制服の中に籠る熱や湿気が、じんわりと皮膚に汗ばませる。ワイシャツの一番上のボタンに指を引っかけて、中に風を通す人も増えてきた。最近、妙に存在感を増してきた太陽は、休み時間に窓から教室を覗き込もうものなら即座に厚手のカーテンで遮られるようになった。
 初夏。まだ夏の足音が遠いこの季節。それでも夏の花は、蕾の先端に自分の色をつけながら膨らんできているし、制服の中だけでなく、足下の地面からも湿気が昇るようになってきた。ああ、もうすぐで水泳の授業が始まる──。この事実を明るく捉えるか、重たく捉えるか。嫌だという声の方がよく聞く気がするが、それでも一定数嬉しいという声があるのは事実だった。
 夏、夏、夏。他に夏らしいものはなんだろう。
「──あ」
 この時期の食堂には、そこで食事を摂らない生徒もやってくる。理由は、食堂の空気がひんやりとしていて気持ちがいいからだ。冷房もついていない食堂だが、壁の素材ゆえか、初夏くらいの陽気なら室内の空気が温まってしまうこともなく、体感的にも数値的にも涼しい温度で保たれていた。
 今日もエースとデュースと監督生とグリムは、授業が終わると真っ直ぐと食堂へ向かっていた。そして一歩足を踏み入れるや否や、デュースがなにかに気づいたような声を漏らして足を止める。真後ろにいたグリムがデュースにぶつかって鼻を打った。「ふな゛っ!?」
「な、なんで急に止まるんだゾ……って、ああ」
 彼の視線の先を見て、グリムはすべてを察したように怒りの糸を緩めた。エースも同じようにデュースの視線をたど……らなかった。グリムの反応を見て理解したからである。ハイハイ、いつものねと辟易しきった様子で歩を進め、デュースの視線の先にいる人物の名前を呼んだ。
「フローラせんぱーい!」
 白鳥の羽のような短い白髪を揺らして、フローラは顔を向けた。エースたちを目に留めて、ひらひらと手を振る。そして自分を人差し指で指さして、それを彼らへ向ける。エースがグッと親指を立てると、彼女は親指と人差し指で丸をつくって見せてくれた。
「そろそろ自分で誘えるようになったら?」
 エースが腰に手を当てながらデュースを見やる。彼はというと、返す言葉を探すように目を瞑って、手で口元を隠しながら俯いた。手の中からごにょごにょなにか呟いているのが聞こえる。別に頼んでない、とか、好きなわけじゃない、とか。
「(素直になればいいのに)」
 エースはニヤリと口の端を持ち上げつつ、先ほどの辟易とした感情を思い出して、後頭部を掻きながらやるせなさを外へ追い出した。好きじゃないと言うくせに態度が全然そんなことないと面白がるのにも、正直そろそろ飽きてきた。飽きてきた、というよりウンザリしてきた。なんでこんなに女々しいんだ、こいつ。
 各々昼食をトレーの上に置いて、どこかで席を取っているであろう先輩を探す。彼女は唯一の女子生徒であるのもあって、男子ばかりの学園内ではかなり目立つ。ひとたび食堂を見渡せばすぐに見つかった。そして、向こうもこちらを見つけたようで、中腰になって手を振ってくれた。
 三人と一匹がテーブルについてからまず目に入ったものは、食べかけのミートソーススパゲティだった。もちろんこれは先輩のものである。グリムが「先に食べちまってたのか?」と半ばショック気味に言うと、フローラは短い謝罪の言葉を口にしながら手刀を切った。
「ごめんね、ちょっと今日はゆっくりしていられないの」
 なんでも、保健委員の仕事で保健室に行かねばならないらしい。普段から休み時間は委員会の仕事で保健室へ足を運んでいるフローラだったが、早食いと早弁だけは先生から止められているらしく、ゆっくりと食事をしてから向かっていた。だが、今日はどうしても昼休憩もそこそこにしなければならない仕事があるのだろうだ。
 スパゲティはすでに半分ほど食べられていた。グリムくんは相変わらずよく食べるねと軽く笑ってから、フローラは水の入ったコップを仰ぐ。
「なにか急ぐ話でもあるの?」
 フローラの問いに、三人と一匹は首を横に振った。むしろ、声をかけてごめんなさいという気分だ。監督生がその趣旨を伝えると、いいのいいのとフローラは笑い飛ばす。
「それよりもほら、ちゃっちゃと食べちゃいな」
 食堂の壁にかかっている時計を一瞥してから彼女はまたフォークを手にした。それにつられて三人と一匹も食事を始める。急いで食べる彼女につられてか、こころなしかいつもよりもペースが速くなった。
 ふとエースが食事を止めた。なにかを見つけたように、赤色の瞳が動く。向かいに座っていたフローラと監督生、そしてグリムも食事をする手を止めた。三人と一匹の瞳は、小さな羽を必死に動かしながら空中を移動する黒点を追いかけていた。
 ──夏、夏、夏。もっと他の、夏らしいもの。夏の風物詩。あるじゃないか。好きか嫌いかのアンケートを取れば、九割以上は嫌いだと答えそうな存在が。水泳の授業よりも嫌いと言われる割合の高そうなあの虫が。
「デュースくん、動かないで」
 突然フローラが腰を持ち上げて、向かいでご飯を食べていたデュースに右手を伸ばした。
 そして──パチン。
 軽く、それでいて確実に叩いたと言えるような強さで、フローラはデュースの左頬に手の平をぶつけた。
 叩かれた本人は呆然とした表情をしていた。手に持っていたフォークが今にも落ちそうなくらいに傾いている。そしてフォークがお皿の上に落ちて、カシャンと音を立てた。それはデュースの意識を呼び戻すには十分の音量だった。
「はっ!? せ、先輩、どうして急に──」
 頬に触れたままの手をどうするべきかデュースが考えあぐねていると、フローラがゆっくりと彼の頬から手を離した。
 そして手のひらを見て、小さな声で呟いた。
「捕まえた」
 彼女の手の中には、潰れた蚊がいた。血もわずかに付いていて、誰かしらの血を吸った後であることが見て取れた。
 彼女の手に血が付いているということは、当然デュースの頬にも血が付いていて。監督生がサッと二枚分のティッシュをフローラに手渡す。
「ありがとう監督生さん。気が利くね」
 フローラは一枚を自分の手に、そしてもう一枚をデュースの左頬に持って行って、血と蚊の残骸を拭う。
「そういえばもうそんな時期か」
 フローラは窓の外に目を向けて、先週よりも強くなった日差しを見て、眩しそうに目を細めた。
 授業終わりのチャイムが鳴り響く、それは、本日のすべての授業を終了したことも意味していた。
「あー! 終わった終わった!」
 自席でエースが両腕を持ち上げて伸びをする。その横で、グリムも似たような声を出していた。
 監督生が教材を片づけながら問いかける。
「二人はこれから部活?」
 エースは少しだけだるそうに頷いた。デュースは? そう言おうとエースの後ろに座っているデュースに目を向けると、彼は眉をひそめながら左頬を掻いていた。
「……かゆい」
 そうぼやいたデュースの方を、エースが椅子の背凭れに腕を置きながら振り返る。ちょっと手ぇどかしてみ? と言って手をどかせると、そこには赤い腫れものがあった。
「あー、蚊に刺され。昼休みに先輩が叩いてくれたけど、もう吸われてたか。ドンマイ。ムヒなら多分、寮にある……と……」
 徐々に言葉尻がすぼんでいくエース。おそらく最後は「思うよ」と言いたかったのであろうが、その言葉が出ることはなかった。
 代わりに、眉間にシワを寄せながら、訝し気にデュースに問う。
「蚊に食われたのってさ、左頬だけだよね?」
 刹那、ニヤッと悪い笑みを浮かべたエースを、デュースが焦りを滲ませた声で制した。
「う、うるさいッ。僕はもう部活に行くぞ。じゃあな」
 席を立って、荷物を手にして。最後に、真面目な彼は監督生とグリムの方を真正面から見て「また明日な」と言って教室を出て行った。
「ハハーン……やっぱりあいつ、わかりやすいんだゾ」
 監督生が数回頷いた。緩む口元を抑えきれなかった。
【完結です。この後、見直して修正などしたらべったーにあげます。ありがとうございました】
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初公開日: 2020年04月12日
最終更新日: 2020年04月12日
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コメント
短いお話を予定。大体の説明はチャンネルの説明欄を見てください。
t
セベクポリスメン
twst夢。詳しいことはチャンネルの説明欄を見てね。あと「一人なんだから単数形だろ」っていうマジレス…
芦葉
ウェイトレス回(完結済み)
Twitterで話してたウェイトレス回。test夢(一応♠)なので注意。いつでも席を立つし、ゲームの…
芦葉