最下層である三十一町に不似合いなものはいくつかある。平和、法、安全、そして芍薬だ。
しかしこの日、控えめながらも見事な芍薬の紋様を先頭に飾り立てた廻》が町の最奥に門を構える奴隷市の正面に乗りつけた。
廻とは、木組みの陸上車である。水上車である舟》に車輪と屋根を取り付けた形であるから、そのまま舟と呼ぶ者もいた。陸上の移動手段の中では比較的安価で庶民でも利用できるものではあるが、其処に『芍薬の紋様』があるとなると話は違ってくる。
実際、降りてきた二人の人物は、此処三十一町ではまずお目に掛かれない官服姿の男であった。
一人は、豊かな黒髪を高い位置で結わえた体格の良い男。緋色が鮮やかな野袴と上質な羽織――帯刀しているから武官だろう。太い眉を寄せ、気難しそうに口を結んでいる。
もう一人はその付き人であるようだった。地味な紺の袴に痩せた体つき。真白い細面は狐のようであり、短い黒髪をきりりと束ねている。帯刀こそしていないが、その佇まいは訓練されたものだった。
突然現れた場違いな貴族を、そこの住人たちは値踏みするような目でうかがった。『住人』と言っても家屋などはない。吹き晒しの路傍に粗末な布を敷き、横になったそこが彼らの《《棲家》》だ。
武官と付き人は不躾な視線など意に介さず、夕の閑散とした奴隷市を横切り、その裏手、奴隷たちを収容する大きな蔵の前に立つ。門扉は古び、ところどころ塗装が剥げているものの、この町でまず間違いなく最も立派な建物だろう。
先頭の武官がそこへ近づこうとしたところで、二人の前に立ちふさがる者があった。
「おいアンタ、どこのお坊ちゃん貴族か知らねえが、この先は入られちゃあ困るよ」
薄汚れた身なりの小男だ。貧しい恰好だが、そこそこの栄養を蓄えた肉がある。これは“上”の人間だ。
「礼というものを知らぬか、貴様」後ろの細面の男がぎっと小男を睨んだ。「この方は芍薬の宮様直々の御使いであるぞ」
「ほォ」国の長たる名を出されても、小男はまるで怯まずに、むしろ値踏みする目で緋色の武官を見た。
「その御使いサマが、三十一町に何の御用ですかいねェ」
「安心したまえ。君たちの縄張りは荒らさない」
武官は角張った台詞で分からないくらい薄く笑んだ。
小男は面食らったような顔をした後、焼け縮れたような薄い毛髪を掻き乱し「商品に勝手はしねぇでくれよ」と吐き捨て道を開けた。
武官が錆び付いてもはや原形を留めていないような把手》を握り、躊躇なく引く重たい鉄扉が錆を擦り合わせながらぎぃと開く。厭な闇が二人を出迎えた。
蔵の中は埃と鉄と人間の臭いがこもり人の気配がざわめいていた。付き人は嫌そうに眉を顰めたが、武官は無表情であった。
何処までも直線に続く通路の両側に木の格子が敷き詰められている。扉が閉じれば光はほとんどなく、通路の先や格子の向こう側どころか、自分の足元すらよく見えないほどだ。
「案内役はいるか!」
付き人が通る声で呼ばわった。立ち込めていたざわめきが怯むように消え、代わりに一人の痩せた男が目の前にまろび出てくる。ぼろ布を巻きつけただけの、みすぼらしさがそのまま人型になったような男だ。目の下の隈が青すぎる。
「お前か」
「はあ、いえ、あの。何の御用で」
「安心したまえ」武官が先ほどと全く同じ調子で笑んだ。「君たちの縄張りは荒らさない」
訝しげに首をひねった男に見えないところで、付き人は一瞬物凄い顔つきをした。
ため息をごまかすようにしかつめらしく男に命じる。
「此処の奴隷の中に捜している者がいる。表のは駄目だ、お前が案内をしろ」
「そうは言われましても」
「報酬はやる。いいか、これは《《芍薬の宮様の》》お望みであるのだぞ」
「……」
男はこわごわ頭を下げ了承をした。
「白髪の若い男だ。知らぬか」
「白髪、ですか。……ああ、まあ。覚えなら」
あいまいに肯くその表情に若干の哀れみがよぎった。その意味を問う前に、案内役は火灯りを点けさっさと歩き出す。二人はそれに続いた。
暗い格子の向こうにいる影たちが幽鬼のようにうごめいて、場違いな身なりをした闖入者を睨めつけた。
「しかし、奴隷市は夜ですから。今来てもらっても何にもなりませんでしょうに」
「問題ない。……否、夜の方が問題があるのだ」
付き人がうっとうしそうに答える。
武官は喋らない。
「貴族様のご都合は私らみたいなのには分かりませんけれども。何せ三十一町は、《《影》》、ですから」
「あ――」
武官が突然口を開こうとしたのを、付き人が脛を蹴飛ばし黙らせた。
背後で体勢を崩した彼を案内役が不思議そうに振り返り、付き人は大げさな咳払いをする。
「三十一町が他三十の町と隔絶した、独自のルールを持っているのは承知している。お前たちがいくら非道を犯していようと、悪行の上で成された治安であろうと、過去、帝との協定がある限り私たちは糾弾はせん」
「ありがたいことで」
返る声は乾いていた。
「三十一町は『掃き溜め』なんて言われますがね、非道の上でないと息ができないやつは大勢いるんでさ。他の三十の町の平和は、ここがあるからこそと言う者もいる」
「理解している」
「ところで、宮様はなぜ奴隷なぞを捜していらっしゃるので?」
「極秘事項だ」付き人がニッと唇を吊り上げた。
ひとつの、他より小さな牢の前で一同は立ち止まる。ずいぶん奥まったところまで来てしまった。
「ご苦労。ここで待っていろ」
男は解錠し従順に二人へ礼をとった。
奥へ歩みを進める。どうやらここに収められているのは一人だけらしい。壁にもたれかかるようにしてうずくまる影があった。
通りで男の持つ灯りが赤く差し込み、人影の姿をぼんやり照らし出す。
膝の間に俯けた頭は確かに特徴的な白髪だ。しかし薄汚れたそれは白というより灰を被ったように褪せている。前髪でほとんど顔は見えず、襟足は首のあたりをまだらに覆うほどの長さがある。
その後髪》の隙間から分厚い鉄の枷が覗いていた。そこから伸びた鎖が手枷と繋がり、さらに床に固定されている。
奴隷は薄い布越しでもはっきり見てとれるほど痩せていた。丸まった背骨の線と青い血管の浮いた手。歳の頃は、十の半ばかそれ以上。
目の前に人間が立ってもまるで反応がないが、そのとがった肩はかすかに上下していた。
二人は目配せし、武官が汚れた床に膝をつく。
「おい、君」
堅い声。肩を揺するが反応はない。
「君、何とか言いなさい」
(以下二人の会話変更予定)
(しかしまるで浮かばないので今日はここまで)
ありがとうございました!