夜になると隣の布団で目を閉じ合掌している南海先生がいた。何かをしきりに祈っているようだった。先生は平たい布団の上で、寝支度を済ませた後、枕の方角を向いて手を合わせるのだった。枕は東にあった。
「そんなに熱心に、何祈ってんだ。」と奇怪な好奇心で尋ねた。神がいるのか。
「何でもないよ。」
それははぐらかす為の言葉ではなく、確かにその通りであるという響きを持っていた。先生の言うことには、神がいるでもいないでも、それは神を妄想する自分しだいであるという事らしかった。いると言えばいる。いないと言えばいない。それが先生にとっていると言えるだけの大事だったのだろう。また先生は、神に祈っているとも限らないと言った。寝るつもりで布団に入って、先生の祈る横顔の景色を眺めているうちに、夜が更ける。
「僕は肥前くんを信仰しているよ。」
信仰という言葉を便利に思った先生が何気なく口にした言葉だった。昔の記憶だった。
今夜も先生は変わらず祈った。「こうして掌を合わせていると……。」続く言葉は無い。あったかも知れないが、それは夜の霧となって部屋中に飽和した。そうして見た夢……
初めは何だか良く分からないまま意識だけが漂蕩していた。そこから時間の穴を飛び越える様にして、次第に色が見えて来て、温度があると感じて来た。清らかな水をいっぱいに浴びて、ようやく自分の立つ世界が見えた。谷の深奥に在って見上げると、黒衣が空を覆っていた。聖母の着るような黒衣。それが波を打っている。その下から、朽葉の未だ落ち切らない木が伸びていた。愀然として吹く風に、朽葉が落葉となって降り滑った。落葉は時間をかけて、緑青の深い川に闇く呑まれた。川の底では瑪瑙が光った。太陽の代わりを果たすように。それから、自分は? 自分は歩かなければならない気がしているのに、脚は潰れてしまっていた。きっと落石だろうと思った。
朝食の時、これを雑談として先生に話すと、「それは昨日、僕が見た幻だ。」と言った。今朝の味噌汁には貝が入っていた。おかわりを食べるのに忙しかったから、話の続きは今夜聞くことにした。もう蛙が鳴いている。庭の雀が寄って来た。雀は何も知らない子供のように、絶え間なく小首を傾げている。明日生きているかどうかの命だろう。人間と同じだと思った。この雀の寿命について、寿命という概念が曖昧な心の中で考えてみるうちに、空が夕べの色に染まって、やがて夕飯を食べた。柔らかなとんかつであった。この豚は柔らかい肉を提供するために太って短い一生を終えたのだろう、きっと、平均的な寿命で。
浴場へ向かう途中、僅かに音を立てて動く雀を見た。まさか昼と同じのではないだろう。雀はいくらでもいる。部屋へ戻る頃はすっかり静まっていた。果たして先生は祈っている。先に横になって寝ようとすると引き止められた。朝の話の続きをするらしい。枕の上で顔を先生へ向けて、塞がれていない方の耳で先生の声を聞いた。
「君が見たという夢だがね、朝にも言った通り、僕も同じ幻を見た。僕はこうして、手を合わせていると、暗やみのうちに夢が見えてくる。しかし僕は眠っていないのだから、それは幻というわけだね。」
手を合わせるのを止めないで、目を瞑ったまま話している。
「最後の、脚が潰れるというのは覚えがない。おおかた、眠っていて足の自由が利かないのでそうなったのだろう。」そう言ったきり、特別夢を判じようとはしなかった。
鬱々、蒼々とした道にいる。夜の虫が頻りに鳴く。大きな赤松の樹は山道の如くに崎嶇たりて、月明りの下で耀いている。さらにその下には地蔵菩薩が立っている。ちょうど赤松の根本で道が二又に分かれていた。どちらへ曲がればいいかと訊くと、「右へ行ってはいけません。然し左も行けません。」と地蔵が答えた。道を引き返してはならない、むしろ、来た道は引き返せない、と夢に意識させられて、仕方なく左の道へ進んだ。進んで行くと段々闇が迫ってくるような心持ちがして、気が付いた時には別れ道の合流する元の場所へ戻った。地蔵は何も言わずに立っている。右へ行っても同じことだったから、煩わしく思って、来た道を戻ろうかと振り返ると狼の様な虎の様な、又龍の様な獣が自分を睨んでいた。頭は確かに狼や犬だが、胴は龍のように長い。虎の尾が生え、馬の脚を持っている。月白色の眼と、視線が合った一刹那! 獣は自分に飛び掛かり、両の腕を貪るように食いちぎった。
今度はそんな夢を見たのだと食卓で話すと、先生は嬉しそうに聞いていた。やはり幻と一致したようだ。そしてまたやはり、最後の部分には覚えがないと言う。寝ているあいだ、腕が痺れていたのであろうか。
「こんな事があるものだね。僕が肥前くんの見る夢を、予見か、あるいは決定しているのかも知れない。それにしても脚が潰れ腕を食われ……、ひょっとすると、肥前くんは……、」
先生は何か言いかけたが止めた。その日から先生が手を合わせるのは、飯を食う前と後だけになった。
おわり!
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ひぜなんのSS
初公開日: 2020年04月28日
最終更新日: 2020年04月28日
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お試しです。周回しながらやる