敵の脇差に大きく切り裂かれた腹からは、思うように動かない腕でなんとか施した応急処置も虚しく、どくどくと鮮血を流し続けている。怪我は腹敵の脇差に大きく切り裂かれた腹からは、思うように動かない腕でなんとか施した応急処置も虚しく、どくどくと鮮血を流し続けている。怪我は腹だけではなくて、戦闘中に大太刀に吹き飛ばされて肋骨をやられていて呼吸すらままならないし、崖から滑落したときに打ち所が悪かったのか、左脚も変な方向に曲がっている。
投げ出された身体にはもう指の一本を動かす体力すらもなくて、全身が痛いはずなのだが、その感覚さえも既に麻痺してしまっている。乱戦の最中に鞘を投げ捨てた己自身たる刀には罅が深く刻まれて、もう握ることもできずに手元に捨て置かれている。見上げた空だけがやけに青くて、小鳥が囀る声は平和そのもの。気持ちの良い温かな日差しの中で揺れる緑と空の青を眺めながら、変えてはならぬ歴史は無事に守られたのだと、与えられた任務は達成されたのだと、ほう、と安堵した。
おそらくは、このままこうしていれば僕は間もなく折れてしまうのだろう。折れた「燭台切光忠」は分霊を失えばただの名も無き刀だったものに成り果てて、この地に埋まって消えていくだろう。そう思えば悲しくないわけではないが、戦に斃れるのは刀の倣い、自らの使命を果たし終えて力尽きるならそれはそう悪くないとも思えた。
ああ、けれども、一つ思い残したことがあるとするならば。
「……は、せべ……く……」
この出陣部隊の隊長だった、彼のことだ。
乱戦に陥っている間に時間感覚を失ってしまったが、隊の[[rb:殿 > しんがり]]として時間稼ぎをするには恐らく十分な時間が経ったはずだ。彼を含めた五振りは皆、今頃は本丸に着いているだろうか。もしかしたらもう手入れを受けているかもしれない。彼らだって重傷相当の傷だったのだ。誰ひとりとして折れることなく、本丸に辿り着けていればいいのだが、残念ながらそれを確かめる術を僕は持たない。
彼が生きているのだと知れたら、遅かれ早かれ訪れる僕の最期だって、きっと怖くないだろう。僕は君を守れたという誇りを胸に、消えてゆけるのに。怖いんだ、一度は迎えた終わりを知っているのに、否、知っているから、かもしれない。怖いから、君が生きていると知りたかった……信じたかった。
ミシリ、手元の刀が立てた嫌な音は、鳥の声と木末のさんざめく声ばかりの中では僕の耳にもハッキリ届いた。青い空を悠々と流れる白い雲を目で追いながら、肌に感じる暖かい風の心地よさに目を伏せる。ああ、気持ちいい、眠たくなってしまう。
ふわふわと浮ついた意識の中、燭台切、と遠くから僕の号を呼ぶ声を聞いた気がした。誰だと問い返すことをせずとも、僕はそれが生還を願った彼のものだと知っている。そしてそれが、聞こえるはずがないということも。
彼自身もひどい傷を負いながら、歩くことすらままならない短刀のひと振りを背負い、ひと振りの肩を支えて、長谷部くんは本丸へと帰還したはずなのだ。部隊で唯一軽傷で、もとの生存値もそう低くない僕が彼らが帰還ゲートを潜るまでの時間稼ぎをして、本丸全体の戦力を確実に最大限保持する選択を僕らは選んだ。それなのに長谷部くんがこんな場所で僕を呼んでいるなんて、そんな筈がないのに。
最初は、幻聴なのではないかと疑った。あれは訪れる終わりを恐れたばかりに作り出した僕の幻で、まがい物の長谷部くんの声なのだろう、と。けれど、それでもよかった。そんなの格好悪いかもしれないけど、ひとりで折れるなんて、本当は怖くて仕方がないんだ。長谷部くんが——それがたとえ幻でも——、僕の[[rb:号 > 名]]を呼ぶ声を聞きながらその時を迎えられるなら、きっと怖くない。
けれども、燭台切、燭台切、と叫ぶ声は徐々に大きくなって、どうやらこちらへとだんだんと近付いているらしい。ここにいる、と声を上げようにも最早そんな力も入らなくて、喉から溢れたのは、かひゅ、と音を立てた細い吐息だけだ。はせべくん、と声にならない声で呼んだところで彼に届くはずもなく、一度彼の声が近付いたあと、革靴のソールがその場を急いで離れるように地面を蹴飛ばす音を聞いた。もしかしたら助けてもらえるかもしれない、なんて希望を抱いてしまったけれど、やはりダメだったみたいだ。
まぶたでは遮りきれない強い陽光が、真暗な闇の中をじんわりと明るく照らしている。燭台切、と君が名前を呼ぶ声が、頭の中で幾度もいくども繰り返される。君の背中を、僕はずっと見ていたんだ。
気難しくて、他者の心の機微に少し疎くて、他の男士と意見がぶつかることも多くて。けれどもそれは君が己の意見に強い自信と根拠を持ち合わせているからだと僕は知っている。いつもしゃんと伸ばされた背中にこの本丸の近侍としての責任を背負って、誰にも弱みひとつ見せることもせず。
戦装束の長い裾を泳がせて、風の如くいくさ場を駆けてゆく君は、彼の四面四角と言えるくらい几帳面な性格からは想像もできぬほど、華やかな皆焼の波で荒々しく敵の命を刈り取る。初めてその景色を目にしたとき、僕はそのさまを美しいと思った。そして、負けられないと思ったのだ。美と実用の長船と讃えられる己が身に恥じぬよう、君の隣に立てるほど美しく在れるよう。
君と背中を預け合って敵を屠って二人揃って血塗れになったあのとき、初めて君に並び立てた気がした。燭台切、と君に名を呼ばれるほどに高揚していた。そうして君と数え切れないほどの傷を負いながら窮地を切り抜けて、最後の一体を斬り伏せたあの日の興奮を、命を断つあの感触を、僕は今も忘れられないでいる。それは僕が、刀としての本能を強く喚び起されたからだろうか。それとも、刀の本能を強く喚び起したのが君の声だったから、だろうか?
この期に及んで思うのが君のことばかりなんて君に知れれば、主の命を果たすことを第一とする君はきっと呆れた顔をするのだろう。どうせ、知られるはずもないからただの杞憂なのだが。
君に名前を呼んで欲しい。君と共にまたこの身を振るいたい。願わくば、君とどうでもいい、記憶の片隅にしか留まらないような話もしてみたい。もっとできたはずなのに、今となってはもう叶わないことばっかりで笑えてしまう。はは、と笑っても声にはならなくて、けれども身体が揺れたせいで全身に痛みがじくじくと響く。
ああ、痛いなあ。どうしてこんなに痛いのだろう。傷口じゃない。そんなのが痛いのはとっくにわかりきっている。どうしてこんな、さいごのさいごに気が付いてしまったのだろう。君の隣に立つことが最高の誇りだと信じて疑わなかった、それだけでよかった。それなのに、今になってこんなに浅ましく求めてしまう。
この気持ちが『恋』なのだと、そんなこと、気付きたくなかったな。
**
ゆらゆらと馬に揺られるように優しく体を揺らされていることに気がついて、ゆるゆると意識が持ち上がる。敵のものと己の身体から流れ出た血でぐちゃぐちゃに汚れた身体は泥のように酷く重たくて、けれども穏やかに上下に揺らされる振動と甘く優しい花の香のせいか、ふわふわと不思議な浮遊感に包まれている。薄く目を開けてみれば目に入ったのは煤色の真直ぐな髪と、青紫のステンカラー、紫水晶の涼しげな瞳。馬上で彼に抱き留められるように支えられていたようで、彼の胸の中心がとくとくと脈打つ音が耳元で小さく響いている。
血も酸素も足りないせいでうまく働かない頭でも、それが誰であるか位すぐに分かって、それから思い出す。ああ、この淡く匂う藤の香を、僕はよく知っている。
「……、ぁ……せべ、く……」
やっとのことで絞り出した声は、殆ど呻き声のようなひどいものだった。口の中が鈍い鉄の味でべたついて、喉まで糊で貼り付けられているみたいだ。げほ、と幾つか咳き込んで、ようやく身体の重苦しい痛みを思い出す。どこが痛いのかも分からないほどに身体中がどこもかしこも痛んで、けれどもその痛みにようやく、ああ僕は生きているのだと認識した。よく生きていたものだ、と思いさえした。
「気が付いたか」
頭上から落とされた鋭い声には、緊張を色濃く含んでいた。僕が長谷部くんの胸に頬を擦り付けるように小さく頷けば、もうすぐ本丸に着く、頑張れ、と僕を励ましてくれる。もう一度、こくりとひとつ頷いて、胸元で小さく脈打つ心の臓の音に耳を傾ける。ああ、心地よい。
人が脈動の音を心地良く感じるのは母親の胎でその音を聞いていたからだというが、それなら僕らがこの音を心地良く思うのはなぜなのだろうか。懐に入れられる短刀や短剣などはともかく、僕らがこの音を心地良く思うのはなぜなのか。刀を鍛える槌の[[rb:音 > ね]]の律に似ているといえばそうかもしれないが、あれはもっと、甲高く鋭い音だ。
とくり、とくり。音は途切れることなく、一定の速さで脈を打つ。浅く呼吸を繰り返すたびに胸を貫くような激痛が襲って、できる限り慎重に、かつ迅速にと走らせていることは分かるが、それでも馬の走る振動につられて全身の痛みは増して、そのたびに嫌な粘っこい汗が身体中から噴き出した。油断すれば溢れそうな呻き声は奥歯を噛み締め、擦り潰して殺して、長谷部くんの胸の規則的な音にあやされる様に目を閉じる。とくり、とくり。痛みが引くことはないが、意識が他所へと逸らされるからなのか、幾らかは楽だった。
「……お前が、生きていて、良かった」
は、は、と短い呼吸さえ必死に繰り返す合間に聞こえた彼の言葉は抑揚に乏しく、けれども先ほどまでの鋭さを失った弱々しい音だった。『恋』を知った僕がそれを自分の望む甘い意味へと解釈するのは簡単で、けれど決してそうではないと知っているから、はふ、と胸に生まれたごく小さな痛みは浅い吐息と共に吐いて落とした。
僕だって、そこまで甘い感情ひとつに浮かれる様な馬鹿じゃない。練度上限も間近の僕が破壊されたとなれば、それは本丸にとって戦力を大きく削がれることだということくらい理解している。自惚れではなく、僕を慕ってくれるものは多かったから、本丸全体の士気が落ち込むことにもなりかねない。それは長谷部くんにとって、主の命を果たすことを第一にする彼にとって、決して望むことではないだろう。
期待はしたくない。一方的に向ける感情を同じもので返してほしい、なんて、ひどい傲慢だと知っている。近侍たる君の隣に並び立てることが僕の最高の誇りで、「生きていて良かった」というその一言が僕にとっては最高の賛辞だった。
それでも長谷部くんは自分の胸に凭れて痛みを堪える僕の、その心の内の葛藤など知る由もなく、返す言葉も分からない僕にポツポツと続けて言葉を落とす。
「お前の強さを侮っている訳ではないが、それでもお前が折れない確証は持てなかった。……鉄屑に成り果てた姿を見ることも、俺は覚悟していた」
僕の知る彼の言葉の常は、淡々と涼しい声色で、彼の刀の輝きの如く鋭さのあるものであった。軍議のときなど白熱して口論に発展して強い口調になることもあるし、旧知のものとは皮肉を言い合っているところを聞いたりもする。そんな普段の姿を知っているからこそ、並べられ落とされる言葉の数々を、僕はどこか信じられない気持ちで聞いていた。
生きていて、良かった。もう一度そう繰り返した彼は、ふ、と一瞬だけ短く息を[[rb:吐 > つ]]いて、それから泥だらけでぐしゃぐしゃになっているであろう僕の髪に、そっと指を通した。その手つきがあまりに優しくて、僕はうっかり、勘違いをしてしまいそうになる。……或いは、しても、いいのだろうか。
重たい瞼を薄らと開いて、わずかに首を動かしてみれば、存外に長い煤色に縁取られた淡藤色は伏せられて、僕のことをじっと見下ろしていた。何か言葉がある訳でも、仕草を介すわけでもない。ぱちり、ぱちりと互いに見つめ合って数度瞬きを繰り返した後に、馬を操るという大義名分に視線を逃そうとした長谷部くんの顎を引っ掴んだ。彼が小さく目を瞠ったのに構うこともせずに、僕は首だけを精一杯伸ばして、強引に彼の薄い口唇に己のそれを押し当てた。
本丸に戻れば、心配症の主に即座に手入れ部屋に放り込まれて、暫くは眠り続けることになるだろう。そして手入れが終われば、また日常が戻ってくる。いくさ場で振るわれ、遠征に出向き、内番をこなす、変わりのない日々だ。この身体中の痛みから解放されるのも近いことに安堵して、けれどもとくり、とくり、と彼の胸の鼓動と体温を感じながら馬に揺られる時間が終わることは惜しいと思った。