうハリーは今尚素知らぬ顔を貫き通しているが、着替えをするスネイプを室外から覗き込む様子からしてどうやら満更でもないらしかった。
「髪はどうしましょうか?」
言いながら、両手にはブラシと整髪料を構えている。
「適当に括ればよかろう」
「まあ、それでもいいですけど」
それではこちらへどうぞー、何を目指したものか判じ難い軽薄そうな演技に促され、リビングの椅子へと腰を下ろす。窓硝子越しに見えるハリーの顔色は明るく、昨夜の生ける屍の様相が失せたことに少なからぬ安堵を覚えた。
荒事にばかり首を突っ込むせいだろうか、スネイプの髪を梳くハリーの指先は、その華奢な輪郭にそぐわず古傷に塗れている。調薬では一向発揮されない器用さで肩まで伸びた髪をハーフアップに纏める姿が妙に様になっていて、彼が本当ならばこの明るい世界で如何にしても達者に生きていける人間だということが如実に伝わり、スネイプの胸の何処か奥底がしんと冷えた。
「ああ、先生、似合います」
「──そうかね」
「学校でもされたらよろしいのに。毎朝僕がやってあげますよ」
「それは………」
それは、無理だろう。
飛び出しかけた言葉を飲み込んで、スネイプは目の前に屈むハリーの顔をまじまじと眺めた。
何も疑わない者の、真っ直ぐな目だ。明るい世界で生きている。希望と未来に溢れている。後ろ暗い世界ばかりで生きて来たスネイプとは真っ向異なる、眩しい存在の最たる者だった。
「──それは……遠慮しておこう」
掠れた声を絞り出すと、スネイプの言葉を待っていたハリーは目を丸くして、それから少しだけ、声を上げて笑った。
「そうですね、ホグワーツの皆が見たら、ちょっとびっくりしちゃうかも」
「“ちょっと”で済むのかね」
「ご明察です、先生」
口の端だけを上げた作り笑顔のハリーに促され、スネイプは椅子から腰を上げた。
財布、家の鍵、多少窮屈ではあるが懐にはそれぞれ魔法の杖。それだけ持ったことを確認して、二人はフラットのドアから外界へと足を踏み出して行った。
昼間の空はよく晴れていた。
買い出しの前に寄り道しましょう、と提案したハリーがカフェに吸い込まれ、腕を掴まれたままのスネイプは何も言わず後に続いた。
注文の手際が良いのは若者特有の馴染み易さの賜物だろうか。気がつけばスネイプは両手にトレイを持たされていて、二枚載った皿には彩り鮮やかな野菜やら魚介やらが挟まれたサンドイッチが三つサーブされている。隣立つハリーの両手には紅茶とコーヒーが一つずつ握られている。コーヒーが飲みたい、と口に出す前、窓際に二つ並んだ席に腰を下ろしたところでスネイプの前にはブラックのままのコーヒーがきちんと与えられた。
何も言わずに意図が伝わることに、妙な満足感と行き場のないむず痒さを覚える。
「パンケーキではなくてよかったのか」
何とはなしに見上げたカフェメニューの中に見つけた文字列にそう尋ねると、三つ購入したサンドイッチの二つをあっという間に胃に納めたハリーが、並び腰掛けるスネイプへと含みのある笑顔を向けた。
「だってせんせ、これから作ってくださいますもの」
まあ、そのつもりではあるのだが。
残った一つのサンドイッチを薦められ、スネイプはそれを雑な手つきで半分に千切り──雑が過ぎて大きめになった方をハリー手元の皿へと置いた。
食べなさい、と顎をしゃくる。大きな目をきょとりと瞬かせたハリーが嬉しそうに笑って、スネイプはそれだけで胃のなかにずしりと重たい物を詰め込まれたような充足感を覚えた。
「はあ、お腹いっぱい」
「パンケーキは入らないのではないのかね」
軽い揶揄に、スネイプの腕をがっちりとホールドしたハリーが喉の奥でくつくつと笑った。
「やだな、先生。僕はまだまだ若者ですよ」
「──知っている」
「でも腹拵えができたんで、買い物の前にもう少し寄り道がしたいですね」
鼻歌でも歌い出しそうなハリーに、スネイプは『初めからそのつもりだったのだろう』喉元まで迫り上がった言葉を見ない振りで押し込めた。何をしましょうか、という言葉に、当たり障りのない相槌だけを返す。そうして眩いばかりの好奇心を隠しもしない、きょろきょろと辺りを見回すハリーが示した方向へと従順に足を向けた。
同居の切っ掛けはハリーがホグワーツを卒業したことだった。
否、それでは少し不正確だろうか。
細かな話をすればそう、ハリーがホグワーツを卒業したその日、スネイプの居城である地下室へと現れ、涙を浮かべた真っ赤な顔で、
『先生、僕と付き合ってください!』
そう、叫んだことに端を発しているというのが正しいのかもしれない。
その頃スネイプはホグワーツに復職をして凡そ半年が経つという頃で、ハリーはと言えば、数日後には闇祓いとして就職先に顔を出さねばならぬという非常に忙しい時期に当たった。
スネイプが復職してからの二人の関係は控え目に表現しようと大袈裟に表そうとどうしたって『微妙』としか言いようがなく、スネイプは以前のようにハリーを執拗に追いかけたりはしなかったし、ハリーとしてもスネイプに対して戦前よくしていたような激しい嫌悪を滾らせるような表情を向けたりはしなかった。良い風に表現するのであれば『順調』と言って良かったかもしれない。干渉が過ぎず、かといって邪険にしたり無視したりすることだってない。教師と生徒としては当たり前で、だからこそ理想的な距離感を保ったまま、彼は卒業していくのだと、スネイプは半ば本気でそう思い込んでいた。
『──唐突だな、』
動揺を押し隠したスネイプの言葉に、ハリーは応えなかった。
全身を湯気でも噴きそうな程真っ赤に染め上げたまま、かつかつと石床の上を歩き、真っ直ぐにスネイプへと近寄ってきたのである。
『────ポ、』
見上げて来た瞳の色を正確に表現する言葉を、スネイプは今尚手に入れることができないでいる。
揺らめく大海に似た、或いは晴れ渡る空の色に似た、しかしその表面は確かに緑に輝いていて、一口に宝石と言い切るのがどこか勿体ないぐらい複雑な表情に塗れていた。
『お願いです、先生』
ほんの少し首筋を伸ばせばキスが出来そうな程の近くで、ハリーはみっともなく懇願してみせた。それはきっと、彼が無理矢理に背筋を伸ばして闇の陣営と相対していた頃であれば一生掛かっても見ることが叶わなかったであろう光景だった。
震える唇、思い詰めたように細められる瞼。一種乱雑とも捉えられる手つきでスネイプの胸倉を引っ掴んだ両手は驚くほどに華奢で、まるで同じ次元には存在していない生き物が如く感じられた。
『先生、』
誓って言うが、この時、スネイプはハリーに対して生徒、或いは庇護対象に寄せる以上の感情を抱いてなどいなかった。それはこの時のハリーが如何な手段を用いてスネイプを誘惑して見せたとて変わることはなく、詰まるところスネイプがこの時吐き出した言葉は所謂『魔が差した』以外に表現の仕様のないものだったのである。
『──いいだろう、』
何がいいものか、と、棚に並べられたプラスチック製のケースを検分していたスネイプは小さく頭を抱えた。
一年と少し前の記憶、ハリーにとっては甘く淡い記憶であるらしいそれがふとした瞬間に蘇る度、スネイプは身も蓋もなく喚き散らしたくなって仕方がなくなる。この一年で幾らか──と言うには大きすぎる──心境の変化があって尚、始まりの経緯はスネイプにとって凡ゆる意味で情けなく、みっともない醜態として頭の片隅留まり続けていたのだった。
「何してるんですかあ、先生、」
ひとつ隣の列を見て回っていたらしいハリーが、棚の合間から顔を出して不思議そうな顔をしている。マグル式の映像媒体のレンタル、と言うのは、スネイプにとってもハリーにとってもいまひとつ馴染みのない空間だが、矢張りと言うべきか年若いハリーの方が順応が速い。
一月程前に何処からか譲り受けて来た機械類を説明書片手に設置していたのは記憶に新しいが、既に映画やらドラマやら、好みの俳優がどうだと言う話まで日常会話に上らせる程である。
「いいの見つかりましたか?」
「君が選び給え」
「僕はもう幾らか選び終えましたよ」
ふふ、意味深に笑う顔に手元を覗き込むと、タイトルからして血腥い映画作品がシリーズで籠に納められている。これも若さか、と明後日な納得をしかけたが、恐らく単純な嗜好の問題だろう。
「──恋人と休日に見るものとは思えないがね、」
「そう言うのは先生に期待したんですよ」
緩く笑う顔は可愛らしいが、期待されたところでスネイプはそちら方面の造詣はそれ程深くない。深くないと言うか、言って仕舞えば浅いどころの騒ぎでは済まない。殆どゼロに等しい。
面倒だなあ、と言う考えが顔に出たのだろう。ハリーはスネイプと視線を合わせてから再び喉の奥で小さく笑い、
「冗談ですよ、ちゃんとそれっぽいのも用意してますから」
そう言って後ろ手に隠していたプラスチックケースを幾つか籠の中に放り込んで見せた。
「そろそろ次に行きましょう、」
「次、」
鸚鵡返しに呟くと、ガラス玉のような瞳をきらきらと輝かせながら、
「まだお腹が空かないんですもの、」
と嘯いたハリーがスネイプの手を引いた。
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わぁい!鵙さんだ!
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侘助
頑張ってー
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タイトル未定
初公開日: 2020年04月04日
最終更新日: 2020年04月21日
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コメント
わかりやすく生存ifの日常系スネハリを書いてみようかなと思います。
10分ずつ位しか書けないので変なところで切れると思いますが悪しからずご了承下さい。
地獄の果てまで、あなたと
ハリポタ二次/腐/スネハリ大戦後生存if 薬学教授と闇払いになった英雄の甘さ少なめの話
七夕リチャアヤ
眠気が勝つか、今日が終わるのが先か
瀬をはやみ