しばらく、入り口から細く差し込む陽光を反射する文蝶たちを見つめて、僕はふと顔を上げた。「文蝶は、標本にすることができないんじゃなかったんですか?」
「いい質問だね」
 古崎さんはしかしニヤニヤするばかりで一向に応えようとしない。
「君は幽霊を信じるかい」
「は?」
 かと思えば突拍子もないことを言い出した。
「幽霊を信じるかいと聞いているんだ」
「……基本的には信じていませんよ。実際に目で見たなら別としても」
「なんてことだ!」
「うるさっ」
「最も愚かな回答だ、君は見た目以上につまらない人間だのようだね」
「いくらなんでも失礼じゃないですか」
 彼は取り合わなかった。この人には僕が見えていないのではないだろうか?
「目に見えているものが実在していると本当に思っているのかい? 己と他者の見えている世界が同じものだと?」
「何の話ですか」
「世界の話だよ」
 セカイ系か。
 くだらない冗談を返したかったが、どうせくだらない冗談だから何も言わなかった。
 古崎さんは複雑怪奇な科白を、まるで目の前の空間に書かれた文字を読み上げるような淀みのなさで連ねていく。
「たとえば君と私は、互いに互いの視界に映っているものを見ることはできない。相手が今何を見ているか――目に映しているかなど、考えようもないわけだね」
「そんなの、立ち位置を入れ替えれば済む話では?」
「そうかい。では入れ替わったとしよう、君は私の居たところに立って、自分の正面に立つ〈君〉を見ることができるかな?」
 ああ、なるほど。と思わないこともなかったが、認めるのは癪だった。
「他にもだ」そうしておもむろに日焼けした本を手に取る。「この本は、君にどのように見えているだろう?」
「……赤、ですけれど」
「そうかい? 私は鼠色に見えるよ」
 こともなげに言ってパラパラと頁を捲る。僕は一瞬疑問を覚えたが、すぐに彼が続けたのでそれについて考える暇はなかった。
「視覚を通して認識する物事には、必ず主観が入る。純粋な〈物事〉のみを認識することは、私たち人間にはおそらく不可能なことだ。この本の色だけではない、ここに見えているものすべてにおいてそれが言える。私たちは果たして、この光景を全く同じものとして認識しているのだろうか? 答えは否だ。たとえば私にはこの棚にある商品を芸術的であると思っているが、もしかしたら君には我楽多のように思えてしまうのかもしれない」
 彼の科白の切れ目にあと一呼吸分あれば、僕は肯いていただろう。「かもしれない」じゃない、「明らかにそう」だ。
「自分の世界はあくまで自分のみにしか理解できない。そこに他者の介入は皆無だ。君にとって愉快なことが、私にとっては不愉快で。私にとって美しいものが君にとっては悍ましいものであることだって十分起こりうる話だ」
 ふと気になって尋ねる。
「『常識』とか『非常識』とか……そういう言葉はどう説明するつもりですか。あれは、それこそ自分と他人の世界の一部一致では?」
 古崎さんはもうほとんど嘲るように笑った。僕はムッとする、何も間違ったことは言っていないからだ。
「常識こそ私は信じていないとも。そうだね、私は自分の話を遮られることと髪を人工的に染めた人間がこの世で最も嫌いだと思っているのだが、『人の話は最後まで聞くこと』と『染髪しないこと』は私にとって至極常識的なことだ。君はどうかね?」
「は、いや。前者はともかく、後者は……。好きでもないですが」
「だが私にとっては『常識』になるのだよ? この時点でこの言葉はあてにならない。『非常識』はもっとだ。あれは、つまり『自分にとって都合の悪いもの』をイコール悪だと言っているのだよ」
「でも、礼儀とか規則とか公共の益とか」
「公共の益? つまりは百人中九十人が『これは自分にとって都合がよい』とした九十人分の『常識』のことだろう? それが百人――つまり社会――すべてに同じものとして認識されているはずがないではないか!」
 僕はまた何も言わなかった。彼が正しいと思ったからではない、彼の「自分は正しい」という表情に半ば呆れてしまっていたからだ。
 僕は最中ちらちらと僕の文蝶を横目に見た。文蝶は弱り切っていて、羽を動かし浮き上がることさえもうしていない。文蝶が死んだあと、失われた言葉は戻ってくるのか。それが気がかりだ。
 延々と続く古崎さんの話にうんざりして、僕は「大変興味深い、充分に理解した」という顔をしながら言った。
「それで、つまりなぜ文蝶の標本を作ることが可能なんですか」
「そう結論を急がないでくれたまえ。せっかく話を誤魔化そうとしていたのだから」
 いかにも哀れっぽく回答する。
「私は文蝶専門の標本士なのだ」
 ……回答になっていない!
 苛立ちを前面に出した僕に悪びれる様子もなく、こちらの目を覗き込んできた。黒すぎる瞳はうっすらとした恐ろしさを僕に注ぐ。
「特別な方法があるのさ。誰も知らない、この世で私一人のみが使える方法だとも。もちろん君に教えることもできないね」
「……」
 思い切り睨みつけた。
「教えてくれるくらいいいじゃないですか」
「気になるのかい? ふふ、駄目だね。文蝶の標本はあらゆる面で価値が高い。方法を外に洩らしてしまえば、それだけ私の標本の価値が下がってしまうのだよ」
 不親切なうえに意地悪な大人だった。
「一つ言えるとすれば、そうだね。……〈生きていると思わせたまま殺す〉ことだ」
 ……胡乱だ。
 僕は返事をしないまま再び標本に目を戻した。
 アオスジアゲハとモンシロチョウをそのまま足したような姿。大きさは様々、羽の色も同じものは一つとない。彼らは言葉を食べる。そうして羽を色づかせるのだ。
 ふと、ひと際目を引くものがあった。
 太陽の光がその密度を濃くする。透明な硝子の表面を滑って、標本を閉じ込めた箱はぎらぎらと存在を主張する。
 僕はそのほうへ近づいていって、ゆっくりと覗き込んだ。
「……綺麗だ」
 それは他より数が少なく、しかし他とは比べ物にならないほど美しい文蝶が羽を広げていた。
 綺麗だ、ともう一度呟く。そうだろう、と古崎さんが柔らかい声で返す。慈愛さえ滲んでいるようであった。
「それは私のとっておきなのさ。〈世界一美しい言葉を食べた文蝶〉だよ」
「世界一美しい言葉?」
 繰り返す声は自然大きくなった。目を丸くして顔を上げた先で、やはり彼の表情は変わらない。初めに会ったときのまま、夏の幽霊のような、〈怪しい〉をそのまま人間にしたような。
 黒すぎる瞳が小さく揺れた。
「……世界一、美しい言葉」僕は何度も噛みしめる。胸がとくとくと鳴っていた。指先が熱い。
「どうしたんだい」
「――あの!」
 喉の途中に引っかかったそれを勢い無理やり外へ押し出す。
「この標本、僕にくれませんか!」
 瞬間、ふっと青白い顔が気色ばんだ。
「まさか! できるはずがない」
「必要なんです!」
「なぜ」
 鋭い声。怯まない僕は、しかしいくらか勢いを落して首を横に振った。
「言えません」
「論外だ」
 古崎さんは厳しい。「見ず知らずの少年に、理由も分からぬまま大切なものを差し出せるわけがないだろう」
「でも、どうしても必要なんです。……その文蝶が食べた、〈世界一美しい言葉〉が」
 ぐっと熱いこぶしを握り締めると、盛大なため息を吐かれた。
「そもそも、一体どうやって文蝶から言葉を取り出すつもりなんだい」
「それは……これから考えます」
「はあ、もう少し考えてから発言したまえ」
 声は元の軽妙さを取り戻していたが、瞳に映る無機質な固さは靄のようにずっとそこに留まっている。
「私が君にこの標本を渡す利益はなんだい」
「え?」
「利益、交渉だよ。無償で譲ってやるほど善良な人間だとは間違っても思わないでくれたまえ。否、そこまで来ると最早異常だ、善良を通り越して不気味だよ」
 不気味の塊のような人が言うことは確かに正しい。しかしもちろん、交渉材料となれる手持ちはなかった。
「……幾らですか?」
「金銭の問題ではない。君は本当に理解しているのかい?」
 理解していない。文蝶の標本の価値は分からない。
 しかし、目の前にある言葉の特別さは分かる。
「何でもします」
「それは何にもしない側の人間の科白だ」
「僕はそこまでいい加減でないつもりです」
 真剣に言ったつもりだが相手には一つも響かない。同じようなやり取りを八回繰り返し、苛立った様子の彼が口を開いたとき、
 表の硝子戸が開いた。
 今の位置からは背の高い棚に隠れて見えないが、外気の熱と音が滑り込んできて、人の気配が増えたのが分かる。二人は一斉にその方向を見て黙り込む。
「すみませーん」
 女の子の声がふらふらと掛けられた。こちらが見えていないのだろう。
 僕が古崎さんのほうをうかがうと、彼は見事に苦い顔をしていた。
「困ったな……」
「お客さんじゃあないですか」
「私は接客ができない」
「はあ?」
 こそこそと言い合っている間にも、女の子は「誰もいないのかな」など一人で呟いている。僕としては、こんな所を訪ねてくるなんてよっぽどの物好きなのかと思った。
 古崎さんがこちらを向く。
「少年」
「は、はい」
「行きなさい」
「……」
 僕だって接客はできない。
 しかし頼まれて断るほどの理由はないので、僕は渋々棚の陰から出た。訪問者(普通にお客だろうが)は中学生くらいの女の子で、従業員然として出てきた僕と目が合うと意外そうな顔をした。小麦色の肌と明るい茶髪が健康的だ。
「お店の人ですか」
「まあ、はい。何か御用ですか」
「そこの人形が気になって……」
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蝶々と言葉のお話
初公開日: 2019年08月20日
最終更新日: 2019年08月20日
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