シャーロック・ホームズという男についてジョン・ワトソンはどれだけ知っているだろうか。彼と出会ってからずっと、自問自答し続けている。思えば、初めて出会ったとき彼は僕のことを一瞬にして見抜いてみせた。医師であることやアフガンへの従軍時代はもちろん、PTSDを患っていたことも誰にも言えなかったその理由も。随分誇らしげな顔をしていたからよく覚えている。ついでにハリエットの名を聞いて『姉か!』と心底悔しそうな顔をしていたことも。僕はなんと返したっけな、思い出すのは難しかった。
シャーロック・ホームズという男のすべてをジョン・ワトソンは理解している。彼は紅茶よりもコーヒー派だし注文はいっだって砂糖ふたつにミルクなし、雨が降るとご自慢のブルネットが乱れるから好きじゃなくて、自分の熱が収まるまで集中したら動かない。スーパーコンピューターのような頭脳と、12歳と並ぶ情緒。心優しいスコットランド・ヤードの多くは彼を「フリーク」と呼び、兄は匙を投げだしている。友人はことあるごとに「ジョンが要れば安心だろ」と肩を叩いてくる始末。そのたびに僕は彼らに言う。「シャーロックは案外わかりやすいやつですよ」と。それがジョン・ワトソンの役割であるかのように。彼らの望む言葉を言う。そうすればやっぱり君がいて良かったと、彼らは僕に背を向け去ってくれるのであった。
シャーロッ……もういいか。同居人の男について僕はきっと何も知らないのだと思う。そう思うことが最近増えた。きっかけは間違いなく『彼女』と出会ったことで、ダートムアの一件から戻ったあたりから顕著になった。退屈だとわめく声はなりを潜め、銃弾を補充する心配もない。寝室へ上がったあともリビングからヴァイオリンの旋律がよく聴こえてくるようになり、いつももの哀しい響きだった。シャーロックはいつも通りを振る舞っているつもりなのであろうが、彼は自分自身が案外わかりやすい男であると自覚もないので、同居人である僕やハドソンさんにとっては逆効果なのである。最近のシャーロックはどうにもおかしい。そうだ、言いたいことはそれだ。今の彼が平常運転であるのならば、これまで培ってきたささやかな自信も崩れてしまうであろうくらいには。今朝だって彼はあろうことか自分でコーヒーを淹れたのだ。しかも僕の分まで。最後の記憶はヘンリー・ナイト家特製のあれであるこの僕に。砂糖のたっぷり入ったあれである僕に。迷うじゃないか。飲もうか、飲むまいか。今くだらないと思っただろ?じゃあ一度君もシャーロックと暮らしてみろよ。誰に話しているのか知らないけれど。
「ジョン」思考を途切れさせたのは聞き慣れた、かつ心の全部を占めている男で。心配そうにこちらを覗きこむ顏に気恥ずかしくなって目を逸らした。器用に整った片眉が上がる。「口に合わないか?」続いたのはなんとも的外れな言葉であった。
「おいしいよ」
「なぜわかる?まだ口も付けていないのに?」
「じゃあなんで聞いたんだよ」
「指摘したら怒るだろう。『やあジョン、僕の淹れたコーヒーをまだ怖がっているのか?何も入っていないから安心してくれスイートハート!』でも言えば良かったか」
「うわ、シンプルに気持ち悪い」
ご丁寧に大袈裟なジェスチャー付きでからかった男は、不機嫌そうにガウンの裾を翻す。早く飲め。冷める。聞こえた小さな一言はちゃんとこちらの耳にも届いた。唇をつけて、嚥下する喉。たしかに美味い。いつもよりずっと。なんとなく謝りたい気持ちになったが言葉にはしなかった。
両手でカップを持つのはマナー違反らしい。シャーロックの講釈を聞きながら十本の指を白いマグで温める。彼の紡ぐ知識と話題は多種多様、尽きたこともないと思う。10秒前までいかにこだわって豆を選んだかという苦労話をしていたのに、今はウィンナーコーヒーとザッハトルテ裁判の論争へと移っている。興味はない。聞いたところですぐに忘れてしまうだろう。けれど、同居人の奏でる授業はいつだってそう悪くなかった。中身の問題じゃない。誰の声であるかが重要だった。
三十分ほど経っただろうか。お互いのカップはすっかり空となっており、シャーロックのコーヒー談義も一息ついた頃だった。一通のテキストがシャーロックと僕のスマートフォンを震わせたのは。確認して、溜息を吐く。向かいの男も珍しく、真剣な顔で画面の文字を追っていた。
「君のお兄さんも周到だよな。わざわざ無視されないよう僕にまで送ってくるなんてさ。どうする?急ぎの依頼みたいだけど……」
ふいに言葉が消えて、静寂とぬるさが空間を支配する。
ペールブルーの瞳に、少しだけ影が宿った。何故か、僕にはわからなかった。
「始まった」
「なにが?」
「行こうジョン、君と僕の淹れたコーヒーを飲むという目標は達成された。最後の記憶が毒入りなんて悲しすぎるからな」
「元はと言えば君のせいだろ」
「そうだな。すまない」
素直な謝罪にぎょっとする。すでにシャーロックはコートを手に取っていて、慌てて僕もその後ろを追いかけた。やっぱり、最近の彼はどうにも変だ。気まぐれなのか、無自覚なのかはわからなかった。
「シャーロック。なあまた淹れてくれよ、今度は疑ったりしないから」
返事はなかった。
目の前に、キャブが止まった。
『ある裕福な家からライヘンバッハの滝を描いた絵画が盗まれた。彼らは英国政府にとって重要なパトロンだ。探し出してくれ。 M.H 』
シャーロック・ホームズという男について。
僕は、何もわかっちゃいなかった。
おしまい!!!!!!
暗い!!!!!!!!!ありがとうございました。