香りは最も、記憶と深く結びつく五感であるという。
だからきっと、誰よりも深く、その人を繋ぎ止めるものでもあるのだろう。
ふわりと背後から馴染みある香りが空気の動きに乗って流れる。煙草と、それとは別の香り。僅かに、混じっている別の香りをとらえる。
振り向かなくても、私はこの香りをまとう人を知っている。私だけが知る、彼の香り。
「どうしたのだろう」と思いつつ、振り向く直前、視界の外から指し出される一枚の書類。本日提出期限を迎える書類だった。
「悪ィ、コレ頼む。今から出ることになったから、やってたら間に合わねぇ」
振り向けば、予想通り。ガブリエルだった。愛称で呼ぶのが常だが、職場ではさすがにまずいので、きちんと上司と部下として接する。が、頼まれたことがことだけに、彼も小声であり、私の方も敬語も抜けている。お互い様というやつだ。
「期限が、今日? データ入力必要なものなのに、コレ……」
「だから悪ィって。お前だから頼んでんだよ」
「しょうがない。今からやれば間に合うけども?」
時計を見、時刻を確認する。幸い、私の行っていた仕事はちょうど片が付いたし、頼まれた書類の入力もさほど時間はかからない。
「恩に着る」
「入力後は?」
パソコンの画面に書類の入力フォームを表示し、一度確認のため書類と照らし合わせたのち、僅かに顔を動かし、彼に視線をやる。
「あぁ、俺のデスクの処理済みの書類と一緒にしてくれ」
「分かった」
思ったより近くに彼の顔があったせいで、思わずスィ…と視線を逸らし、僅かに距離を取る。任務以外の職場で近くにいることは、あまりない。いきなりの距離に僅かに戸惑うが、そんなことを微塵も知らない彼は、画面と書類を見比べるのに忙しい。いくら間違いがないかを確認したいためと分かっているが、不意打ちは困る。
だが、それ以上に、近くにいると僅かに香る香りが私を戸惑わせることを、彼は知っているのだろうか。
「? どうした?具合でも悪いのか?」
「どうして?そんなことないけど……というか、行かなくていいの?」
隠したつもりでも表情に出ていたのだろう。疑問を持った彼が尋ねてきたが、それとなく話題を反らすと「っと、そうだったな。行ってくる」
と一言残して去っていく。
「どーしてこうなるかな」
事務所を後にした彼の背中を見送った後、努めて冷静に、正確に入力を終えると、自分の口の中で呟く。上司である彼が書類をギリギリに提出したことでなく、私の中に生まれた戸惑いについてだ。一度席を立って、入力した書類を指定された場所に入れ、席に戻っても戸惑いは居座り続ける。
「おんなじだから、困るのに」
額に手を当て、少しでも冷静さを取り戻そうとする。それでも、厄介だ。香りというのは見えないくせに、本人がおらずとも隣に居座り続ける。
先ほど香ってきたのは、ガヴィが愛用している煙草の香りと、そこに僅かに混じる香水の香り。それは、彼に抱きしめられたときに香る大好きな香りだ。
昨夜もその香りに抱かれていた。
「っーーー!」
彼の腕の中にいたことを不意に思い出してしまう。それが切欠になって、ささやかれた言葉だの、熱っぽい瞳だの、かすれた声だの……を思い出してしまい、慌てて頭を打ちふるって記憶を消した。嗅覚が記憶と結びつくのは本当らしい。この仕組みを作った神とやらは、なぜ人間をこのような設計にしたのだろう。いっそ、恨みがましい。
確かに、彼、ガブリエル…ガヴィとは、何度となく、それこそ上司と部下として出会う前から惹かれていたのは事実だし、肌を合わせた回数も数えきれない。けれど、いつまでも、この恥ずかしさは、戸惑いは残る。幸せだという感情も、快楽に溺れる貪欲さも骨の髄まで知っているし、染められたし、見られている。今更過ぎる。今更過ぎても、思い出すと恥ずかしい。
すん、と空気を僅かに吸い込むとまた、あの香りが香った。もういない彼を思い出してしまう。家に帰れば、会えるのはわかっている。それでも、今ここでもう少しだけ、言葉を交わせたら、と思ってしまう。
ずるいよと言いながら、私は定時まできっちりと仕事を務めることに専念したのだった。
「ただいま」
「おう、おかえり。お疲れさん」
支局の近く、今は二人で借りている部屋に灯りが灯っていた。出迎えた彼は、ずいぶん前に帰宅していたのかリラックスした服装で、ソファーに腰かけていた。灰皿の吸い殻と、ほんの少しだけ減っているボトルと空のグラスが、待っていた時間を示す。留守番をする大型犬のように見えたのは秘密だ。
「あれ、直帰だった?」
「あぁ。報告終わったら、そのまま戻っていいって言われてたからな。おかげで早く帰れた」
吸っていた煙草を灰皿に押し付け、ニッと笑う彼にこちらも「お疲れ様」と短く声をかける。荷物を置いて、着替えとシャワーのため、一度部屋に引っ込んだ。
「ちょっと新鮮。先にガヴィが家にいるのって」
「帰る場所が一緒なら、そうもなるわな」
シャワーを浴びて、彼の隣に腰かける。さも当然のように彼はグラスにワインを注ぎ、こちらに差し出した。軽い口当たりで、度数もそこまで高くないこのワインは、二人して普段からよく飲んでいる。
「