「疲れたぁ……」
ドロシーの声が部屋に広がる。
今日――というよりもこのところ――は忙しかった。短い間にたくさんの業務が集中してしまい、パンク寸前のところに飛び込んできたのは、クレームのお電話。それを処理するために、他の業務は後回しにしなければならなくなってしまった。
幸いにもそのクレームはなんとか対処できたものの、帰社したドロシーを待ち構えていたのは大量の書類の山。その時点で心が折れなかったことを自分でも褒めてやりたい――ドロシーは後にそう告げている。
とはいえ、それを見ているだけではいつまで経っても解決しない。
景気づけにカフェインを胃に流し込んだドロシーは頬を軽く叩き、書類の群れと対峙することとなった……というのが、帰宅するまでの出来事だ。電車内での記憶はない。気がつけば自宅の最寄り駅に降りていた、というのが現状だ。人間の無意識はなかなかどうして素晴らしいものがある。終電に乗っていたため、降り間違えてしまえば当然途方に暮れることになったに違いない。
なんにせよ、こうして帰ってこれた。明日あさっては休日。平日は平日でこなすことがあるが、休日は休日でしなければならないことがある。平日に仕事をするために休日があるのか、休日まで平日を耐えるのか。ドロシーにはだんだんとわからなくなってきた。
仕事は楽しい。同僚にも恵まれている、と思う。そういう意味ではプライベートはどうなのか。
ドロシーの耳にかすかな音が聞こえてきたのは、そのことを考え始めるとほぼ同時だった。
とてとて、と表現すればいいのか。小さいながらもだんだんと近づいてくる。
「お帰りなさい」
ドアを開けたベアトリスがドロシーを出迎える。
「ベアトぉ……」
渾身の力を振り絞り、ドロシーはベアトリスに抱きつく。
体躯的には大人と子供とに見えてしまうかもしれないが、ふたりともしっかりと成人していて、そして、ふたりは恋人だった。
ドロシーの目の前に用意されたご飯は湯気が立っている。お味噌汁も同様だ。
「いただきます……!」
両手をしっかりとあわせてから、ドロシーは夕食を食べ始めた。
こうして同棲する前からベアトリスの料理の腕前はドロシーからしてみれば相当なものがあったが、この所富みに上手くなっているように思う。
「うまぁい」
焼き魚も塩加減が絶妙で、あっという間にお茶碗の底がドロシーに見えた。
「おかわりいりますか?」
ベアトリスの問いにドロシーはお茶碗を差し出す。
同棲している年上の女性の所作に笑顔を浮かべながら、ベアトリスはお茶碗を受け取る。先ほどよりも少なめによそわれたご飯は一〇分と経たずに姿を消していた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
残業が多いドロシーはどうしても帰りが不規則となってしまう。昨日はすぐに帰れたからといって、今日もそうだとは限らない。もちろん、どれぐらいの帰宅時間になるかをベアトリスに逐次伝えているが、なかなか一緒に食事を摂る機会はない。
「今週もお疲れ様でした、ドロシーさん」
エプロンを脱いだベアトリスがドロシーの隣に座る。
「ありがとうベアト」
それまで着ていたスーツを脱ぎ、寝間着に着替えたドロシーはソファの上でようやくひと息つけたところだった。あとは入浴をして、寝てしまえばあっという間に明日になってしまうだろう。
ドロシーはベアトリスの頭を撫でる。自分よりも身長はだいぶ低い。
「明日はどうしますか?」
「たまっている家事をなんとかしないとなぁ」
「そうですねぇ」
掃除や洗濯、買い物にも行く必要がある。そのためには朝早くから行動したい。そして、早起きするためには、早寝すべきだとドロシーはわかっている。わかってはいるが、できるとは限らない。
「ベアトはどう? 大学は?」
「もう、ドロシーさんったら」
ベアトリスはドロシーの顔を見上げる。
「入学したばかりならともかく、もう二年も通っているんですから」
軽く頬を膨らませつつ、ドロシーに告げる。
「いや、それでもさ。一応、聞いておきたくて」
ドロシーは手にしているビール―ノンアルコールではあるが―を口に含む。
「大丈夫ですよ。特に問題ありません」
「それはよかった」
ドロシーの手が再びベアトリスに伸びる。
「でも、何かあったらすぐに伝えてくれよ?」
「はい」
ベアトリスは身体をドロシーに預ける。心地のよい重みがドロシーに伝わってくる。
そのことを伝えた際に、そんなことありませんと恥ずかしがりながらも否定したベアトリスの様子は今でも即座に思い出せる。とてもかわいかった。もちろん、その時以外はそうではなかったなんて言うことはない。ベアトリスは素敵で、かわいくて、守ってあげたくなるような存在だ。