あわただしい一日だった、と少女は今日という日を振り返る。
急かされて、背を押され、目の前に広がる世界に一歩踏み出した。
愛らしい相棒と共に。
金の風は未だ、そよかぜ
ぱりっと糊のきいたシーツの上に横たわり、天井を見上げる。
自慢の金髪はやや湿っていたが、これ以上ドライヤーを使う気力も残っていなかった。
「ジムチャレンジャー、か。本当に、ジムチャレンジするんだ、あたし」
(実感がないな)
ごろりと寝返りを打つ。髪をひと房、手に取ってはらりと落とす。
キラリと光る髪は、母を思い出す。
少女は家族のことを愛していた。だから、旅立つ時が来るのなら、きちんと挨拶をしてからがいいと思っていた。
だが、結局は母だけに伝えるのみになってしまい、父や祖父母に対して不義理だったかと、子供ながらに思っていた。
ふと、自分のエントリーデータを見る。
【015】と番号を選んだのは、ずっと心に残っていることがあるからだ。
『この子は、15歳で運命を絶たれる』
7歳の時に出会った辻占売りの老婆は、嫌にはっきりとした声でそう言った。
信じた、というよりはそう言うこともあるだろうと納得した。
人は死ぬ。
少女の祖父はそう言った後、後悔しないように生きなさいと続けた。
彼が昔話をした後は、必ずその言葉で終わるのだ。
顔に大きな傷がふたつ走り、ひとつは片目を大きく抉ってしまっている。そのせいで隻眼となった祖父。
常に己が良しとすることだけを選んできた祖父の言葉は、傷だらけの体も相まって、どんな言葉よりも説得力があった。
だから、余命宣告のような老婆の言葉は特に驚くものでもなく、すとんと受け止めた。
ならば、まだ時間がある、と。
やりたいこと全てをやるには足りなくても、まったく何もできないほどではない。
そう考えて、少女はそれまで以上によく遊び、良く学び、よく食べ、よく愛した。
家族と友人への愛情を、今まで以上に言葉にすることにしたのだった。
幼い心でも、大切な人への思いは強く抱いていたから、それを言葉にして届けることにしたのだ。
「どこまでいけるかな、ロトム」
《ロト?》
「ジムは8つ。戦うジムリーダーも8人。どんなポケモンと戦うのかな?って」
《検索するロト?》
「うん。一覧とかあるかな?」
《ちょっと待つロト~》
ガラル地方のポケモンリーグはエンターテイメントとしても親しまれている。
スポーツのようなものだ。他の地方と一線を画すのはそこだろう。
少女はまだ知らないが、バトルの勝敗で賭け事も成立する。
清濁、光と闇、その混沌と熱狂の坩堝に、彼女は足を踏み出した。
《結果が出たロト~》
スマホロトムの画面を見れば、ずらりと検索結果が並んでいた。
個人が運営している分析サイトなどもあり、この地方でのポケモンリーグへの関心の強さが窺える。
その中で、ジムリーダーの紹介をメインにしていそうなタイトルを指で触れた。
ジムチャレンジをする順番に、ジムリーダーと今まで公表されてきている手持ちポケモンが紹介されていた。
「この人たちが、明日の開会式で会えるのね」
《そうロト!》
そういえば、と画面を下に流していく。
雑誌で見たことがあったり、テレビCMでみたことがあったり、詳しくは知らずとも、顔は分かる人がほとんどだった。
自分とは違う場所、違う生き方をしていた人たちと、ポケモンという一つの共通項だけで同じ舞台に上がるのだ。
少しずつ、自分がポケモンバトルをするトレーナーということが、実感として湧いてくるようだった。
「ありがとう、ロトム。もう休んでいいよ」
《OKロト。シェリー、おやすみロ~~》
ふよふよと充電器に戻って眠りにつくロトムを見てから、少女──シェリーはもう一度寝返りを打って天井を見上げた。
「戦う、戦う、戦う……分かんないな。ケンカはしたことあるけど、戦うのは、まだ分かんないや」
他の地方から引っ越してきた彼女は、引っ越した当初は揶揄われることもあった。
言葉の違い、人種の違い、仕草の違い、些細なことで数知れず。
その全てに泣いていたのは、ほんの一週間ほど。
一週間を過ぎた後には、拳で返事をするようになった。
最初に泣きついた母はこう言った。
『やられたら、やり返しなさい。貴方が売られた喧嘩なら、貴方が買いなさい』
次に泣きついた祖父は、銃を磨きながらこう言った。
『よし。おじいちゃんが”お話”してきてやる。お前は次は勝てるように素振りしていなさい』
そういったことを毎日繰り返して、シェリーはようやく、言葉だけでは通じないこともあるのだと気づいた。
泣いても、言っても、相手は聞かないというのなら、最後は拳しかない。
初めて、拳を握ってやり返した時は相手の顔の真ん中――鼻を直撃して、鼻血を間近に見てしまったために、自分でやっておきながら驚いてしまった。
自分のやったことに対する結果が目の前に突きつけられて、自分も殴られたような気がしたのだ。
握った拳は、じんじんと痺れて痛かった。
思わずごめん、と言おうとしたが、それを遮る様に向こうが泣き叫んだ。
その言葉を聞いて、彼女は今度こそ明確に怒りを覚えた。
――女のくせに――
腸が煮えたぎり、拳が軋むほど握りこんで、腰だめに腹を殴った。
そうすれば少なくとも血は見ないと思ったからだ。
拳の痛みは増していたが、そんなことはどうでも良かった。
周りを囲んでいた、顔も覚えていない少年たちは散り散りに逃げ、一対一で、彼女が一方的に殴っていった。
気づいた時には、荒い息を吐いて、少年に馬乗りになっていた。
涙と鼻水でどろどろになり、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣いている少年は、酷く哀れに見えた。
シェリーは興味を無くしたように、立ち上がった。
彼女にとって、喧嘩は虚しいものに思えた。
実際には、抵抗するとは思っていなかった少年が、思わぬ抵抗で手も足も出なかったために、喧嘩と言うよりは一方的な暴力になってしまったのだが、その時の彼女はこれが初めての喧嘩だった。
温厚な父はこれに対して懇々と説教をし、祖母は寝るまで諭したが、母と祖父はよくやったと褒めた。
彼女の父と祖母は今回の件を『意見の食い違い』と見ていたが、母と祖父は『謂れのない誹り』と思っていたからだ。差別と言ってもいい。理不尽には拳を、というのが母と祖父の意見だった。
この一件は、彼女に、力というものに、恐れと、責任を持とうと思うきっかけになった。
戦うということは、きっと、その責任と恐れを持って相手と対峙することなのだろう。
少なくとも、一対一が基本となるポケモンバトルではそうなるだろうと、今の彼女は結論づけた。
「ジムリーダーなら、戦うってことが何なのか、きっと知ってる。聞いてみよう。そうだ、カブさんとポプラさんには、絶対に聞こう。ベテランだもん。特にカブさんは、あきらめずに戦い続けてる人だから。うん。そうしよう」
一人大きくうなずいて、勢いをつけて上体を起こした。足元に丸めていた毛布を広げて、ふわりと大きく持ち上げてから、一緒にベッドに倒れこんだ。
「明日が楽しみ!」
抑えきれない歓喜を声に出して、彼女は部屋の電気を全て消した。