シートベルトを締めてください、という機械的なアナウンスに促されて、頭の横へと右手を伸ばす。普段彼が使っているクラシックな内装の英国車は、今日は従弟が使用しているという。
「狭くないですか?」
座席の位置、好きにずらしていただいて構いませんから。
ゆったりとリラックスした姿勢でハンドルを握る中田君は、僕がシートベルトを締めたことを横目で確認すると、滑らかな滑り出しで車を発進させた。
今日、ドライブに使用する日本車は中田君が個人的に所有しているものだそうで。彼が銀座を拠点とするようになった時、日本にマンションを借りるついでに購入した中古車らしい。中古ですけど、結構いいやつにしたんですよ。車の中をぐるりと見渡した僕に気が付いたのか、特に気にした様子もなく、中田君は車を買うことになった経緯をぽつりとこぼした。
リチャードは日本に入る時、会社名義のジャガーに乗っているんですけど、二人とも車を使いたいときにジャガー一つだと不便だという話になって。職業柄、あんまりタクシーやら電車やらを使うのは良くないですし、関東圏内であればある程度は車で移動する方が楽で安全なんです。なのでもう一台、車を買った方がいいってところまでは一致したんですけど。
車は銀座の街を滑り出て、新橋からハイウェイに入った。そういえば、日本で運転する中田君を見るのは初めてだった。ビルの隙間から除く空の裾が赤く染まっている。ハイウェイのオレンジ色のランプが運転手の横顔を照らしては過ぎていく。ハイウェイというには妙に曲がりくねる道は、まるでビルの隙間を這っていく蛇の様だ。
誰が車を買うのか、どこに置くのかが問題になりまして。
その一言だけ、少しだけ声色が暗かった。
そうなんですか、と相槌を打つ自分の声が少しかすれて、思わず一度咳ばらいをした。じっとりとした感情を込められた声は、それを向けられたわけではない僕ですらぎくりと身を固めてしまいそうな怒りが覗いている。どうやら、美しく聡明な従弟はこの一件で隣の青年のご機嫌を損ねたらしい。
俺は自分で買うつもりだったんです。そもそもジャガーはリチャードとシャウルさんが共有で使っていましたが、それはあの二人が銀座に揃うことを想定していなかっただったんです。銀座を拠点とする人間をリチャードから俺に変えても、当分の間はアルバイトをしていた頃のように2人で店に立つことを想定していましたし、リチャードが無理な時は可能な限りシャウルさんが立ち会ってくれていましたから。そういう事情もあって、やっぱりジャガーは今まで通りシャウルさんとリチャードが使って、俺は自分で車を買おうかと。シャウルさんはその考えに同意してくれていましたし、俺が車を持っていればひろみやお父さんも何かと便利だろうと思ったんです。でも、
そこで中田君は一度言葉を切った。まるで、口から出すことが耐えがたいと言わんばかりに顔をしかめて大きく息を吐く。僕はこのあたりで、何となく、あの信じがたいほど美しい従弟がどういう行動に出たのかの予想が8割当たっていることを確信していた。
リチャードが、俺に、車を、買おうとしたんです。
やっぱり、という言葉はかろうじて飲み込んだ。リッキーのせいで僕へと中田君の怒りが向けられるなんてごめんだ。あの与えたがりの従弟は何だかんだと理由をつけてこの子に様々なものを与えてきた。そういえば誕生日のお祝いでMETの年間会員証をプレゼントしたとかなんとか、ハリー経由で聞いたことがあったっけ。あれも馬鹿高い買い物と言えばそうだけれど、きっと誕生日だから許されたのだろう。
主語と目的語がはっきりと区切られた文章はこれほどの圧力を持つのだと、チエコの授業では教えてもらえなかった。彼が銀座の店を拠点とするようになって半年経つが、まだその怒りは持続しているらしい。おぉ聡明で愚かな従弟よ、君の与えたがりが許されるのは時と場合によるとこれで学んでくれればいいのだけれど。
別に、その言葉を半分くらいは予想していたので、言われたこと自体は驚かなかったんです。でも問題はそのあとなんです。
なんということだろう。この青年は従弟の言葉を予想していたらしい。普段どれだけの額を貢いでいるのか、想像して少し青くなってしまう。リチャードが何故中田君と僕がこういう関係になることを許したのか、今でも不思議に思ってしまう。
ビルに囲まれていた景色から、急に海が飛び出してきた。白くそびえる巨大なつり橋と、その向こうに象徴的な丸い玉の浮かぶテレビ局が見える。東京湾だ。ビルに囲まれた都会は全くそんな気配を見せないが、実はこの大都会は港湾都市なのだという。古くは200年以上前から行われる埋め立て事業と治水事業によって作られた街。そういえばこの前中田君の家で見たドキュメンタリー番組では、東京をぐるりと回る様に走る川が人口で作られたものだという話をしていた。銀座という海を感じたことはなかったが、そこから東へ少し進めば月島になってしまう、と言われたことがあった。
車は巨大な虹の橋を渡っていく。恐らく風が強いのだろう。時々車が不安定に揺れるけれど、それ以外は全く快適な乗り心地だ。
リチャードが買おうとしていたのは、外車、ええと、英国車だったんです。それも新車。なにか特別なことがあるわけでもないですし、銀座を拠点にするお祝いだと言われればそうなんですが、それにしたって高価すぎますよね?しかも英国車ですよ。俺は日本車を買うつもりだったのに。
リッキーならやりかねない、というのが正直な感想だった。というより、僕がリチャードの立場でも同じことをしたかもしれない。自分の生まれ育った国にどんな形であれ馴染んでくれるというのは嬉しいものだ。それに、中田君のクラシカルな出で立ちに英国車はよく馴染むだろう。ただし、彼に買うとするならクラシックカーではない方が良いかもしれない。ミニも可愛らしいとは思うが、やはりジャガーの方が良いだろうか。休日のスポーティーな感じから行けばランドローバーも捨てがたい。ああでも、ビジネスで使うことを考慮しなければならないのか。
「英国車は嫌ですか?」
つい、そう聞いてしまったのは決して買い与えようと思っていたからではない。断じてない。けれどもこちらをちらりと見る琥珀色の瞳には、あなたもかという非難が浮かんでいた。
嫌いじゃないですよ。格好いいと思いますし、いつかは自分でも乗り回してみたいとも思います。でもそれとこれとは別問題でしょう?俺だって自分で車を買ってみたいと思っていましたし、現に中古であれば買えました。