——僕たち魔法使いにとって、この時期が一番幸せなのかもしれない。
 ビル少年の春
 昨日までの霧と冷え込みが嘘のように晴れた朝のあたたかさを感じながら、僕は大きく深呼吸した。そろそろ雪山の氷が溶けた水が泉に流れ、穏やかな春の香りに誘われた妖精たちが冬眠から醒める頃だ。一年のうちのほとんどが花芽吹くこの春季であるこの法域内にとっても、僕も冬は少し苦手だ。仲の良い隣人たち妖精も多くが眠りにつくし、それに何より朝と夜は冷えからだ。たった三ヶ月のこの冬を越し、僕たち魔法使いにとっても妖精たちにとっても大忙しの季節がはじまる匂いが僕はどうしても嫌いになれなかった。
「ビル。ビール! どこにいるんだ?!」
 大きな声で僕の名前を呼んだ飼い猫のニックが、二本の尾を揺らしながら近づいてくる。
「ニック。朝ごはんなら置いておいたよ。何? 洗濯物を洗いに泉に行くんだけど。明日にはもう、妖精たちが起きはじめるだろうから」
 そうなれば忙しくなるぞ、と僕が気合いを入れて洗濯籠を持ち直すと、ニックが待ったをかける。
「ビル。ウィルが用があるって。呼んでるぞ」「え、珍しい。今朝は早起きなんだね」「そうでもないさ。あいつも相当な歳だ、最近は目が早くに覚めて大変だと」「でも洗濯物は? 僕がやらなきゃ誰が干すんだよ」「洗濯物なら、明日にもできるじゃないか」
 興味なさそうに黒い毛並みを毛繕いをしながら、ニックは「ウィルが言うんだから、放っておいてもいいだろう」なんて無責任なことを言う。まったく、明日それを片付けるのは誰だと思っているんだ。
 その場に洗濯籠を置いて、玄関前の行く手を塞ぐ黒い毛玉を避けながら、家の中に戻る。ウィルはダイニングのテーブルで優雅に新聞を読みながら、こちらを振り返った。
「あぁ、ビル。おはよう」
「おはよう、お師匠さま」
「ウィルでいいって、言ってるのに」
「同じ名前で呼びづらいって、言ってるのに」
 もう何年このやり取りをしているのだろう、2歳で彼——魔法使いの師匠であるウィリアム——に引き取られてから、今年で20年になるのだ。いい加減、彼には僕の言い分を飲んでくれるフリだけでもして欲しいものである。
「ビル……ひょっとして、人間の反抗期ってやつ?」
「だから昨日も言ったけど、違うってば。それで? 用事って?」
「あぁ、忘れるところだった」
 珈琲カップに浮かぶ銀のスプーンが、勝手にくるくると中身を混ぜている。砂糖とミルクが良い塩梅で、美味しそうに湯気を立てている。そういえば今朝は珈琲を飲んでいなかったか。あぁ、また今日も無精髭にトーストのパン屑と目玉焼きの黄身がついているってば。本当にこんな男が、教科書にも載るような魔法域内の名士なのだろうか。ここ数年僕はずっと、彼の魔法使いらしくない浮浪者のような出で立ちとビール腹に頭を悩ませていた。
「これを読んだかい?」
「手紙? いや? さっきここを出るときには無かったと思うけど」
「そう。まぁいいや。内容は大体分かるだろうしね」
「え、もしかして」
「そうだよ」
「もう”お報せ”が届いたの?」
 僕はウィルが持っていた封筒を勢いよく受け取った。そこには『春季の報せ』なるタイトルのグリーティングカードが入っていた。
「今年は明日の予定だったよね?!」
「妖精長が、昨年との気温差の関係で、ここいら一帯の妖精が早めに目醒めはじめたんだろうって」
 例年、妖精長から冬眠の報せが11月から12月に届く際、『冬眠明け、春季の報せ日』を教えてくれる。いつからいつまで妖精が休むのか、それを教えてくれるのだ。魔法使いと妖精は隣人同士。協力関係にあるので、きちんと毎年、冬眠する前に報せる冬眠明け日を教えてくれるのである。
「そうなんだ……遅れることはあったけど、早まった経験が無かったから。そういうこともあるよね、そりゃ」
「そうか、ビルは初めてかな。まぁ、そのうち慣れるさ。何百回も迎える春だもの」
「それで? 今年春季はじめの仕事も、前倒しにするってこと?」
「その通り」
 察しが良い子で助かるなぁ、と大げさにウィルが笑う。あぁ、せめて口元をふいて、口の中の食べ物を飲み込んでから話してくれないかな。魔法域内の名士の威厳も何もありゃしない。
「今年は、ロンドンからはじめることになりそうだよ」
「ロンドン?! またどうして。いつもは最後じゃなかった?」
「そうなんだけどね、あの街の魔法使いが何人か仕事ができない状態になっているみたいで。医薬品と、復活祭、ワルプルギスの夜には到底間に合いそうにないんだって。それで、急遽ヘルプを頼まれたんだよ」
 昔馴染みの頼みでどうも断れなくてね、と歯切れ悪く苦笑するウィルがようやく口元をナプキンで拭い、僕はホッと一安心する。
「事情は分かったけど……お師匠さまが行ったほうがいいんじゃないの?」
 ほとんど8割程の魔法使いは、山や森、深海など人間に見つかりづらい場所に棲むことが多い。隣人である妖精たちの法力を借りやすいということもあるし、人間に魔法を見られることはルールとしては禁止だからだ。街にいる魔法使いは多くは、代々医療や宗教、あるいは書物などに関わる少数派ということになっている。人間と魔族がかつて喧嘩別れする前から、彼らは街の良き相談役であったそうだ。時代が進むにつれて、文化的魔女狩りが流行すると一気に人間界——つまり法域外——と、魔法界——法域内——は互いに公な交流が出来なくなってしまった。それでも法域外で魔法使いが活躍する場面も多く、例えば疫病の特効薬作りなど、人間にとっても完全に廃絶することは得策とも思えなかったようで、街の魔法使いはひっそりと人間たちにバレないように暮らしている分には狩られることも無くなっていった。それまで根深かった戦争は、一応ここ数百年冷戦状態にあるというわけだ。
「ロンドンの魔法使いたちの代わりなら、医薬品か行事の呪術関連魔法でしょ。まだ法力が弱いハーフの僕より、”名士”のお師匠さまが行くべきなんじゃないの?」
「ビル。言ってるだろ、”名士”なんて呼ばれてたのは、もう百年以上前のことだってば」
「誤摩化さないで、どうしてお師匠さまが行かないのさ」
「それが……」
 
見た目こそ12歳で止まってしまっている
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今月もあと2日しかないのでお題を仕上げていく
初公開日: 2020年04月28日
最終更新日: 2020年04月28日
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万年筆文芸部の今月のお題原稿を書いていくつもり