あの幼き日の記憶ほど、忘れたくないと思うものはありません。きっと、この先ずっと忘れることはないと思いますが、
 優しくて、あたたかくて、それでいて「嘘」がそこらじゅうに溢れていた、なんとも奇妙な夏の日の記憶です。
 蝉が五月蠅く鳴く度に、
 氷菓の冷たさが歯に沁みる度に、
 風鈴が風に揺られて音を響かせる度に、
 その記憶はふっと、まるで昨日のことのように蘇ってくるのです。しかし、その記憶を深く深く辿ろうとすれば、忘れなさいとばかりに日常へと意識を戻されるのです。
「──幸せになるんだよ」
 そのたった一言だけを、置き去りにして。
 
❀❀❀
 初めて、たったひとりでお祖母ちゃんの家に行ったのが、あの年の夏のことでした。弟がまだ生まれてばかりで両親は手が離せず、兄たちは学校や部活で忙しくて。大きいリュックに水筒を持ち、ひとりで新幹線に乗って、ビルばかりの街並みから田んぼや川、海などに車窓の景色が流れていくのを、ただぼんやりと見ていたのをよく覚えています。お祖母ちゃんはたったひとりでやって来た俺を歓迎してくれました。西瓜に塩をかけると甘く感じるのだと教えてもらったのも、かき氷を一気に食べるときーんとするのを知ったのも、鮎の塩焼きにかぶりつくと一段と美味しいのだと体験したのも、あの夏のことでした。
 お祖母ちゃんの家は、市街地からはだいぶ離れたところにあり、あたりは草木に覆われていました。曰く、春には満開の桜が、夏には大輪の向日葵が、秋には立派な秋桜が、冬には慎ましく水仙が咲くのだとか。俺は夏の向日葵しか見たことがないのですが、それはそれは綺麗な黄色の絨毯が広がっていたのをよく覚えています。
 そんな自然豊かなお祖母ちゃん家の裏には、小さな小さな神様の社が建っていました。
 小さいけれども、きちんと手入れのされている朱色の鳥居。その向こう側には石段があり、「あの人」はいつだってそこに座っていました。
「お兄さん」
 確か、そう呼びかけたのが最初だったと思います。
 驚いたようにこちらを振り返ったお兄さんは、ひどく綺麗なかんばせをしていました。春を思わせる若草色の髪に、薄墨色の瞳。そして桜色の着物。当時は奇妙な服装だとしか思っていなかったのですが、今思えばあれは狩衣なのでしょう。そして手には月の如き色をした扇を持っていました。とても大事そうに。
「お兄さんは、桜の妖精さんなの?」
 その社には、大きな大きな桜の樹が植わっていました。実際に、咲いているところを見たことはなかったのですが、お祖母ちゃんが写真で見せてくれていたので、その桜がどれほどに綺麗なのかを知っていたのです。
「……俺のことか?」
 不思議そうに尋ねる彼の言葉に、首肯して応えます。そうすると愉快そうに笑ったお兄さんは、「違うよ」と言ったあとに、
「俺は、幽霊なんだ」
 と続けました。
「幽霊!? そんなの本当にいるの!?」 
「ああ、いるさ。人間はずっと昔に忘れてしまったんだ。幽霊も、妖怪も。それから神様も。もちろんいるよ」 
 そういえば、あのあたりは河童の伝説がある土地でした。とはいえ、結果的に見たことはないのですが。
「そうなんだ! ……で? 幽霊さんは何て名前なの?」 
「俺は千景だ」 
「千景さん! 俺はね、み……!」
 名乗ろうとした俺の口は、器用にも千景さんが持っていた扇で塞がれてしまいまったのです。 世にも珍しい月色の扇は、太陽の光を反す度、ひらひらときらきらと輝いていました。その光景は、今でも瞼の裏にじわりと焼き付いて離れません。
「名前は大切にしないとね」
 そのときにはわからなかったのですが、のちに千景さんが言っていたこの言葉の意味を知ることになります。名前は一番短い呪なのだ、と。人外の者に名を知られてしまえば、それは人間にとっては死と同等。それが幽霊だろうが、妖怪だろうが、神様だろうが、変わりません。人間は彼らにとっては脆弱で、不確かな生命しか持たない存在なのですから。どこかへ連れ去られたとて、文句は言えないのです。たとえ、その行き先がこの世でなかったとしても。
「ところで少年」
 その声は玲瓏たるもので。遠くの民家で鳴り響く風鈴よりも、ずっと綺麗なものでした。
「なーに?」
「もうすぐ、陽が暮れる。……早く帰ったほうが良いんじゃないか?」
 さきほどまで頭の真上にあったはずの太陽は、いつの間にか淡い橙色を発しながら、空の端へと今にも沈まんとしていました。確かに、もう夕暮れも夜も目の前まで来ているような時間でした。
「ほんとだ! 帰らないと、お祖母ちゃんが心配する……」
「早く帰った方が良い。……家に待つ人があるなら、それは何よりも大切なことだ」
「千景さんは? 帰らないの?」
 子どもとはどうにも残酷なものだと、今なら分かるのです。その言葉を受け、千景さんが大きく目を見開きました。きっと怒られたりなじられたりしても仕方のない言葉だったはずなのですが、彼はただただ優しく「俺の家はここなんだ」とだけ言いました。それは優しさだったのか、それとも飽きらめだったのか。過去の俺にも、今の俺にも、決して理解の及ばない領域です。
 木々のトンネルを走り抜け、もうシャッターが閉まってしまった駄菓子屋の前を駆け抜け、お祖母ちゃんの家に帰ると、家じゅうにカレーの匂いが充満していました。暑いのにもかかわらず、熱い鍋の前に立つお祖母ちゃんに「ただいま」と言えば、その優しい腕は俺の帰りを歓迎してくれました。
「あのね、今日幽霊さんに会ったんだよ」
 白いご飯に少し甘めに作ってくれたらしいカレーを「美味しい」と食べながらそう言えば、お祖母ちゃんはにこりと笑って、「そうかい」とだけ返してくれました。兄弟が多い所為もあって、そんな子どもの作り話に付き合ってくれるのは一番上の兄くらいだったのをよく覚えています。だからこそ、もっともっと自分の話を聞いてほしくて、にこにこと笑っているお祖母ちゃんへあれもこれもと話をしました。お祖母ちゃんはずっと「そうかい、そうかい」とにこにこ笑っていて、コップに麦茶を注ぎ足してくれたりしていました。
 しかし、
「幽霊さん、すごく綺麗だったんだ。千景さんっていう名前だって言ってたよ」
 この言葉にだけは驚いたように、「それは本当かい?」と俺に尋ねたのです。
「うん、本当だよ。千景さんっていうんだって」
「そうかい……。つづくん、その千景さんっていうお方はね、幽霊さんじゃなくて、神様かもしれないんだ」
 お祖母ちゃんは、俺のことをだいたい「つづくん」と呼んでいました。それがなんだか擽ったくて、それでもそう呼ばれるのが好きでした。
「神様……?」
「そうだよ。裏の神社で会ったんだろう?」
「うん、神社の桜の樹の隣の石段に座ってたんだ」
 答えながら、あのときの光景を思い出しました。千景さんはどこか遠くの空を見ながら、どこかつまらなそうな顔をしていた気がします。桜色の衣装の裾が風に攫われようとも、気に留めることもなく。ただただずっと、雲が流れるばかりの空を見ていたのです。
「あそこには、昔、千景さんという名前の男の人が住んでいたみたいでね。……その後、彼はそこで神様になったんだよ」
 それはまるで、信じられないような話でした。人間が神様になるだなんて、当時の俺には不思議としか思えないものだったのですから。それでも、お祖母ちゃんのどこか痛そうな表情からは、それが「嘘」だなんて思いつくこともありませんでした。
「……人間が神様になるの?」
「神様っていうのはね、人間がそうだと決めつけて神様にしてしまったりすることもあるんだよ。生まれたときから神様だっていう神様もいれば、つづくんみたいに普通の人間だったのに、神様になったっていう神様もいるんだよ」
 この言葉は、教えてもらった日からどれほどの時間が経とうとも一言一句違えることはありません。諳んじることすらできるくらいです。お祖母ちゃんの口調が今までにないほどに真剣であったからか、それともその言葉が衝撃的すぎたからか。その理由を、俺は覚えていません。ですが、ただひとつ、あの夏の日に俺は悟ったのです。
──人間という生き物は、歪な生き物なのだ、と。
 それを言葉にして表せるようになったのは、もっとずっと年齢を重ねた日のことでしたが。
❀❀❀
「千景さん」
「……少年、来ていたのか」
 その次の日。俺はまたあの神様の社を訪ねていました。「明日も千景さんに会いに行っても良いかな?」とお祖母ちゃんに尋ねたとき、「お祖母ちゃんの代わりにこれをお供えしてきておくれ」と渡された、綺麗な金平糖を片手に。
「うん。また、千景さんに会いたかったんだ」
「変わった少年だな」
 そう口に出すものの、彼は決して追い返したりはしませんでした。むしろ、直射日光の当たらない木陰を指さし、「あそこに座りなさい」と言うほどです。
「これ、お祖母ちゃんから預かったんだ」
 涼しい風が吹く木陰に腰を下ろした後で、金平糖の瓶を彼に差し出しました。レモン色にソーダ色、ミント色に葡萄色。様々な色彩に溢れた砂糖菓子が詰まった瓶でした。それをおそるおそる受け取った彼は、瓶のふたを開け、
「これは私は食べられないから、少年が食べると良い」
 と言ったのです。
「……金平糖が食べられないの?」
 彼は白い絹のような手に金平糖を出し、それを俺にくれたのです。言われるがままにその金平糖を口に入れれば、ふんわりとした優しい甘さがじんわりと広がっていくのがわかりました。
「これは星の欠片なんだよ。私は幽霊だから、食べたら歯が欠けてしまうんだ」
「……千景さんは神様なんでしょ? 神様でも食べられないの?」
「おやおや、バレてしまったか。確かに私はここの神様だけどね。……甘いものは苦手なんだ」
 彼はそう言葉を零しながら、まるで苦虫を潰したかのような顔をしました。それはまるで馨がピーマンを食べたときのような顔で、ひどくおかしくなってしまったのを覚えています。
 神様にお供えするものといえば、団子や饅頭などの甘いものが多いため、勝手に神様は甘いものが好きなのだとばかり思っていましたが、それはどうやらあまり正しくはなかったようです。
「千景さんはなんで幽霊って言ったの? お供えものの甘いものがいらなかったから?」
 俺が問うた言葉に、彼は愉快そうに笑いながら言いました。
「別に甘いものがいらないからじゃないよ。……少年。嘘っていうのはね、時に人を救ってくれるんだよ」
「嘘が? でもお母さんもお父さんも、先生も嘘はダメって言ってるよ?」
「きっと、もうちょっと大きくなったらわかるよ。……本当のことばかりが、人のことを幸せにしてくれるとは限らないんだ」
とりあえずここで終わり。ありがとうございました。
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【二次創作】ある夏の日、嘘つきな神様に逢いました。
初公開日: 2020年04月23日
最終更新日: 2020年04月23日
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コメント
昨日呟いた、神様の千景さんと幼い綴くんの夏の話です。30分くらいだけ。