ステイルメイト
ダンテ「神曲」
七つの大罪
密室殺人
ミスリード
原罪
ソロモン72柱
新緑のギムナジウム
チェス対決を探偵と犯人との攻防戦と見立てる
チェス盤をひっくり返す
資産家ノース・ナイトリー
名探偵ジャステル・アーロン
聖書
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資産家ノース・ナイトリー主催の夜行列車でのパーティ。
偶然乗り合わせた、名探偵ジャステル・アーロンと助手のシューティ・ダン。
まるで示し合わせたように次々と謎の失踪事件が起きる。
トーキン・グスマン、そして主催者のノース・ナイトリー。
幾多の事件を解決してきたアーロンにとって、この列車内で起きた不可解な出来事は、不謹慎ながらも知的好奇心を刺激するものに他ならない。
英国紙は、アーロンの持つ優れた洞察力を「灰色の脳細胞」と呼び称賛した。
ラウンジの大きなソファに腰かけて、アーロンは手にした煙管をゆっくりと口許へと運ぶ。ゆらゆらと立ち上る煙に、助手のシューティは煙たそうに眉をしかめた。
「先生、吸いすぎは身体の毒ですよ」
片手でぱたぱたと煙を仰ぐようにしながら、向かいの椅子に腰かけたシューティに、アーロンは悪びれた様子もなく、小さく笑って見せた。
「これがないと、頭が冴えないのですよ」
「いわゆる、灰色の脳細胞が働かないということですか」
「……そう呼んでいる人たちもいるようですね」
そして、アーロンはテーブルに置かれたままのチェス盤に目を落とす。数時間前まで対局を行っていたアーロンとナイトリーの盤面がそのままとなっていた。
白く細い指先がキングの駒を持ち上げる。アーロンはそれを手のひらで転がすとゆっくりと瞬きをひとつ、ふたつ。
「これは、犯人との知恵比べなのです。姿の見えない真犯人からの挑戦状だ。しかし、僕は己の名誉にかけてこの謎を解き明かさなければならない」
「はい」
「シューティくん、そちらから何が見えますか」
唐突なアーロンの問いに、シューティは首を傾げた。彼が何を言おうとしているのか理解ができなかったのだ。
アーロンは悪戯っぽい表情で、少し目を細めるとチェス盤を指さして見せる。
「チェス盤ですよ。僕がこちら側から勝負を仕掛ける。シューティくん、あなたはどうしますか。駒を取られないように動くでしょう。でも、それだけじゃない」
「僕も、先生の駒を狙ってチェスの駒を動かします」
「ふふ、そうです。では、勝負に勝つためにはどうしたらいいと思いますか?」
シューティは腕組みをすると「ううん」と唸る。そして、自信なさげな表情でおずおずと切り出した。
「相手の動きを読むことが必要なんじゃないかと……相手の一手先を呼んで、先手を打つ、こうでしょうか」
その答えにアーロンは満足げに頷く。
「その通りです。流石は僕の助手ですね。更に言えば……チェス盤を逆から見ることがとても大切なのです。相手側から見たときに、戦局はどうなっていますか? 自分が優勢だと思っていても、そうとは限らない。気づかぬまま、劣勢に追い込まれていることだってある」
アーロンは真剣な表情で、シューティーを見つめると手にしていたキングの駒を盤上に戻した。ことりと音を立てて、再び盤上に戻されたキングの駒。しかしそれはもうどこへも『逃げられない』。
シューティーはごくりと唾を飲み込んだ。
「推理も同じです。犯人を追い詰めたつもりが、自分が追い込まれている可能性は十分にある。これは謎を解く者の宿命です。それでも僕は謎を解き明かしたい。だから、危険を顧みずに謎に挑むのです」
アーロンという男は、英国紳士然としており優雅な立ち居振る舞いをモットーとしていた。そのスマートな外見からは想像しにくいが、本質はとても人間らしく、感情的な部分も持ち合わせている。
探偵という職業柄、大っぴらに悲しんだり憤るといったことはなかったが、本来感受性が豊かな性格だということを、この年若い助手は十二分に知っていた。
そもそも、探偵稼業は、人間の心、感情の揺れ動きや機微が理解できなければ務まらない。
フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット。誰が、何のために、なぜ犯行に及んだのか。犯罪に手を染めるのも人間である。
必ずそこには感情がある。
「さあ、もう夜も更けてきました。明日も長丁場になるでしょう。シューティーくんは先に休んでいてください。僕はもう少しここで考え事をしてから部屋に戻ります」
「わかりました。でもこの列車内で次々と乗客が行方不明になっているこの状況で、先生をここに残して行くのは少し心配なんですけど……」
ぷうと頬を膨らませる助手に、アーロンは首を横に振って見せる。そして視線をデッキから続く扉へと動かした。
つられてシューティもそちらへと視線を動かす。立ち去ろうとする人影に、シューティは思わず声を上げた。
「どなたですか?」
すりガラス越しに映った人影が、ぴたりと動きを止める。
「盗み聞きなんて趣味が悪いですね。ビル・マックイーンさん」
その言葉に、シューティが驚いたように目を丸くして見せた。なぜわかったのだろう。
音を立てて扉が開きそこから姿を現したのは、やはりアーロンが名を呼んだ人物だった。
「……こんばんは」
「こんばんは、こんな夜更けにどうされました?」
アーロン自身も夜更かしをしていることには変わりないのだが、己のことは棚に上げてそのようなことを口にする。ビル・マックイーンは大柄な身体をびくりと震わせると、視線を彷徨わせた。
「いや、特に深い意味はないんだが……どうも、目が冴えてしまってな。誰かいるかもしれないと、こちらに立ち寄っただけのことだ」
その言葉にアーロンは少しだけ笑うと、椅子に腰かけたままだったシューティに声を掛けた。
「シューティくん、どうやら彼は僕に話したいことがあるようです。先に眠っていてください」
アーロンの意図を組んでシューティは立ち上がる。そして静かに部屋を出ていこうとするその背中にアーロンは一言、付け加えた。
「戸締りを忘れないように。どうやら、この列車には悪魔が乗り込んでいるようですから」
「……わかってますよ、先生。先生こそ、気を付けてくださいね」
そう言うと、シューティはちらりとビルに視線を送る。ビルは驚いたように目を見開くと、ゆっくりと頭を振った。
「俺は、なにも」
「ふふ、ビル・マックイーン教授、彼は大丈夫です。僕にはわかります」
その言葉を聞いたシューティは、少し呆れたようにひょいと肩を竦める。そして一言「おやすみなさい」と告げるとラウンジを出ていった。
列車の規則的な振動音だけが室内に響く。ビルは途方に暮れたまま立ち尽くしていた。
その姿を目にしたアーロンは、先程までシューティが腰かけていた椅子に座るよう促す。
「僕に、話があるのでしょう?」
「いや……そういうわけではないのだが」
「嘘はいけませんね」
そう言いながら、アーロンはチェス盤の上からポーンの駒をひとつ摘み上げる。
「ポーンの駒は前に進むときは一つだけ、それなのに相手の駒に取るときは斜めに動くことが出来ます。それにも関わらず進行方向である正面の駒に手を掛けることは出来ない。そして最奥まで辿り着いたポーンは他の駒に昇格することが出来る。クイーンにでも、ビショップにでも、ナイト、ルークのいずれになることも可能です」
「……なにが言いたい」
「チェスの勝敗は、ポーンの駒をどう扱うかで決まります。私にとって、そしてこの怪事件の犯人にとって、あなたはただのポーンだ。あなたが黒幕ではないことなど、最初から僕にはわかっています」
そう言いながら、アーロンはポーンの駒を盤上へと戻す。自分から向かって最奥。それはビルにから見れば一番手前。追い詰められたような感覚にビルは、思わず視線を泳がせた。
「あなたは何かを隠しています。それが一体なにか僕にはわからない。ただ、あなたはただ偶然ここに居合わせたわけじゃないでしょう。僕は被害者候補の一人なのではないかと考えているのです」
ビルは動揺したように、何度も瞬きをした。そして、震える声で問いかける。
「俺は、何も知らない。そんな自分が、何故この不可解な事件の被害者となりえると言うんだ?」
「あなたはトーキン・グスマンさんと既知の仲なのではないですか?」
「どうしてそう言い切れる」
「ふふ、推理でもなんでもありません。でも、僕にはわかります。話すときの口調、間の取り方、視線の合わせ方、とても初対面とは思えませんでした。なにより、今即座に否定しないことが肯定しているのだと思うのですが……僕は間違っていますか?」
アーロンはじっとビルを見つめた。口調は穏やかだったが、まるで射貫くような視線にビルは身震いをする。
僅かな沈黙の後、観念したようにビルは肩の力を抜いた。深く椅子に座り込み両手を組んで、まるで祈るような姿勢を取った。
「……全てを話すことは出来ない。しかし、俺はおそらく今夜、殺されるだろう」
その台詞に、アーロンは瞠目する。己を落ち着ようと、傍らに置いていた煙管を手に取った。それに火をつけると口に咥える。
そして灰色の煙を燻らすと、アーロンは静かに目を閉じる。
ビルは黙ったまま、身じろぎ一つせずにそこに座っていた。大柄な身体に似合わず、その瞳には不安げな色が揺らめく。
アーロンはゆっくりと瞳を開く。ふうとひとつ息を吐きだす。
「聞き捨てならないですね。今夜、おそらく殺されるとは一体どういうことですか」
ビルは思いつめたような表情を崩すことなく、唇を引き結んだまま視線を落とす。
彼から無理に聞き出すことは難しいのだろうと、アーロンは考える。しかし、自分は探偵という立場でありながらも、決して事件を望んでいるわけではない。少しでも被害を最小限に、そしてすべての謎を白日の下に晒すこと、それが自分の使命でもあると考えていた。
ジャステル・アーロンという男は、冷静かつ沈着な名探偵だ。しかし、その一方で人の心に寄り添い、慰めることのできる人間でもあった。
(僕の、好奇心が人一倍強いということは紛れもない事実ですが、この哀れな男をこのまま見殺しにするのも寝覚めが悪いですしね)
己に言い訳をしながら、アーロンは少しばかり表情を緩めると目の前で神妙な面持ちで佇む男の名を呼んだ。
「ビル・マックイーンさん。僕は、この不可解な事件について謎を解くことが使命だと思っています。しかし、それだけじゃない。罪もない貴方がみすみす命を落とすということも望んではいない」
見え透いた言葉を放ると、アーロンはすまし顔で煙管を咥えた。『罪もない』人間が殺されるかもしれないと怯えるはずもないだろう。アーロンは、ビルの一挙手一投足を見逃さないようにじっと彼を見つめた。
壁に掛けられた時計がカチコチと時を刻んでいる。もうすぐ時計の針は深夜の十二時を回ろうとしていた。
「俺は殺されても仕方のない人間なんだ。罪のない人間だと? はは、お笑い草だ。その罪を清算することなく、のうのうと生きてきた。犯人はわからない、しかし……いや、なんでもない」
アーロンは手に汗を握った。背筋がぞくぞくと震えるのを感じる。これは、彼の告白だ。謎を解くために必要な鍵がきっと隠されている。
「赦されてはいけないんだ。俺は……殺されても仕方のない人間なのだから」
まるで懺悔を聞いているようだ。自分は神に仕える身でもない。人の心の奥深くまで無遠慮に立ち入り、たったひとつの真実を見つける探偵だ。
「なぜ、そう思うのです?」
アーロンは身を乗り出すと、そっと手を伸ばして向かいに座る男の手に触れた。かさついた大きな手、その指先を握ると中指にはペンだこが出来ていた。
「……行方が分からなくなっているトーキン・グスマンのことだが」
「はい、彼は一体どこへ行ったのでしょうね」
努めて冷静にアーロンは疑問を口にする。これはアーロンが得意とする、相手から少しでも多くの情報を引き出すためのテクニックだった。慎重に、しかし大胆に。
彼は話を聞いてもらいたいのだろう。己の罪と、この不可解な事件の真相に迫る話を、アーロンに告げたいのだ。
殺されるかもしれないと口にしてみたものの、生きることを諦めたわけでもないだろう。むしろ、このビル・マックイーンという男は、情けなく生にしがみついて悪足掻きをしているように思えた。
(むしろ、その方が好ましい)
生きることは、美しいことではない。だからこそ人を憎み、罪に手を染める。しかし、それを悔いるのも人間だ。聖人君子などいない。人間らしいその感情にこそ、アーロンは惹かれるのだ。
「……トーキン・グスマンはおそらく生きていないだろう」
ぽつりと呟いたビルの言葉に、アーロンは内心「そうだろう」と思いつつも、驚いたような声を上げてみせる。
「どうして、そう思うのです」
「自分達には言えない過去があるんだ。しかしまだ、それを言うわけにはいかない」
「しかし貴方は、今夜殺されるかもしれないと……そう言いました」
アーロンの言葉に、ビルは苦笑いを浮かべると小さく頷いてみせた。
「確かに、そうだな。自分がもし、あの亡霊に殺されるのだとしたら、それはおそらく最初から決まっていたのだと……そう思うんだ。しかし、もし生かされるのならば、明日の朝、全てを話してもいいだろう。自分の名声と引換えにな。どうだ、名探偵ジャステル・アーロン」
アーロンに負けず劣らず、この男も策士だった。
(殺されるなどとうそぶきながら、死にたいなどとこれっぽっちも思ってはいない)
アーロンは腕組みをすると「ふむん」と呟く。今夜はこれ以上追及しても、進展は難しいだろう。
これはおそらく『復讐劇だ』
このまま犯人の思うようにさせるつもりはない。少なくとも目の前のこの男はシロだろう。被害者となりえる可能性のある人物だ。
それでも、油断は禁物だ。
アーロンは立ち上がると、ビルの隣へとゆっくりと腰をおろした。
「貴方を今夜ひとりにしなければ、おそらく殺されるということもないでしょう。よろしい、僕と遊んでくれませんか?」
「……遊ぶ?」
眼鏡の向こうの瞳が、困惑したようにうろうろと泳いだ。
アーロンはひとりほくそ笑むと、再び彼の手を握り込み少しばかり力を込める。ビルの大柄な身体がびくりと揺れるのが分かった。
「そうですね、チェスでもどうですか? それとも他愛もないお喋りでも構いません。僕の部屋へと招待いたしましょう」
「しかし、それでは……貴方にまで危害が及ぶ可能性も出てくるのではないか」
申し訳なさそうな口調でそう言いながらも、ビルの目には少しばかりの期待の色が浮かんでいるのを、アーロンは見逃さなかった。
「ふふ、僕は絶対に殺されたりはしません、何故なら、僕は探偵ですからね」
「……探偵とて、人間だろう。危機が及ぶのは、我々と同じじゃないのか」
後に『ノックス十戒やヴァン・ダイン二十則と呼ばれる、いわゆる推理小説の決まりごと