「あ、志賀、あれじゃない?」
「みてーだな」
動き出した『動植綵絵』の調査のため、絵に潜ることになった文豪たち。志賀直哉と武者小路実篤は、『芦鵞図』に潜っていた。その名の通り、この絵には一羽の鵞鳥が描かれている掛け軸である。実際、二人の視界の先には一羽の鵞鳥が、のんびりと周囲を見回しながら、地面の草を食んだり、ぐわぐわと呑気な鳴き声を上げている。
「つか、一緒に来てた有島とトンはどこに行きやがった?」
「おかしなぁ…さっきまでいたと思ったのに…」
「ま、その内どっかで合流できるかもしれねぇな。とりあえず、今はあのアヒル!だな」
「ガチョウだよ、志賀」
「似たようなモンだろ。白いし、くちばしは黄色いし…」
図書館の庭でアヒルを手懐け、生前では飼っていたこともある(ただし、アヒルである)志賀はゆっくりとガチョウに近づいていく。当の本人…本鳥は、志賀に気づくとぐわっぐわっと鳴き声をあげ、数度、首をかしげる動作をする。気にはなるらしいが、逃げる様子はない。
手ごたえをつかんだ志賀は腰を落とし、「おいで~おいで~」とガチョウに警戒心を与えないように呼びかけ、ゆっくりと近づいていく。人馴れしているのか、ガチョウはぐわぐわと鳴きながら、短い尻尾を振り、ぺちぺちと地面を叩きながら、志賀の近くにやってきた。
「おーーよしよし、いいこだなー」
「よし!」と心の中でガッツポーズの志賀は、さすさすとガチョウの体を撫ででやる。心地よさそうなガチョウは気を良くしたのかさらに構え、構えと催促してくる。志賀は「ほら、武者も」と背後の武者小路に促す。
「わ、ホントだ。すごく人懐っこいね、この子。絵の中で一匹だけだったし、寂しかったのかな?」
武者小路が手を伸ばし、ふわふわの胸元を撫でてやると、心地よさそうな声とせわしなく短い尻尾を動かして、ガチョウは答えるのだった。
「かもな。よしよしーしばらくは、俺たちがかまってやるからな~うりうり~」
「うりうり~ガチョウさん。あはは、ちょっと、つつかないでーこらースカーフはダメだよ?」
くいくい、とガチョウは武者小路のスカーフをくちばしで軽く引っ張る。取られてはたまらないと、スカーフを握り、ガチョウから取り返す。もっとも、ガチョウの方も本気ではなかったのか、すぐに口からスカーフを放し、バサバサと一度羽を広げ、体を震わせた。
準備運動だったのだろう。心なしか、ガチョウの目の本気度が増す。「さぁ!さらにかまうが良い」といわんばかりの鋭さである。
それが分からぬ『小説の神様』ではない。小説の神様は不敵な笑みをこぼす。
「ふっ……このお!武者に手を出すとはッ…くくっこうしてやる!くらえッ!連続ワシャワシャ攻撃!!」
わし、っと志賀はガチョウの胸を軽く片手で掴み、指先で揉むようにして撫でる。反対の手で尻尾の辺りを手で包み、胸と連動させるように撫でる。
「あははー志賀!こっちも加勢するよ!」
前後の心地よい場所を徹底的に責められて、液体になるのではないかと思うほど脱力し始めたガチョウを見て、武者小路も加わる。
「よしきた」と志賀。「武者はそっちな!」と志賀は武者小路には自分と反対側の位置に行くよう言う。「ここでいいかい?」と武者がその場につく。
「じゃぁ、そっと羽の下に手を入れて……」
「こう、かな…?」
「そして、撫でる!!指先を繊細に動かすのがコツだ」
左右からそれぞれガチョウの羽の下に手をそっと入れ、絶妙な力加減で先ほどと同じように撫であげる。
ガチョウからしてみれば、たまったものではない。
何せ六十年来の友人である二人。息もぴったり、かつ仲の良さは文豪の中でも知られている。その二人からの連続ナデナデ……
結果、周囲に喘ぎ声としか聞こえないガチョウの鳴き声が周囲に響き渡ることとなった。
「寝ちゃったね……」
「あぁ。満足したんだろうな」
息ピッタリの二人からの連携ナデナデに、ガチョウはリラックスしたのか、心地よさそうにすやすやと寝息を立てて眠ってしまった。志賀と武者は志賀の胡坐の上で眠るガチョウの姿をしばらく眺めていたが、ぐっすり眠って、起きる様子もないため、起こさないよう細心の注意を払いながら、ガチョウを地面にそっと下ろす。一瞬、ガチョウは身じろぎしたが、起きることはない。ほっと一息つくと、二人は静かにその場を後にした。
「しっかし、人懐っこいアヒルだったな」
「ガチョウだってば。まあ人懐っこかったのは確かに、ね」
「図書館の池にいるアヒルとはまた違った可愛さがあったな。ぐわぐわって鳴いてるところが特に」
画から戻ってきた二人は、画の中について話し、仕事は終わったとばかりに体を伸ばす志賀。彼の言葉に応えるように「ぐわぁー」とガチョウの鳴き声がほど近くから聞こえてくる。
「ははっ。あんまりにも楽しかったからか、鳴き声まで聞こえてくるぜ」
「……志賀、志賀。足元、足元見て。志賀」
「足元?なんだよ武者ぁ、なんかいる……って、え?」
武者小路に肩をつつかれ、言葉の通り、志賀は自分の足元に視線を向ける。
ぐわーっぐわわ、と元気よく羽をはばたかせるガチョウがそこにいた。そう、あの絵の中にいた、そして二人が先ほどまで撫でまわしていた、あの白いガチョウである。
「は!!!?お、お前なんでここにいるんだ!?」
「志賀があんなに撫でるから……」
「俺のせいかよ!武者だって撫でまくってたくせに!」
自分の頭上で慌てる二人のことなどいざ知らず、ガチョウは志賀のストールを引っ張り、「かまえ、かまえ」と催促してくる。
「なぜ絵の鵞鳥がそにいるのだね?」
二人の姿を見た森(頬がこけたようにみえる)が、手にした書類を落としながら二人に問うた。
「俺たちにも分からないんです……ど、どうすれば……?」
戸惑う志賀の問いかけに、はぁぁあ~~と盛大なため息をつき、森は頭を掻いて重々しく口を開いた。
「……画の中に戻してきてくれ。話はそれからだ。おそらく、その鵞鳥が満足すればついてくることもなくなって、画も大人しくなるだろう」
「つまり、また画の中に……?」
「そうなるな」
ばさばさと翼をはためかせ、ガチョウは懲りずに志賀の薄緑のストールを引っ張り、気を引こうとしているようだった。
「………志賀、僕も付き合うよ」
「……おう」
言葉少なに、二人は再度『芦鵞図』へと足を運ぶのだった。二人の前を歩くのは、至極楽しそうな一羽のガチョウだった。