雪を使い、幻覚を見せ惑わせ人を殺すことに長けた妖がいると義父──徳川家光公から聞き及んでいたところまではよかったのだ。
問題はそのあとである。
家光公が自らに話を持ち掛けてくる時点で面倒事がすでに起こったあと、という事実を前提にすることをすっかり失念していたのがいけなかったのだろう。普段の己ならばその点を十分に理解して断っていたはずである。
けれどそこは義父の方が一枚、上手だった。以前から機会があれば是非とも飲んでみたいと、夢にまで見ていた上方の清酒で有名な造り酒屋の滅多に出回らないとされる幻の酒をちらつかせるなど卑怯この上ない。
それも差しで呑むときではなく兄──辰影がいる時にやるのだ。
加えて「……要らぬのか? 近頃のそなたときたら、一人で飲むことを覚えおって。余は寂しいのだぞ」と扇子で顔を覆い、さめざめとした声色で嘆きはじめるのだからまったく手に負えない。
そうすることで、否と言い出せない空気を醸し出し次の日の朝になると二日酔いで気分が優れぬから今日の執務はそなたに一任したとすべてを押し付けようとしてくるため、本当にたまったものではなかった。
今回の任務もそうだ。
三日月宗近を錆びさせて人すら斬れぬ鈍器──なまくらにしたら家臣どもがこぞって騒ぎ立てるだろう。そうなればそなたにも累が及びかねぬゆえ、妖を退治する任務へ行けば口さがない連中も黙るであろう、と唇を弧の形に吊り上げ、言ってのけた家光にまさか、否と告げるわけにもいくまい。
否と告げれば文机に縛られてばかりなのも、ちょうど飽き飽きしておったのだ、と喜色満面で数珠丸を携え、妖退治にでも出奔しかねなかった。これ以上、宗矩の心労を増やすのはさすがに気の毒である。
*
こういった経緯で渋々ながら引き受けたという裏事情がある。自ら望んで受けた任務ではないが、家光の顔に泥を塗るわけにもいかなかったので話があった次の日には件の妖が出没するという山奥のさびれた一軒家へ腰を落ち着けていた。
「こんな強行軍、二度としたくないね」
一晩中、ずっと馬を走らせてきた疲労と緊張により一睡もしていない状況に、引き戸を開けてすぐ視界に入る、おそらくかっては居間dったのだろう部屋に脚絆を脱ぐ時間すら惜しいといいたげな様子で縁は転がり込んだ。
勢いそのままに、畳へ全身を横たえる。
外観こそ古いが、寝転んだ畳から新鮮ない草の香りがしたことに縁は首をひねった。
「誰か住んでるのか?」
先ほどまでの、だらりと気を盛大に抜いた姿勢から瞬く間に張り詰めた雰囲気を身に纏った縁が傍らに置いていた三日月宗近を鞘ごと引き寄せたのと同時に、上がり框の方からからん、という何かが鳴るような音がした。
もしや、賊かと縁は息を詰め三日月宗近を鞘走らせんと抦巻へ力を込め臨戦態勢を取ろうとしていたとき、不意に閉じられていた襖が開く。
刀を構える隙も与えず、気配すら伺わせなかったことに縁の瞳が剣呑な色を宿した。 
「……誰なのだ?  十秒以内に応えなければ斬る」
その問いかけに、返ってくる答えはない。無言ということはつまり、向こうも自らのことを亡きものにしようとしている可能性が高いだろう。
すぐさま片膝を立て、抜刀するとその気概を霧散させるかのような美しい声色が衣擦れと共に縁の耳朶を揺さぶる。
「……わたくしはこの家に住む、鷺原と申します」
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剣が君小説 
初公開日: 2020年05月04日
最終更新日: 2020年05月04日
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