ドサリ、と投げ渡されたそれを見て岡田以蔵は目を見開いた。目を見開いたままそれを投げやった相手を見遣る。
自分よりも二回り程小さな背丈の少女の姿が、こちらを見て笑っていた。身の丈程の瓢箪に大判の朱漆の杯、着崩すと言うよりも、もはやはだけさせたと言った方が早いであろう京紫の着物。華奢で線の細い少女の身体には似つかわしくない、額から伸びた二本の紅い角が天井からの光を受けて艶めかしく輝いている。相手のことを、以蔵はよく知っていた。酒の席を共にすることもあったし、何より同じアサシンクラス、日ノ本生まれだったからだ。
「…ふふ、こわあい顔。堪忍しとくれやす。うち、『お届けもの』しに来ただけやさかい」
ころころと鈴が転がるような調子で、甘い声が笑う。普段の以蔵であれば、相手―――酒呑童子の、くすぐるように蕩かしてくる声音に身を固くしていたかもしれない。が、自分に放り投げられた『お届けもの』のせいでそのように身を固くなどはしていられなかった。
白いハット帽、――顔は、それに隠れていて今はまだ確認することが出来ない。普段であれば名前の由来であったか(正確には違ったかもしれないが、今はどうでもいい)馬の鬣のようにしっとりとした黒髪は、今は床に放り出されてそそけている。トレードマークであった白い洋装は、泥と血で汚れていた。いつも彼に付き従っている口煩い女の姿も、今は見当たらない。―――これらの状況を鑑みて、以蔵が導き出した答えは『酒呑童子が彼を手酷く扱った』であった。
憎い相手だ。それこそ、(マスターなり本人なりからの)許可が降りれば即座にでも肩から袈裟斬りにしてやりたい程には。だが、それをするのはあくまでも自分であって、他のものでは無い。酷く、腹の奥が重たいような、それでいて熱い感覚に以蔵は顔を顰めながら酒呑童子を睨めつけた。
「どないしはったん? そないにこわあい顔されはって…うち、旦那はんに頼まれて来ただけやさかい。睨まれても困るわぁ」
「そいたらマスターがわしを呼びに来るじゃろ。あいたあそういうやつじゃ」
自分でも思っているより低い声であった。酒呑童子の言葉を斬り付けるかのように返事をする。そうだ、あのマスターであればこのような状態のサーヴァントをそのままにしてこちらに寄越すような真似は決してしない。このカルデアに顕現してからほんの1、2年程の付き合いではあったがそれくらいのことは理解出来ているつもりだった。だからこそ、この状況がおかしいと理解出来た。何故マスターが来ず、酒呑童子がお届け物――今目の前に転がっている男、坂本龍馬のことだ―――をしに来たのか。
余計なことを考える前に、―――否、余計な事を考えるのは苦手だ。以蔵は昔からそうだった―刀に手が伸びていた。仕方がない。仕方がないのだ。人斬りとして生きた男は、こうすることでしか物事を自分の納得いく形で解決することが出来なかった。チャキ、と鯉口を切る音が小さく鳴る。ゆぅるりと小首を傾げている酒呑童子は気付いているのかいないのか、朱塗りの盃に乗せた果物のひとつを摘んで口に運んでいた。好きな時に、好きなことを好きなだけ。そんな言葉を掲げ、鬼として生きる酒呑童子には人の道理など通じない。だからこそ、以蔵は彼女に対して身体を固くしていたのかもしれない。
「なぁに、こないなとこでやり合おうなんて思うてはるの?」
ころころと鈴が鳴るような甘い声が訊ねてくる。甘さの中に言い表しようのない圧のようなものが混じっているのは、気の所為では無いのだろう。だからと言って刀へ伸ばした手を引っ込められる程、以蔵は賢くはなかった。返事の代わりにすらりと刀を鞘から抜く。満月のような瞳がく、と三日月に歪んだ。
以蔵の殺気立った様子に酒呑童子は慌てるような素振りも見せず、大判の盃の縁を撫ぜるように線の細い指先を滑らせて遊んでいる。今にも斬りかかってこようとしている相手への態度としては、あまりにも無用心すぎる上に酷く挑発的だ。
「いややわ。うち、ほんまに旦那はんに言われてお届けものしに来ただけやったのに。こわいこわい」
酒呑童子がそう言い終わるか否か、目の前にあった以蔵の姿が消えた。ガキン、という重い金属音の後にギチギチギチ、とそれらが擦れ合う音が響く。
「まだ言い終わってへんのに…いけず。土佐の生まれの人はみいんなそうなん?」
「……………」
「でも、あんたはんのお連れさんはせっかちでもなさそやし…土佐の生まれと言うよりかはあんたはんの気性のせいやろか」
黙れ、とでも言いたげに酒呑童子の刃を以蔵が弾いた。弾かれればある程度体勢を崩すはずなのだが、流石は鬼と言うべきなのか。特によろけることも無く酒呑童子はその場に立っていた。
やりづらい、と以蔵は内心呟く。人間であれば――或いは人間の素振りに近い動作をする相手――どこを崩せば良いだとか、攻めいる場所は分かるのだが如何せん相手は鬼だ。詳しい話は全く分からぬ相手ではあるが、京の山の総大将であったとだけは聞いていた。それだけで、何となくではあるが相手の実力はかなりのものだと把握はしていたが。剣の太刀筋が人間のそれとは違うのは、鬼として獲物を奮ってきた名残であろうか。それがどうにもやりづらさを感じさせていた。
………とは言え、とは言え、だ。人の形をとっている以上、斬れない相手ではない。急所だって概ね同じのはずだ。迷うのであれば首を落としてしまえばいい。それが一番確実だ。大抵の生き物は首を落とせば死ぬのだし。そんなことをわずかな時間の中で考えながら斬り込む。何を言われても、答えるつもりはなかった。
「…………ぅ、」
不意に背後から小さな呻き声が聞こえてきた。その掠れた小さな声に、つい反応して以蔵は後ろを振り返ってしまった。ああだって、こんなに弱々しい坂本龍馬の声を岡田以蔵は知らなかったのだ。幼い頃の泣きみそな子供の時の声とは違う、大人になってからの弱々しい声なんて。
「面倒やさかい、まとめて蕩かしたろか」
凛とした鈴のような声が、再び以蔵を振り向かせた。まずい、と思ったがもう遅い。朱塗りの盃から溢れる酒が辺りに満ちる。いくら酒精に強い土佐の者でもこれだけのものを浴びせられれば――ましてや宝具だ。簡単に防げるものでは無い―思考がおぼつかなくなるのも道理であろう。噎せ返るような、甘く、濃い酒の匂いに全てが解けていく。とろり、とろりと蕩かされる感覚に恐怖を感じないのはこの香りのせいだろうか。
「…ふふ、爪先からゆっくり、ゆうっくり……」
解ける、溶ける、とける。
龍馬、ととけた頭の中で以蔵は思った。せめてあいつだけでも逃がしてやらなければ(なぜこう思ったのかは、よく分からない)。再びふりむいた以蔵の視界には身体半分ほどが酒に浸かった龍馬の姿があった。そんなに離れてはいないはずだと言うのになぜだか酷く遠くに見えた。大きく腕を伸ばして、その身体に触れようとする。
「…嗚呼、骨の髄まで うちのものや」
抱き上げようとしたその時、聞こえてきたのは楽しそうな鬼の、甘く蕩けた声だった。
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