資産家ノース・ナイトリー主催の夜行列車でのパーティ。
偶然乗り合わせた、名探偵ジャステル・アーロンと助手のシューティ・ダン。
まるで示し合わせたように次々と謎の失踪事件が起きる。
トーキン・グスマン、そして主催者のノース・ナイトリー。忽然と姿を消した男たち。彼らの身に一体何があったのか。
幾多の事件を解決してきたアーロンにとって、この列車内で起きた不可解な出来事は、不謹慎ながらも知的好奇心を刺激するものに他ならない。
かねてより英国紙は、アーロンの持つ優れた洞察力を「灰色の脳細胞」と呼び称賛している。彼に解けない謎はないのだ。
ラウンジの大きなソファに腰かけて、アーロンは手にした煙管をゆっくりと口許へと運んだ。ゆらゆらと立ち上る煙に、助手のシューティは煙たそうに眉をしかめた。
「先生、吸いすぎは身体の毒ですよ」
片手でぱたぱたと煙を仰ぐようにしながら、向かいの椅子に腰かけたシューティに、アーロンは悪びれた様子もなく、小さく笑って見せた。
「これがないと、頭が冴えないのですよ」
「いわゆる、灰色の脳細胞が働かないということですか」
「……そう呼んでいる人たちもいるようですね」
そして、アーロンはテーブルに置かれたままのチェス盤に目を落とす。数時間前まで対局を行っていたアーロンとナイトリーの盤面がそのままとなっていた。
白く細い指先がキングの駒を持ち上げる。アーロンはそれを手のひらで転がすとゆっくりと瞬きをひとつ、ふたつ。
「これは、犯人との知恵比べなのです。姿の見えない真犯人からの挑戦状だ。しかし、僕は己の名誉にかけてこの謎を解き明かさなければならない」
「はい」
「シューティくん、そちらから何が見えますか」
唐突なアーロンの問いに、シューティは首を傾げた。彼が何を言おうとしているのか理解ができなかったのだ。
アーロンは悪戯っぽい表情で、少し目を細めるとチェス盤を指さして見せる。
「チェス盤ですよ。僕がこちら側から勝負を仕掛ける。シューティくん、あなたはどうしますか。駒を取られないように動くでしょう。でも、それだけじゃない」
「僕も、先生の駒を狙ってチェスの駒を動かします」
「ふふ、そうです。では、勝負に勝つためにはどうしたらいいと思いますか?」
シューティは腕組みをすると「ううん」と唸る。そして、自信なさげな表情でおずおずと切り出した。
「相手の動きを読むことが必要なんじゃないかと……相手の一手先を呼んで、先手を打つ、こうでしょうか」
その答えにアーロンは満足げに頷く。
「その通りです。流石は僕の助手ですね。更に言えば……チェス盤を逆から見ることがとても大切なのです。相手側から見たときに、戦局はどうなっていますか? 自分が優勢だと思っていても、そうとは限らない。気づかぬまま、劣勢に追い込まれていることだってある」
アーロンは真剣な表情で、シューティーを見つめると手にしていたキングの駒を盤上に戻した。ことりと音を立てて、再び盤上に戻されたキングの駒。しかしそれはもうどこへも『逃げられない』。
シューティーはごくりと唾を飲み込んだ。
「推理も同じです。犯人を追い詰めたつもりが、自分が追い込まれている可能性は十分にある。これは謎を解く者の宿命です。それでも僕は謎を解き明かしたい。だから、危険を顧みずに謎に挑むのです」
アーロンという男は、英国紳士然としており優雅な立ち居振る舞いをモットーとしていた。そのスマートな外見からは想像しにくいが、本質はとても人間らしく、感情的な部分も持ち合わせている。
探偵という職業柄、大っぴらに悲しんだり憤るといったことはなかったが、本来感受性が豊かな性格だということを、この年若い助手は十二分に知っていた。
そもそも、探偵稼業は、人間の心、感情の揺れ動きや機微が理解できなければ務まらない。
フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット。誰が、何のために、なぜ犯行に及んだのか。犯罪に手を染めるのも人間である。
必ずそこには感情がある。
「さあ、もう夜も更けてきました。明日も長丁場になるでしょう。シューティーくんは先に休んでいてください。僕はもう少しここで考え事をしてから部屋に戻ります」
「わかりました。でもこの列車内で次々と乗客が行方不明になっているこの状況で、先生をここにおひとり残して行くのは少し心配なんですけど……」
「ひとりではなさそうですよ、シューティくん」
ぷうと頬を膨らませる助手に、アーロンは首を横に振って見せる。そして視線をデッキから続く扉へと動かした。
つられてシューティもそちらへと視線を動かす。立ち去ろうとする人影に、シューティは思わず声を上げた。
「どなたですか?」
すりガラス越しに映った人影が、ぴたりと動きを止める。
「盗み聞きなんて趣味が悪いですね。ビル・マックイーンさん」
その言葉に、シューティが驚いたように目を丸くして見せた。なぜそこにいる人間が何者なのかわかったのだろう。
音を立てて扉が開きそこから姿を現したのは、やはりアーロンが名を呼んだ人物だった。
「……こんばんは」
「こんばんは、こんな夜更けにどうされました?」
アーロン自身も夜更かしをしていることには変わりないのだが、己のことは棚に上げてそのようなことを口にする。ビル・マックイーンは大柄な身体をびくりと震わせると、視線を彷徨わせた。
「いや、特に深い意味はないんだが……どうも、目が冴えてしまってな。誰かいるかもしれないと、こちらに立ち寄っただけのことだ」
その言葉にアーロンは少しだけ笑うと、椅子に腰かけたままだったシューティに声を掛けた。
「シューティくん、どうやら彼は僕に話したいことがあるようです。先に眠っていてください」
アーロンの意図を組んでシューティは立ち上がる。そして静かに部屋を出ていこうとするその背中にアーロンは一言、付け加えた。
「戸締りを忘れないように。どうやら、この列車には悪魔が乗り込んでいるようですから」
「……わかってますよ、先生。先生こそ気を付けてくださいね」
そう言うと、シューティはちらりとビルに視線を送る。ビルは驚いたように目を見開くと、ゆっくりと頭を振った。
「俺は、なにも」
「ふふ、ビル・マックイーン教授のことですか? 彼は大丈夫です。僕にはわかります」
その言葉を聞いたシューティは、少し呆れたようにひょいと肩を竦める。アーロンがシューティの忠告を素直に聞き入れるとは思えなかった。
それに彼が「大丈夫だ」と言うのなら、信用に足りえる理由があるのだろう。
シューティは一言「おやすみなさい」と告げるとラウンジを出ていった。
列車の規則的な振動音だけが室内に響く。
ビルは途方に暮れたまま立ち尽くしていた。
その姿を目にしたアーロンは、先程までシューティが腰かけていた椅子に座るよう促す。
「僕に、話があるのでしょう?」
「いや……そういうわけではないのだが」
「嘘はいけませんね」
そう言いながら、アーロンはチェス盤の上からポーンの駒をひとつ摘み上げる。
「ポーンの駒は前に進むときは一つだけ、それなのに相手の駒に取るときは斜めに動くことが出来ます。それにも関わらず進行方向である正面の駒に手を掛けることは出来ない。そして最奥まで辿り着いたポーンは他の駒に昇格することが出来る。クイーンにでも、ビショップにでも、ナイト、ルークのいずれになることも可能です」
「……なにが言いたい」
「チェスの勝敗は、ポーンの駒をどう扱うかで決まります。私にとって、そしてこの怪事件の犯人にとって、あなたはただのポーンだ。あなたが黒幕ではないことなど、最初から僕にはわかっています」
そう言いながら、アーロンはポーンの駒を盤上へと戻す。自分から向かって最奥。それはビルにから見れば一番手前。追い詰められたような感覚にビルは、思わず視線を泳がせた。
「あなたは何かを隠しています。それが一体なにか僕にはわからない。ただ、あなたはただ偶然ここに居合わせたわけじゃないでしょう。僕は被害者候補の一人なのではないかと考えているのです」
ビルは動揺したように、何度も瞬きをした。そして、震える声で問いかける。
「俺は、何も知らない。そんな自分が、何故この不可解な事件の被害者となると言い切れるんだ?」
「あなたはトーキン・グスマンさんと既知の仲なのではないですか?」
「どうしてそう言い切れる」
「ふふ、推理でもなんでもありません。でも、僕にはわかります。話すときの口調、間の取り方、視線の合わせ方、とても初対面とは思えませんでした。なにより、今即座に否定しないことが肯定しているのだと思うのですが……僕は間違っていますか?」
アーロンはじっとビルを見つめた。口調は穏やかだったが、まるで射貫くような視線にビルは身震いをする。
僅かな沈黙の後、観念したようにビルは肩の力を抜いた。深く椅子に座り込み両手を組んで、まるで祈るような姿勢を取った。
「……全てを話すことは出来ない。しかし、貴方の言うとおりだ。俺はおそらく今夜、殺されるだろう」
その台詞に、アーロンは瞠目する。己を落ち着ようと、傍らに置いていた煙管を手に取った。それに再び火をつけると口に咥える。
そして灰色の煙を燻らすと、アーロンは静かに目を閉じる。
ビルは黙ったまま、身じろぎ一つせずにそこに座っていた。大柄な身体に似合わず、その瞳には不安げな色が揺らめく。
アーロンはゆっくりと瞳を開く。ふうとひとつ息を吐きだす。
「聞き捨てならないですね。今夜、おそらく殺されるとは一体どういうことですか」
ビルは思いつめたような表情を崩すことなく、唇を引き結んだまま視線を落とす。
彼から無理に聞き出すことは難しいのだろうと、アーロンは考える。しかし、自分は探偵という立場でありながらも、決して事件を望んでいるわけではない。少しでも被害を最小限に、そしてすべての謎を白日の下に晒すこと、それが自分の使命でもあると考えていた。
ジャステル・アーロンという男は、冷静かつ沈着な名探偵だ。しかし、その一方で人の心に寄り添い、慰めることのできる人間でもあった。
(僕の、好奇心が人一倍強いということは紛れもない事実ですが、この哀れな男をこのまま見殺しにするのも寝覚めが悪いですしね)
己に言い訳をしながら、アーロンは少しばかり表情を緩めると目の前で神妙な面持ちで佇む男の名を呼んだ。
「ビル・マックイーンさん。僕は、この不可解な事件について謎を解くことが使命だと思っています。しかし、それだけじゃない。罪もない貴方がみすみす命を落とすということも望んではいない」
見え透いた言葉を放ると、アーロンはすまし顔で煙管を咥えた。『罪もない』人間が殺されるかもしれないと怯えるはずもないだろう。アーロンは、ビルの一挙手一投足を見逃さないようにじっと彼を見つめた。
壁に掛けられた時計がカチコチと時を刻んでいる。もうすぐ時計の針は深夜の十二時を回ろうとしていた。
「俺は殺されても仕方のない人間なんだ。罪のない人間だと? はは、お笑い草だ。その罪を清算することなく、のうのうと生きてきた。犯人はわからない、しかし……いや、なんでもない」
アーロンは手に汗を握った。背筋がぞくぞくと震えるのを感じる。これは、彼の告白だ。謎を解くために必要な鍵がきっと隠されている。
「赦されてはいけないんだ。俺は……殺されても仕方のない人間なのだから」
まるで懺悔を聞いているようだ。自分は神に仕える身でもない。人の心の奥深くまで無遠慮に立ち入り、たったひとつの真実を見つける探偵だ。
「なぜ、そう思うのです?」
アーロンは身を乗り出すと、そっと手を伸ばして向かいに座る男の手に触れた。かさついた大きな手、その指先を握ると中指にはペンだこが出来ていた。
「……行方が分からなくなっているトーキン・グスマンのことだが」
「はい、彼は一体どこへ行ったのでしょうね」
努めて冷静にアーロンは疑問を口にする。これはアーロンが得意とする、相手から少しでも多くの情報を引き出すためのテクニックだった。慎重に、しかし大胆に。
彼は話を聞いてもらいたいのだろう。己の罪と、この不可解な事件の真相に迫る話を、アーロンに告げたいのだ。
殺されるかもしれないと口にしてみたものの、生きることを諦めたわけでもないだろう。むしろ、このビル・マックイーンという男は、情けなく生にしがみついて悪足掻きをしているように思えた。
(むしろ、その方が好ましい)
生きることは、美しいことではない。だからこそ人を憎み、罪に手を染める。しかし、それを悔いるのも人間だ。聖人君子などいない。人間らしいその感情にこそ、アーロンは惹かれるのだ。
「……トーキン・グスマンはおそらく生きていないだろう」
ぽつりと呟いたビルの言葉に、アーロンは内心「そうだろう」と思いつつも、驚いたような声を上げてみせる。
「どうして、そう思うのです」
「自分達には言えない過去があるんだ。しかしまだ、それを言うわけにはいかない」
「しかし貴方は、今夜殺されるかもしれないと……そう言いました」
アーロンの言葉に、ビルは苦笑いを浮かべると小さく頷いてみせた。
「確かに、そうだな。自分がもし、あの亡霊に殺されるのだとしたら、それはおそらく最初から決まっていたのだと……そう思うんだ。しかし、もし生かされるのならば、明日の朝、全てを話してもいいだろう。自分の名声と引換えにな。どうだ、名探偵ジャステル・アーロン」
アーロンに負けず劣らず、この男も策士だった。
(殺されるなどとうそぶきながら、死にたいなどとこれっぽっちも思ってはいない)
アーロンは腕組みをすると「ふむん」と呟く。今夜はこれ以上追及しても、進展は難しいだろう。
これはおそらく『復讐劇だ』
このまま犯人の思うようにさせるつもりはない。少なくとも目の前のこの男はシロだろう。被害者となりえる可能性のある人物だ。
それでも、油断は禁物だ。
ビル・マックイーン教授。彼は何を隠している?
大柄な身体を縮めて気弱そうに視線を逸らしたままの途方に暮れる男を、アーロンはじっと見つめた。
アーロンは立ち上がると、ビルの隣へとゆっくりと腰をおろした。
「貴方を今夜ひとりにしなければ、おそらくその予告通りに殺されるということもないでしょう。よろしい、僕と遊んでくれませんか?」
「……遊ぶ?」
眼鏡の向こうの瞳が、困惑したようにうろうろと泳いだ。
アーロンはひとりほくそ笑むと、再び彼の手を握り込み少しばかり力を込める。ビルの大柄な身体がびくりと揺れるのが分かった。
「そうですね、チェスでもどうですか? それとも他愛もないお喋りでも構いません。僕の部屋へと招待いたしましょう」
「しかし、それでは……貴方にまで危害が及ぶ可能性も出てくるのではないか」
申し訳なさそうな口調でそう言いながらも、ビルの目には少しばかりの期待の色が浮かんでいるのを、アーロンは見逃さなかった。
「ふふ、僕は絶対に殺されたりはしません、何故なら、僕は探偵ですからね」
「……探偵とて人間だろう。危機が及ぶのは、我々と同じではないのか」
「確かに僕は、探偵です。特殊な能力があるわけでもない、ただの人間に他ならない」
アーロンはすくっと立ち上がると、ビルに背を向ける。そして悪戯っぽく目を細めると、にいと口端を引き上げた。
「ただし、ここがもしメタフィクションの世界ならば、探偵が殺されるということはありえないのです」
「何を、言っているんだ? 貴方は一体……」
「後に『ノックス十戒』や『ヴァン・ダイン二十則』と呼ばれる、いわゆる推理小説の決まりごとに反するような……ああ、この世界ではまだ知られていないのですね」
呆けたようにアーロンの背中を見つめるビルを振り返ることなく、名探偵と呼ばれる男はまるで歌うように上擦った声で言葉を紡ぐ。
「そう、今このページをめくっている貴方、そう貴方です。もしミステリーのお約束をご存じないのであれば教えて差し上げましょう。犯人は物語の当初に登場していなければならない、探偵方法に超自然能力を用いてはならない、こういった決まりごとをご存知ですか」
そして、アーロンは再びビルへと向き直る。
「不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリーの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出すことであると」
「……これは現実だ。俺は、紛れもない殺意に脅かされているんだ」
「あくまで仮定としてですよ。これが現実ではなく、ミステリー小説ならば、認められないシナリオということです。すなわち……この物語を大衆的で通俗的な、愛と欲望渦巻くメロドラマにしてしまいましょう。それならば、死体も犯人も真実も疑惑も必要ない」
「すまない、俺にはさっぱり貴方が何を言わんとしているのか理解することができない」
アーロンは軽く首を振ると、目にかかるほど長く伸びた前髪を払う。
「退屈で欠伸が出るようなラブロマンスなど、本来僕の得意分野ではありません。僕の望みは謎を解くこと。それに変わりはありません。しかし……貴方が真実を話すことなく、ただ無様に殺されるのを指をくわえて見ているのは望んじゃいない」
「これまた酔狂な……」
アーロンはすいとビルに身体を寄せる。触れるか触れないかぎりぎりまで顔を寄せると囁く。
「貴方の側から、見た世界が知りたい。僕の灰色の脳細胞がそう言っています。チェス盤の向こう側から見た僕はどう見えますか?」
「ジャステル・アーロン……貴方は」
アーロンは、ビルの耳元に唇を寄せて囁いた。
「チェックメイト、もう逃げられませんよ」
その甘い響きに、ビルは身を震わせる。まるで催眠術にでもかけられたかのように、ただ彼の言葉にゆっくりと頷いた。
少し体温の低いアーロンの手が、ビルの頬に触れる。その感触に、男はうっとりと瞼を閉じる。
ほんのりと浮かぶオイルランプの灯かり、寝台にしどけない格好で横になったまま、アーロンがビルの名を呼んだ。
「マックイーンさん、こちらへ」
穏やかな口調で名を呼ばれたビルは、引き寄せられるようにアーロンのもとへと歩み寄る。
「そこに膝をついてください」
屈辱的な姿勢を命じられたにもかかわらず、ビルはかくんとその場に膝を落とす。
「よくできました、マックイーン教授」
アーロンがビルのの顎下に手の甲を当てて、そっと撫でる。
ビルははまるで猫の子のように、うっとりと目を細める。小さく吐息を漏らすと、赤く染まった目許でアーロンを見つめた。
褒めて欲しいとでもいうような仕草にアーロンは満足げに目を細める。
「おねだりですか? そうですね……褒められたいのなら、まずは僕の願いを聞いてくれませんか」
緩慢な動作で頷いたビルは、じっとアーロンの命令を待った。
「マックイーンさん、貴方に口づけてもいいですか」
「……そんなので、いいのか」
少し拍子抜けしたような表情でビルが呟く。アーロンは床に座ったビルの太股を跨ぐように膝をつくと、その肩に手を当てた。
ビルが宙に浮かせたアーロンの腰を掴むと、自分の上に座らせる。不意に触れられて、思わずアーロンは腰を引いた。
「え、あっ、ちょっと」
「その体制だと少し辛いだろう。この方が楽だろう?」
「……しかし、重くないですか」
「重くなどないさ」
その台詞に、アーロンが不服だとばかりに少し鼻白む。
大学教授という立場でありながら、ビル・マックイーンの身体は筋肉質でアーロンは驚きを隠せない。腰に触れた大きな手はがっちりとしている。少し力を込められただけなのに、思うように動くことが出来ない。
アーロンはビルの肩に置いた手に力を込める。ビルの太股に腰を下ろすと、ちょうど正面から顔が向かい合うせいか、妙に気恥ずかしい。
「目を……閉じてもらえますか」
「……ああ」
ビルが瞳を閉じる。気弱そうに歪められた眉が、そして震えるまつげが愛しい。その様子を目にすることでアーロンの緊張が少しだけ和らぐ。
そっと唇を重ね合わせる。かさついたその唇をアーロンはぺろりと舐め上げる。そして舌先でその唇を割るとそのまま歯列をなぞった。
「ん、ん……はあ」
アーロンが彼を煽るように小さく声を上げると、腰を掴んだままの手に力がこめられる。ぐいとそのまま引き寄せられて、身体が密着した。
咥内に入り込んだアーロンの舌を、ビルの肉厚なそれが絡めとる。縦横無尽に暴れまわる舌に、アーロンはうっとりと目を細める。
身体の中心が熱い、ぞくぞくする。こんな感触は知らない。
(今この瞬間も、この不可解な事件は解決などしていないというのに)
探偵としての矜持、事件を解決するという目的、しかしジャステル・アーロンはその職務を放棄しようとしている。
「チェックメイトと言ったな?」
ビルの声が耳に響く。アーロンは真っ赤になった頬で、ゆるりと頷いた。
「この夜はおそらく終わらない。俺が真犯人に殺されるか、貴方が事件を解決するか」
(まだ誰かが殺されたとは限らないというのに)
ビルの大きな手がアーロンの身体を軽々と持ち上げると、今度は寝台の上に仰向けに転がした。
そして噛みつくように再び口づける。
繰り返される口づけに、アーロンは次第に溶かされていく。しかし、彼は上擦った声でアーロンに問いかけた。
「ビル・マックイーン教授。あなたは一体、何を知っているのですか?」
「それは……まだ言えない」
アーロンの白く長い指先が、ビルの瞼に触れる。
まるで聖母のように微笑むと、甘い声でもう一度彼の名を呼んだ。
「マックイーンさん、わかりました。僕は今晩この物語を、あなたとの甘い夜に変えてしまおうとしている。そうこれは、探偵という役職を必要としないラブロマンスです。そして、そもそもこれは僕が仕掛けた罠、そうですね?」
その言葉に、ビルは動揺したように視線を泳がせた。情欲に濡れた瞳が僅かに理性を取り戻す。
アーロンの肩を掴んでいた両手から力が抜ける。
探偵はむき出しになった白い足を誘うような仕草で彼の身体に絡ませるた。
「交換条件です。明日の朝、真実を話してもらえますか」
そう、これは「今夜、殺されるだろう」と穏やかではないことを口にした彼への牽制だ。ビル・マックイーンの身に危険が迫っていることも真実だろう。
しかし、それ以上にアーロンは彼のことを知りたいと思ったのだ。
出会ってからまだわずかな時間しか経っていない、それなのに。
彼の視線にぞくぞくする。濡れた唇に口づけて、生まれたままの姿で抱き合いたいとそう願う。
このような感情は、生まれて初めてだった。アーロンはただ、知的好奇心の赴くままに彼にその身を捧げようとしている。
「……わかった。貴方がそう望むのならば、全てを話そう」
「ありがとうございます」
ビルの手が、アーロンの手に触れる。互い違いに指を絡ませて、シーツに縫い止める。再び深く口づけられて、アーロンの唇から喘ぎ声が漏れた。
「あ、あは……ん、んん」
「……綺麗だ、ジャステル・アーロン。名探偵が俺の下でしどけなく喘いでいる姿はこの世で一番、美しい」
「ああ……ビル・マックイーン教授、あなたもとても魅力的です」
くすぐったそうに肩を竦めながら、その両腕をビルの首に回したアーロンは甘い声で囁いた。
気弱そうな大学教授、彼はそれだけではなかった。獣のように野生を剥き出しにした男は、力強い眼差しでアーロンを見つめている。
先ほどまでアーロンの視線から逃げるようにうろうろと彷徨っていた瞳は、もうどこにもなかった。ただひたすらにまっすぐアーロンを見つめている。灼熱のような高温で、射貫かれてアーロンは身動き一つできない。
身体の奥が熱い、こんな感覚は知らない。
持て余した熱を開放したい、この身を抱いて貫いて欲しいと、彼を欲している。
アーロンの太腿に触れているのは、ビルの欲望だ。熱く滾った肉棒の先端から溢れ出した粘液が、とろとろと零れてアーロンの肌を濡らす。
ビルの手のひらが、アーロンの中心に触れる。アーロンのそれも天を仰ぎ震えていた。
「ん、ああ、それは」
「……失礼」
小さな謝罪とともに、二本の屹立をひとつの手で包み込んだビルは、激しくそれを上下させた。ぬちゅぬちゅと水っぽい音が辺りに響く。アーロンはあまりの快楽に顎を上げる。
大きく反り返った胸に咲いた小さな蕾に触れたのはビルの唇だ。
軽く歯を立てられて、アーロンは一際高い声で鳴いた。
「アアッ、ヒ、どうにか、なって……アアアアアアァ」
快楽で泣き出してしまったアーロンの目尻に、屹立を包み込むのとは反対の手でビルは触れると、その涙を拭う。
口端から零れる唾液を舐め上げると、その耳元で名を呼んだ。
「アーロンさん、アーロンさん……貴方はとても美しい」
その言葉にアーロンはいやいやをするように首を振った。違う、欲しいのはそんな言葉ではない。欲しいのは、ただひとつ。
「……マックイーンさん、僕は、あなたに、アア、あ、待って、そうじゃない」
ビルの手の動きが一層激しくなる。アーロンの腰が寝台から浮き上がる。
「イク、イッてしまう、ア、アアアァァアアアッ」
アーロンは細く高い声を上げると、精を吐き出した。性器の先端から噴き出して、勢いよく自身の腹から胸にかけて白濁が飛び散った。
弛緩しようとする身体を支えながら、ビルは容赦なく手の動きを緩めない。敏感になったペニスを執拗に擦り上げられて、アーロンの声に涙が混じりはじめる。
「……ア、アア、もう、もう無理です、僕は、アアァア、また、出る……ッ」
ビルが息を詰める。握った手に力が込められる。激しく上下していた手に二本の性器を押し付ける。
「……うっ」
ビルが絶頂に達するのと同時に、アーロンは先程とは異なる無色透明の液体を性器から噴き出させた。
「アアア、ア、ア、ア」
びくびくと震えながら断続的に吐き出す。
粘度の薄いそれはまるで小水のようで、アーロンは羞恥のあまりに絶望にも似たような声を絞り出す。
自分は小水を漏らしてしまったのではないか。アーロンはこのまま意識を飛ばしてしまいたいとさえ思った。
「……いやだ、見ないでください、こんなのあんまりだ」
アーロンは両腕を交差させ、己の顔を隠す。
ビルは気だるげな仕草でその腕をそっと外させると、そのままアーロンの頬に手を当てた。
「恥ずかしがることなどない、乱れる貴方はとても魅力的だ」
ほんのりと灯るオレンジ色の光の中、ビルの瞳がとても優し気な色を湛えていることに気付き、アーロンは僅かに安堵する。
「は、は、はは……まさか、漏らしてしまうなんて思いもしませんでした」
途切れ途切れにそう呟くと、ビルはゆっくりと首を左右に振った。
「小便ではない、これは潮だ。射精した後も繰り返し快楽を与えられると、潮を吹くことができるんだ。このような経験は初めてだったか」
「初めてもなにも……そもそも、誰かと身体を重ねること自体、経験がないものですから」
そっと視線を外し、ぽつりとつぶやいたその言葉に、ビルが嬉しそうに微笑むのが分かった。
「それは……光栄だな。名探偵ジャステル・アーロンにセックスの経験がなかったとは、俺も想像していなかった」
「……随分と強気ですね」
少しばかり不機嫌な声でアーロンが返すと、ビルは慌てたように「すまない」と謝罪の言葉を口にする。そしておずおずと、この先の行為に進んでも良いか尋ねた。
「あなたを抱いてもいいだろうか」
「……ふふ、そのつもりでお誘いしたのですよ。無粋なことを問うのですね。でも……そんなところも好ましい」
アーロンはゆっくりと身を起こすと、己の乱れた前髪を払う。そしてビルの頬を両手で包み込むと触れるだけの口づけを落とした。
「ただし、ひとつだけ」
人差し指を立てたアーロンは悪戯っぽく笑って見せる。
「確認させてもらっても宜しいでしょうか」
「……それは、どういうことだ」
ミステリーの本流から逸れたラブロマンスだとするならば、そこには血なまぐさい事件も死体も犯人も必要ない。しかしその代わりに必要なのは何だ?
(まったく僕らしくない)
アーロンはそっとビルの身体に身を寄せる。厚みのある逞しい胸、綺麗に割れた腹に、太い腕。男らしい汗のにおい。
うっとりと目を閉じる。胸に耳をつけると鼓動の音が聞こえる。
「……愛が欲しいのです」
仕掛けたのはアーロンだ。そこに恋愛感情など持ち込むつもりはなかった。しかし、彼に口付けられ、その手で絶頂へと導かれて感じたのは、これ以上ないほどの充足感。
まるで事件の真相へと迫る時に感じる高揚感に似たそれは。
ああ、心臓がうるさい。こんな時でも自分の灰色の脳細胞は『何か』を求めてざわめいている。
「あなたは、僕に愛をくださいますか?」
アーロンはそう囁くと挑発するように目を細めて笑う。謎を全て解かなければ気が済まないその性質の彼は、ベッドの上でも愛を確認しなければ気が済まないのだ。
娼婦のように誘っておきながら、愛のないセックスは嫌だと思う。
ビルが自分に惹かれているという確信はあった。人の心は目を見ればわかる。アーロンはただ機械的に謎を解いているわけではない。無機質にロジックを組み立てるだけでは事件を解決に導くことなど不可能なのだ。
人間の心を暴いて、白日の下に晒す。隠した感情も剥き出しにして、その行為に至った理由を問いただす。それが名探偵、ジャステル・アーロンだ。
アーロンの視線から目を逸らすことなくビルはそれを受け止めた。出会った当初から、うろうろと視線を彷徨わせていた彼にしては酷く珍しいことだった。
「俺は、貴方に惹かれている。初めて会った時から、貴方という人間に……恋をしている」
その言葉にアーロンは目を細めて笑った。その言葉が聞きたかったのである。
陳腐でもいい、知的でもなにもないただのラブロマンスであろうと、