本当にヒカルさんが犯人なんだろうか。何かの、気の迷いで口にしただけなんじゃないだろうか?
「…………」
無責任な楽観が浮かんでは消えていく。
縁条市の夕闇は変わりない。わたしの影が伸び、公園のレンガの地面を這い続けている。
「……いないな」
一日中、街を探し回ったけれどヒカルさんを見つけることはできなかった。かわりに、街を歩くうち、何かおかしな気配に気づく。
「……誰?」
聞こえないよう小さく呟く。誰かに、ずっとつけられている。それも複数。いつまでもいつまでも、影のようにぴったりと張り付いている。
ヒカルさん――では、ないと思う。逃げる理由はあっても、わたしを尾行する理由なんてないはずだ。でも、だったら、誰だろう。
「…………」
噴水広場で立ち止まる。それでも、追跡者はアクションを起こさない。噴水の縁に腰をおろし、何を考えているのだろう、と視線を向けようとした瞬間――
「方法は決まったかい」
「!」
あさっての方向から声を掛けられた。思わず振り向きそうになったのを、押し止める。その歌うような声には覚えがある。噴水の、反対側にいる。
「……何の方法、かな」
「決まっているだろう? 僕を殺す方法だよ、狩人さん」
不吉を纏って、彼女は噴水の周囲を歩いた。わたしの目の前に立ち、変わらず優雅に微笑んでいる。
右京、ヒカルさん。
「――やあ、アユミちゃん。また会えたね」
「…………」
昨夜会った時と何も違わない。なのに、いまは、その微笑みがどこか薄っぺらな道化のように思える。
くるりと背中を向け、これから自殺するような投げやりさで言った。
「さあ、一思いにやってくれ。いつでも構わない。方法は任せるよ」
無防備に背中を見せ、両腕を広げて待っている。その姿に震えそうになる。
「……どうして」
「どうして? 悪いことをしたからだよ、人殺しは悪いことだ。僕は呪いを使い、何人もの家族をひどい目に遭わせてきた。異常現象狩りであるキミに罰せられるのは、自然なことだと思うけどね」
背中越しに、冗談でも言うように微笑み掛けてくる。
「こうやって、何人も怪物を退治してきたんだろう? そう、僕も怪物だ。昨日の鎧武者の悪霊と同じ、倒されるべき殺人鬼なんだよ」
「――!」
脳裏を、雨の日の血溜まりが、地下駐車場で血まみれになった羽村くんの姿がよぎる。
右手の震えが抑えきれない。胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。
「……アユミちゃん?」
違う。
あんなのは違う。
きっと何かが間違っている。
「ヒカル――さん、」
「ああ、なんだい?」
何か方法があるはずだ。
血溜まりに沈むダレカの姿が目に焼き付いている。
何か、何か。
「わたしは――――ヒカルさんを、助けたい」
「――――」
ようやく、声を絞り出した。
ヒカルさんは信じられないものを見るように目を見開いていた。
「キミは……」
その顔が見れない。わたしは、必死で考えを巡らせていた。
「……そうか。そういうことか」
何を理解したというのか。その中性的な顔を苦そうにしかめて、まっすぐに言ってくる。
「僕は人殺しだ。それを、理解している?」
「……うん」
「呪いを使って人を殺した。何人も、何人も」
「…………分かってる」
いいや、きっと分かっていない。信じられないだけなんだ。繊細そうなヒカルさんが、一方的に誰かを害したという事実がまだ実感できないでいる。
「……呪いは、日に日に僕の心を蝕んでいる。だんだんおかしくなっていくんだ。自分が自分じゃなくなっていく」
その全身から、黒色が滲み出す。夕日の赤を濁らせるように、怨嗟が目に視えるカタチとなって具現化していく。
「ひとたび暴走すればもう、自分ではどうすることもできなくなる。正気じゃない。あんな、あんな惨たらしいことを平気で僕は……っ!」
その左腕から、色濃い呪いが炎のように吹き上がる。別人のように凄絶な顔をして、ヒカルさんはわたしを糾弾した。
「それでも――それでも、キミは、僕を放っておくっていうのか……ッ!?」
「っ!?」
ヒカルさんが叫んだ、その瞬間。なぜだか視界が陰った気がした。
「……?」
気のせいだったのか、眩みは一瞬のことだったけれど。
「ねぇ、殺人者を放置する。それは狩人の方針なのかな。それとも、キミ個人の方針なのかな」
「それは……」
狩人は。
決して、殺人者を許さない。
「……なるほど。個人的感情……いや、恐怖、なのかな。そうか、キミは怪物を殺すのが怖いんだ。狩人のくせにね」
優しげだったヒカルさんの目は、どこまでも別人のように険しくなっていく。
「まぁ、いいや。それならそれで僕は逃げさせてもらうだけだけど。それで、本当にいいんだね?」
「待――っ、」
背を向けるヒカルさんを追おうと、一歩踏み出す。そこで足が震え、縛られたように全身が固まってしまう。拳を握る。弱い自分自身が本当に恨めしかった。こんなのじゃなかったはずなのに。
キン、と金属の音が鳴ってはっと顔を上げる。
「……キミは未熟者なんだね。それならそれで……」
ヒカルさんが、ナイフを抜いていた。わたしに切っ先を向けたまま、一歩、一歩と遠ざかっていく。
「――うん、これは必要な儀式なのかも知れないね」
「何を……!」
「アユミちゃん、キミは僕を殺すべきだ。いや、きっと殺すことになる。そのために僕はここにいる――そう考えれば、運命的な気がして来たよ」
赤い赤い夕日を背に。
十字架を背負うように両腕を広げて、ヒカルさんは神聖に、けれど不吉に微笑んだのだった。
「――未熟な狩人さん。必ず後悔させてあげよう」
「おい、そこまでにしておけよ」
「!」
――その、背後に。
もっと邪悪な真っ黒い影が忍び寄っていた。
「――そこだ」
「く……っ!」
振るわれる銀閃。ヒカルさんが、身を翻して逃げる。刃を振るった少年は、くるりと逆手に握り直して猟犬のように容赦なく追い縋る。
「!!」
甲高い、金属の悲鳴が夕闇を引き裂いていた。
チェーンの片ピアスに、リスのような茶の髪。そして、殺意を湛えた真っ黒い瞳。
「羽村くん――!?」
ギリギリと死の刃を押し付け合いながら、羽村くんは場違いに静かな気怠そうな声で、ヒカルさんを傍観している。
「男か……女か? どっちでもいいけどな別に。死ねばただの死体なんだから……」
ぐ、と羽村くんが刃を強く押し付ける。
「死ねよ。死ね」
火花散る。削り合いながら引き裂くように駆け抜けた刃を翻し、再度ヒカルさんを追おうとした切っ先。けれど、下から弾かれる。よろよろと後退し、冷や汗を流しながらヒカルさんが笑んだ。
「どちら様、かな」
「さぁ。通りすがりの秩序の味方じゃねぇかな」
投げやりに吐き捨てて、ようやく羽村くんはヒカルさんに会話らしい会話を持ちかけた。
「右京ヒカルだな。巷で話題の、一家惨殺事件の犯人だ」
静かな声には、怒気が満ちている。
「ああ、その通りだ。だったらどうする? キミも、アユミちゃんのように僕を救うとか言い出すのかい?」
「あぁ? はは……」
羽村くんは、わたしを見ない。
「そうだな。少し前の俺なら、そんな正義の味方ごっこもアリだったろうさ」
皮肉げに肩を竦めて笑い捨てる。その姿が、先生と重なって見えた。
「だ、が。ああ、これは私怨だ。お前、事件どうこう以前に、うちの相方に刃を向けただろう?」
短刀を前に構え、鋼のように告げる。
「なら、殺すだけだ」
慈悲なんてまるでない。羽村くんは、もう狩人見習いではないのだ。
「ああ――いいね。キミは話が分かってる」
ヒカルさんの目も、爬虫類のように酷薄になる。低くナイフを構え、唇の端を吊り上げた。
「でも、キミに殺されるつもりはないよ。僕の命を奪うのは、アユミちゃんだと決めたからね」
「だからこそ、てめぇはここまでだ――!」
がん、とアスファルトを踏み砕いて羽村くんが疾走する。狩人の走力。一般人の体力しか持たないヒカルさんに止められるものではない。
それを、
「羽村くん!」
「!」
激突の寸前。悪魔のように笑んだヒカルさんが、羽村くんの顔目掛けて思い切りナイフを投げ捨てた。
「ちぃ――!」
寸前、短刀で叩き落とす。それを囮に、ヒカルさんは間合いの外まで逃れていた。
「ねぇ」
カカシのように直立したまま、夕日の中で真っ黒い影になって笑う。
「覚悟は認めよう。でも、本当にキミに僕を殺せるのかな……?」
その全身から、ドス黒い正気が竜巻のごとく吹き出していた。
「!」
大気が掻き混ぜられる。囁くような幻聴が聞こえている。絵の具で塗り潰されたような幻覚がヒカルさんを中心に周囲を浮遊し、現実と虚構の境を曖昧に溶かしていく。
「て、めぇ――!」
ついに、ずっと前髪に隠れていたヒカルさんの右目が顕になる。閉ざされた瞼。異変を察知して飛び込もうとしていた羽村くんを視線の先に捉え、その瞼が開かれる。
「が――ッ!?」
――瞬間、世界の色彩が反転した。
「つ……!?」
目が、強く痛んだ。たまらず押さえる。痛みは引かない。どくんどくんと音を立てて、眼球が炙られたように熱を持つ。
視界が、暗い。
夕日の赤が、赤黒い薄闇になっていた。
ぴたり、と羽村くんが立ち止まっているのがかすかに見えた。
「はは……どうかな。僕の“まっくらやみの呪い”は。人間なんて、視界を奪われれば何もできないだろう?」
羽村くんは、一歩も動かない。微動だにせず短刀を構えて沈黙している。それを確認して、ヒカルさんが逃げていく。逃がすわけには、いかない。
「待って!」
「!」
ヒカルさんに向けて叫ぶ。すると、今度は彼女が驚愕を浮かべる番だった。
「そんな……どうして、見えて……?」
「――――そこか。」
――刹那。
羽村くんが、奇跡のようにヒカルさんに肉薄する。流れるように振るわれる一閃。
「く、あぁぁああッ!?」
目を閉じた羽村くんの一撃を、ヒカルさんは死物狂いで受け止めるのだった。その腕で血が跳ねる。
「……驚いたな。音だけを頼りに狙ったっていうのか」
「…………」
無言で、短刀を構える羽村くん。やはり、他の被害者たちと同じように羽村くんは視力を奪われている。わたしの視界も、陰ってほとんど見えなくなってきた。
「また会おうね。アユミちゃん」
軽薄に笑って、ヒカルさんが去っていく。
目の見えないわたしには何もできない。
何も。
「え……」
闇に飲まれる視界の端。
誰か、白い杖をついた女性の姿が見えた気がした。