「カイブツだね」
「はい?」
診察中ずっと黙っていた後だったから、聞き返す私の声は思いがけず裏返った。
「だから、カイブツ。ね」
怪物。それを聞いた私の心境としては、医者でもそういうファンタジー的なことを口にするのか、というだけだった。
端的に言って現実味とかがなかった。
「カイブツがね、ここ、ちょうどこの辺りにいるの」
光に透かした私の〈心〉のモノクロ写真を指でちっさな円を描くようにしながら示す。
確かにそこだけ、濃い靄がかかっているような……気もする。
「これが、怪物ですか」
「カイブツね」
何がなんでもカタカナで言いたいらしい。もしかしたら漢字がちがうのかも知れないが、それについての説明は結局なかった。
医師は、物分りの悪い生徒に言い聞かせるような口調で続ける。
「こいつがヤナセさんの心のね、この部分をかじってるの。分かるかな? ここが少し欠けてるんだけど」
「ああ……言われて、みれば?」
言われてみなければ分からない。
というか〈心〉って欠けるのか。
かじられて大丈夫なの?
「それが、私が〈幸せ〉を感じられない原因なんですか」
「ん。まあ、そうです」
何とも煮え切らない。医師は椅子をキィキィ言わせながらモノクロ写真の方を向いた。
「正確に言うと、〈幸せ〉から〈心〉が得られる感情を感じるのを鈍くさせている、というところですかね」
「はあ」
「何も〈幸せ〉っていうのは、ここの部分――このかじられた部分――だけで感じるものじゃなくて。というか、〈心〉は〈幸せ〉をそのまま幸せとして通さないからね」
丸眼鏡をずり上げて、医師はおそらく何度もしてきたのであろう説明を、私にもする。
「〈幸せ〉から得られる、『楽しい』とか『嬉しい』とか、そういう感情を人は感じるわけね」
「『楽しい』とか『嬉しい』とかを感じるから、幸せって思うんじゃないんですか」
すると医師は「それはあくまでこっち側の都合だから」とかよく分からないことを言った。
ともかく、とまた椅子をキィキィいわせながらこちらを向く。
「ヤナセさんの、その、『幸せを感じられない』という症状はそう珍しいものではありませんからね」
幸せを感じられない。あるいは、幸せを感じることが怖い。
そういう人は結構いる、らしい。
お薬を処方しておきますね、と医師は言った。
「怪物を退治するんですか」
「まあ、うん。ううん」
違うらしい。
「こういうのは退治すればいいって言うものでもなくてね。けっこう、必要なものでもある」
誰の心にだって、その〈種〉はあるのだ。それごと追い出してしまうと、それはそれで困る、らしい。
「内科だって外科だってそういうことよくあるでしょう。心科だって同じようなもの」
「へえ」
ありすぎても困るし、全くなくても困る。
人っていうのは、結局〈怪物〉と完全に切り離されては生きていけないのだ。たとえ心が欠けたとして、それが正常ではないとは言いきれない。
「でも、悪化してしまえば本当に怪物になっちゃうからね。そうならないよう、とりあえずお薬を飲んで様子を見ましょう」
『様子を見ましょう』、何度も同じ台詞を色んな病院で聞いてきた。だから私は飽き飽きして、「分かりました」と同じ台詞で頷く。
「大丈夫。〈心〉の病も、頭痛とか腹痛とかとおんなじ。治りますよ」
それは、初めて聞いた台詞だった。
少し、安心する。
カイブツと根気よく付き合っていってやろう、と思った。とうとう最後まで漢字で何と書くのか分からなかったけれど。