操作ボタンを押して洗剤を入れれば、洗濯機はご機嫌なメロディを流しながら水を勢いよく溜めていった。
「そういえば、麗さん、昨日、演奏を聴いてほしいって言ってなかった?」
「言いました」
 色んな驚きによって音が流されていってしまっていたが、不協和音のメロディを途端に思い出す。指がむずむずとして、ヴァイオリンに手を掛けた。早朝に演奏をして良いものか悩ましいところだが、都築はソファで伸びをしながら麗の演奏を待っているようだった。
「体調も良さそうだし、どうぞ」
「その約束も覚えているんですね」
「もちろん」
 説明は不要だろう。麗は都築のご近所さんたちへ心の中で非礼を詫びながら、調弦を行う。麗は頷き、聴覚の状態も良いことを確認した。そうして頭の中で思い描く、チェロのリズム、ヴィオラ、第二ヴァイオリンの音、それに乗せていく第一ヴァイオリンの糸を張り詰めるような不安定な音。重なっているのに交わらない。交わってはいけないのだ。レッスンでもここまではよかった。各々がよく知らない他人だからこその交わらなさがあったのだと思う。心をざわつかせるような二十二小節を超えて、軽やかな旋律が現れる。トンネルを抜けたら雨あがりの空が見えたような気持ちになる旋律に、麗自身も少なからず心が躍るのだ。徐々に増える第二ヴァイオリンとヴィオラとの掛け合い。頭の中で紡がれる音は理想的かつ正確なものであるが、実際に合わせると……思い出して音が曇るのがわかった。都築が不思議そうに首を傾げたから、麗は苦笑して持ち直す。繊細に、けれど優雅に。繰り返されるメロディに運指が滑らかになる。約十分程度の第一楽章を弾き終えて、麗は「ありがとうございました」と頭を下げた。
「モーツァルトの "delle dissonanze" だね」
「はい」
「それを学校の課題でやっているの?」
 都築には詳しく話していなかったが「この前、夏来さんから聞いたんだ」と困ったように微笑むから、そうでしたか、と頷くほかなかった。昨晩あれだけ感情を爆発させてしまったのだから、何も言い訳はできないだろう。
「弦楽四重奏の課題です。最も、オリエンテーションの意味合いが強いのですが」
「けれど、そこにも評価が下るというわけだ」
「はい。多少は」
 ふうん、と都築は何か考え込むように自身の爪先を見つめた。窓から差し込む明かりは穏やかな日差しに変わり、日の出の短さをまじまじと感じた。そうか、普段この時間は防音室に籠っているから気づかなかったのか。
「麗さん単体が良いだけじゃダメなんだよね。合奏の難しいところだ」
「はい」
「麗さんは僕と歌う時、音を重ねる時、何を考えているかな?」
「……何って」
 都築のブレスを考えるか? いやそれも無意識だ。癖となってしまっている思考に、麗は言語を手繰り寄せるのに必死になる。けれどどれもしっくりする言葉が出てこない。それは、麗の音に都築が合わせてくれているのではないのだろうか。本当に、そうなのか? 自信がなくなってくる。都築の顔を見ると、穏やかな目元は朝陽を浴びてきらきらしていた。新しい音を見つけた時のように。
「あまり深くは考えていないと思う。今は特に。でも最初の頃は? きっと僕が何者か、麗さんにはわからなかったんじゃないかな。僕も、最初の頃は麗さんがどんな音をどれだけ出してくれるのかわからなかった。きっと麗さんが僕の音を聞く姿勢と僕が麗さんの音を聞く姿勢は全く違っていたと思わないかい?」
「最初の、頃……」
「警戒心が強かったもんねえ、麗さん」
 ふふふ、と都築が笑って、立ち上がる。麗の後ろに位置していたピアノに手を伸ばし、蓋をあければぽろぽろと音が零れ落ちるように旋律を奏でていた。不協和音のフレーズだ。安心感を度々与えるような印象的なフレーズはピアノによってより軽やかに変化する。
「麗さんのプロ意識を僕は素晴らしいと思う。それは、今後の学生生活において、延いては音楽家人生において必要不可欠なものだよ。だから、妥協しなくていい。一緒に合奏をやるメンバーにも、その意思を隠す必要なんてない。それでも何かにつけ演奏のレベルが上がらないのであれば、それはその人の限界だと思っていい」
 
お付き合いありがとうございました。
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初公開日: 2020年04月04日
最終更新日: 2020年04月04日
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さっきの続きです。