◇ ◇ ◇
十月の一週目、つまりは下半期の初日。中途採用で新たに営業に人が増えることになっていた。先月からその話は聞いていたものの、正直上半期の中間決算のための領収書や請求書のまとめやら、駆け込みの営業活動やらで正直どんな人が来るのかという情報を詳しく聞く余裕もなかった。とりあえず、八時の朝礼で件の中途で入社する社員の紹介があるらしいということと、自分と同年代の女性だということだけ聞いている。せっかくなら歳も近いし仲良くできればいい、が。まあ無理だろう。どうせ自分なんて陰気だしハゲ課長にどやされてばかりだし、新しく来る中途採用の人にも鼻で笑われてしまうのだろう。どうせ俺は俺は俺は。
ノートパソコンのキイを叩く音が止まるくらいにネガティブ思考の海に落ちていた独歩だったが、朝礼の鐘が鳴り始めると、パソコンを閉じてのろのろと立ち上がった。どうせ仲良く慣れやしないだろうが、どんな人が来るのかは気になる。朝礼のチャイムが鳴り止むや否や、ハゲ課長もとい課長がグレーのスーツの女性を連れてフロアにやってきた。
(な……んで、ここに彼女が……)
その女性に独歩は見覚えがあった。それは大学時代、密かに想いを寄せていた同じ学科の彼女その人だった。
嘘、だろ。いや本当か? もはやハゲ課長が彼女を紹介する文章を何やら喋っているようだが全く耳に入らない。独歩は彼女を見つめては逸らしてを繰り返した。明るい茶色だったロングヘアが落ち着いた色になっていても明らかに彼女だと分かった。
「本日から入社並びに営業課配属になりました、──です。皆さんよろしくお願いします」
朗々と喋るその声はぼやけることなくはっきりと独歩の耳に飛び込んできて、鼓膜と心臓をびりびりと震えさすようだった。
どうしよう、彼女は俺に気付いていないようだ。声をかけるか? いや、声をかけるとしても何て。そもそも卒業から何年経っていると思ってるんだ。そうだ、俺のことなんて忘れてる。かもしれない。とりあえず、ここは初めましてのような雰囲気で──。
「あれ? 観音坂くん? だよね!?」
「へ……? あっ、ひゃ、はゃい!?」
思わず情けない声を上げてしまった。いつの間にかフロアにいる全員の視線が独歩に集まっている。逸らしていた視線を彼女に合わせると、きらきらと輝いた瞳が独歩の心拍数をさらに上げる。
「なんだ、君たち知り合いなの? そう言えば観音坂くんと大学が一緒だったような」
「はい、彼とは大学時代同じ学科で、研究室が隣で」
「そうか。じゃあ、観音坂くん。彼女を見てやってくれ」
「へっ? 研修の担当は僕じゃなくて主任のはずじゃ……」
「何言ってるんだね、よく知ってる人の方が何かとやりやすいだろう」
何言ってんだこのハゲは。思いつきで方針をころころ変えて振り回されるのは末端のこっちなんだぞ。それも知らずよくもそんなてきとうなことを。だいたい俺が今抱えてる仕事量だって何時間も残業してやっとこなせるっていうのに、さらに彼女の研修を見なきゃいけないなんて。いや別に彼女が嫌なわけじゃない。それは絶対にない。
ぐるぐるとハゲ課長に言いたいことは募って止まないが、抗議したってどうせ無駄なのだ。独歩は横に振りかけた首を、のろのろと縦に揺らした。
「はあ……分かりました」
◇ ◇ ◇
「ただいま……」
玄関を開けるとふわり、と一二三の作る料理の匂いが独歩の鼻腔をついた。その匂いにつられるように自室ではなく、真っ直ぐリビングに向かい、ソファに倒れ込む。今日はこのまま動きたくない。
「独歩ちんおけ〜り〜! って……どしたん? 今日帰りはえーのにしんどそうじゃね?」
「ああ……俺がやるはずだった仕事を他の人の担当にしてもらえて……」
「へえ〜、ラッキーじゃん! めずらしーこともあんだなあ」
「ああ……」
「ん? じゃなんで独歩死んでんの?」
「代わりに今日から中途で入った人の……研修を俺が見ることになって」
「そんで、そんなくたくたになんの? へろへろになるくらいやべー人が来た感じー?」
「向こうがやばいというよりは俺がやばい……」
「んえ〜? なんかよくわかんねーけどぉ、もうすぐ飯だかんなー?」
思い出すだけで顔が熱くなる。独歩はクッションに鼻先を埋めた。やばかった。乏しい語彙しか出てこないが、今日一日本当にやばかった。学生時代憧れていた子と一日一緒に外回りに行ったり、自分が仕事を教えたりするなんて。もう一生分の彼女との会話を一日でしてしまったのではないかと思うくらいだ。本当にこれは現実なのだろうか? もしかして全部夢なんてこと、ないよな。
またペシミズムの沼に落ちていくかと思ったその時。スマートフォンの軽快な電子音がメッセージの受信を告げた。慌てて半身を起こし、スーツのジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。通知欄の一番上には彼女の名前が表示されていて、それを見るだけで頬が緩む。
(連絡先まで交換してしまった……)
大学時代もメッセージアプリの学科のグループには入っていたので、そこから彼女の連絡先を登録することだってできた。けれど、昔の自分はそれすらもできなかったのだ。
『今日はどうもありがとう! 明日からもよろしくお願いします!』
丁寧な文面だけでなく、にっこりと絵文字も添えられていて、独歩の脳内で彼女の声によって再生された。明日も、彼女に会えるのだ。
「おい、独歩ぉ、いつまでそこで寝てんだよ〜! 飯だぞ〜……んぉ? 何見てんの?」
「うわっ」
「おい、女の子の名前見えたぞ〜? なに、独歩、好きな子とメッセしてんの? ……って、おいおい、マジかよ! 赤くなんなって〜! 独歩ちんまじかわいー!」
学生の頃から変わらない一二三のからかい方に、独歩はむくれながらもジャケットを脱いだ。
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
大学四年生の十二月二十四日。日付だけ見れば心が浮つきそうなものだが、世間の賑やかさを避けるように、独歩は薄寒い研究室で一人ノートパソコンを睨んでいた。なんでわざわざ今日この時間、こんな場所で卒論なんて書いているのか。一緒に過ごす相手がいない、年明け直ぐに提出の卒論の進捗がやばい、それ以外にも理由はあった。
密かに気になっている同じ学科の女の子が、今、隣の研究室にいるのだ。五限の授業のあと、彼女が友人に「研究室で卒論をやる」と言っていたのを偶然耳にしたのが一時間ほど前。ノートパソコンに下心を携えて独歩は自分の研究室にやってきたのだった。いつもは教授か学生の誰かしらがいるこの部屋は、今日に限って誰もいなかった。それは隣も同じようで、この一時間の間、話し声は聞こえてこなかった。
正直話した回数はそこまで多くないし、大体が授業で必要になった時くらいだ。お互い顔も名前も知ってるし、教室や研究棟で会ったら軽く挨拶を交わす程度。それ以上でもそれ以下でもないなんでもない。一番近い距離でいられるのが、この隣の研究室だなんて。壁を挟んだ状態でもいい、これが現状の自分の精一杯だった。こんな不毛なこと、いつまで続けるのだろうか。
(何やってんだ俺……)
さっきから何度も鳴っている腹の虫も、集中力もそろそろ限界だった。スーパーでケーキでも買って帰ろう。いや、今からでも誰かと飲むのもいいかもしれない。淡い期待を抱いて携帯の画面をつけると、通知が一件。幼なじみの一二三からだった。
『おいどっぽ〜! 今日の夜暇〜? 俺っち今日一部上がりだからその後飲まね?』
冷やかしかと思ったら違った。今頃こいつは何人もの女性に囲まれて頑張っているのだろう。少し羨ましくないと言ったら嘘になるが、一二三がどんな思いでホストの仕事に向き合っているか知っているので、冷やかし返すのはやめた。
『分かった。俺ん家でいいか?』
『ケーキと酒持参な』
『コンビニのケーキでもいいや』
一二三が仕事を終える頃にはケーキ屋なんて開いてないことに気づき、付け足した。どうせ見るのは日を跨ぐ頃だろう。
その時、隣の研究室のドアが開いて、ばたんと閉まる音がした。彼女もちょうど帰るのだろうか。独歩は息を呑んで、研究室のドアの小さな窓の向こうを見ようか見まいかと、視線をちらちら揺らした。彼女が廊下を通り過ぎるのは一瞬、かと思われた。
「すみませーん」
もう一度ドアが開いて、ばたんと閉まる音がした。
「あ、観音坂くんだけ?」
「あ、ああ。そうだけど」
「急にごめんね、パソコンの充電器ってない? 線切れて使えなくなっちゃって」
「ちょ……ちょっと待って」
床に置いていたリュックの中を覗き込む。あった。ちゃんとあった。渡せ。これを渡すだけ。それでいい。コードを握りしめて努めて平静な表情を作る。ちらりと視界の隙間の彼女を見ると、「おじゃましまーす」とこちらへ寄ってくるのが分かった。
「あ、他の研究室って初めて入るかも」
「どこの研究室もそんな雰囲気変わらないと思うけど……」
「そう? たまに変なもの置いてあったりするじゃん」
「変なもの」
待て待て、うちの研究室、変なものなんてないよな。研究室のメンバーは野郎ばかりで、家に帰る余裕がない、なんて時は研究室に泊まっていくこともざらにあるので、誰かの服や私物が置いてあったりする。要するに汚いし誰のものか分からないものも部屋の一角に溜まっていたりする。そういえば前に同期がふざけて持ってきたシリコン製のアレはどこに──慌てて当たりを見回したがそれらしき物も、そのパッケージも見当たらなかった。危ねえ。その時、「えっ」という悲鳴が聞こえた。おい、まさか嘘だろ。
「うそっ、ゲームなんて置いてんの!?」
「ああ……そっちか……」
「ん? どっち?」
「いや、なんでもない……これは卒業してった先輩が置いてったやつで」
「へえ! だからかあ、時々やけに盛り上がってんな〜って思ってたんだよね」
そう言う彼女の瞳はきらきらと輝いていて。「ゲームをしたい」という心の台詞が聞こえてきそうだった。どうする、独歩、ここで誘うか誘わないか。
「……よかったら、やる? ゲーム」
「えっいいの? やる! やりたい!」
簡単に釣れてしまった。なんて与しやすいんだ。調子に乗った俺はここで簡単に首を縦に降らなかった。
「ただし、ただでやらせるわけにはいかない」
「へ……? な、なんで」
「ここに誰かが置いていったワインがあります」
「あ! ちょ、ちょっと待ってて!」
慌てて部屋を飛び出て足音が遠ざかったと思ったら、再び近づいてきてドアが開いた。手に酒缶とお菓子の袋と、……何だそれは──生ハムの原木か──を抱えて彼女が再登場した。
「これでどうだ」
「なんで生ハム原木があるんだ……?」
「教授がイタリア行った時に向こうから送ってきて……」
「じゃあやるか、ゲーム」
「やった!」
先に彼女にコントローラーを選んでもらって、ゲームを選択する。何年も前に出た定番の格闘ゲームだ。
というか、隣にあの子がいて、俺と会話して、しかも一緒にゲームをして。これは夢なのか。クリスマスだからプレゼントでこんな夢を見させてくれているのだろうか。サンタクロースなんてもう信じちゃいないが、今だけ都合よく解釈していたい。
「観音坂くん強すぎたー!」
「そっちこそどんどん上手くなってくから……」
「だって勝ちたいんだもん」
どうやら彼女は負けず嫌いな性分らしい。何度負けても懲りずに「もう一回!」なんてこちらを見つめてくるので、それを断れるはずもなく。ステージを変え、キャラクターを変え、ハンデを加え、ようやく彼女が独歩の操作キャラクターを三体倒せるようになる頃にはもうすっかり夜も更けていて、ワインも二人ですっかり空けてしまった。
「あ〜、久しぶりにこんなにゲームした。観音坂ありがとうね」
ふにゃりと笑う彼女の顔は、アルコールのせいか赤く火照り、黒い瞳は潤みを帯びて、その瞳に見つめられるだけでのぼせてしまいそうになる。それにしてもさすがに飲ませすぎたか? いや、独歩が無理やり飲ませたのではなく、彼女自身がかなりのペースで飲んでいたのだが。独歩が心配している間にも、彼女は眠そうにあくびを一つ噛み殺した。
「ふあ、また遊ぼうね」
「あ、ちょっ……寝るなよ……」
◇ ◇ ◇