自転車を漕ぎだしたところで終わらせた方が良かった気がする!!!!
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 早く中学生になりたかった。中学生になって、制服を着て、自転車で学校に通いたかった。そしたらちょっとは大人になれるかなって、そう思ったから。
 どれだけ背伸びしたって結局おれはまだまだガキで、母さんや先生や、周りの大人たちがちょっと難しい話を始めると、すぐについていけなくなってしまう。まだ早い、というか、分不相応ってやつなのかもしれないけれど、それでも何もわからないのは悔しかった。
 早く大きくなって、この疎外感を投げ捨てたかったんだ。
 小学校に入ってから、もう丸五年も経っている。中学生になるまではあと一年も残っていないはずなのに、制服を着て歩く姿は、今のおれたちよりもずっと大人に見えた。
 あの服を着れば、おれもちょっとは大人になれるんだろうか。そんな思いが、おれの中でブレザーに対する憧憬を、ちょっとずつ大きく育てていった。
 ……ああ、それと、もうひとつ。
 ダサいって言うやつもいるけど、ウチの学区の中学校の制服のデザインは、なかなか捨てたもんじゃないと思う。男子制服はかっこいいし、それに何より女子制服がかわいいのだ。
 世間一般では微妙扱いなのかもしれないけれど、少なくともおれの目には、あのブレザーはめちゃくちゃかわいく見えた。
 女子の制服なんて、男子のおれには関係ないぜー! ……と、いう顔を普段はしているおれだけど、実のところ一番興味があるのはそこだった。
 中学校の制服。ブレザーとスカート。ローファーを履いて、指定の学生鞄を提げたあいつは……きっと、もっとかわいくなるんじゃないかって。
 つまるところ、好きな幼馴染に対する下心だったのだ。
 自覚したのはつい最近だけど、おれはあいつに恋をしている。きっと、ずっと前から好きだった。たぶん、これからもそうだと思う。
 同じ制服を着て、同じ鞄を持って、サドルの高さの違う自転車を並んで押しながら、同じ学校に通って。
 あいつはちょっとガキっぽいっていうか、色恋沙汰にはあんまり縁が無い感じだから、きっとおれは自分の想いを隠しながら、さっぱりとした青春を過ごすんだろう。
 とかなんとか、まあ、シシュンキにありがちな妄想をするのが、最近はちょっと楽しくなってきていた。
 ……そんな折に、本当に急に飛び込んできたのだ。あいつの、転校の話が。
     *
 いつもと同じ見慣れた我が家のはずなのに、妙にがらんとしている。壁が遠いし天井が高い。何もしていないのに、部屋が広くなるなんてお得だな。
「はー……」
 椅子の背もたれにどっかりと寄りかかって、大きく息を吐いた。最近急に低くなってきた俺の声が、まるでおっさんみたいな溜め息を響かせる。
 ぼーっと眺める視線の先には、つい五分前まで人ばっかりで狭苦しかった我が家のリビングダイニングが広がっていた。
 ソファーの配置をちょっと変えて、押し入れからちゃぶ台を引っ張り出してきて、邪魔になりそうな家具や小物は、おれや母さんの部屋に押し込んで、なんとか作り上げた即席のパーティールーム。
 あいつや皆と一緒にはしゃいでいたときはむしろ狭苦しいくらいだったのに、今ではびっくりするくらい広く感じて、なんだか力が抜けてしまう。
「なんだっけ。燃え尽き症候群?」
「小学生がおっさんみたいなこと言わないでよ……」
 テーブルの上の皿を集める母さんが、呆れまじりの顔でおれを見た。
「疲れただけでしょ。あんなにはしゃいでたんだから」
「……あいつほどじゃないって」
 ぐっと腹に力を入れて、渾身の力を込めて体を背もたれから引きはがす。重い腕をぐぐっと持ち上げて、その場で大きく伸びをした。
 パーティーの残滓。空気まで、ちょっといつもより粘っこい気がする。
「手伝う」
「んー? 休んでていいのよ?」
「平気。そんなに疲れちゃいないし」
 そりゃまああいつに付き合っておれも散々はしゃぎまわってたし、多少疲れているのは間違いない。けど、動けなくなるほどじゃないし、どちらかと言えば精神的な虚無感の方が強いのだ。
 ……何かしていた方が、気が楽になると思った。
 手近なコップを掴む。選んだわけではないけど、それはあいつが使っていた物だった。コーラの泡が、底の方に微かに残っている。
「行っちゃったわねぇ、あやちゃん」
「……うん」
 パーティーが始まる前は、最後になんて言おうかとか、いっそのこと告白してしまおうかとか、それはもう夜も眠れないくらい散々考えていた。けれども結局、おれは何も言い出せなかった。何も言えないまま、あっさりと最後のさよならを済ませてしまっていた。
 心残りが無いって言えば嘘になる。けど湿っぽいのは嫌いだし、たぶん、あいつだって同じだろうし。
 なんだかモヤモヤはするけど、きっとこれで正解だと思うんだ。
「あんた、本当に言わなくて良かったの?」
 だってのに、母さんはこころなしか普段よりも穏やかな表情で、そんなふうに言ってくる。「何を」とまで言わないのは、きっと母さんなりの優しさのなのだろうけど、それがちょっとだけ鬱陶しくて、おれの声に少しだけトゲを生やさせた。
「……何がさ?」
「んー……言っていいの?」
 こういう言い方、やっぱり大人ってずるいと思う。
「……言わないで。わかってるから」
 きっと、おれがこう答えるのもわかってたんだろうな。
 他のコップもいくつかまとめて抱え上げて、一足先にシンクまで皿を運んでいた母さんのところに持っていく。
 空になった皿に付いた油汚れを落としている母さんの横に立って、顔は向けずに聞いてみた。
「おれってさ、やっぱりわかりやすいのかな」
「うーん……母さんはあんたの母さんだからわかるけど、他の人はどうだろうねぇ」
「まあ、母さんにバレてたのは気付いてた」
 お別れパーティーをしたい、なんて、普段のおれのキャラじゃないもんな。絶対その時点で母さんにはバレてたと思う。もしかしたら、もっと前からかもしれないけど。
 パーティーにかこつけて告白してしまおうかな、とまで考えていたことも筒抜けだったかもしれない。
 ……というか、普通は気付くんじゃないだろうか。
「……ほかの親も気付いてたかな?」
「そうかもねぇ」
「だよね……」
 でも、たぶん、あいつは気付いてない気がする。
 だってあいつときたら、今日が最後だってのに無邪気にガキみたいに(そりゃあ、おれたちはまだ小学生で、誰がどう見てもガキではあるけど)はしゃぐばっかりで、先週のドラマみたいな「雰囲気」ってやつなんて、もうちっとも、これっぽっちもありはしなかったんだ。
 ……そんな感じだったから、なんだかバカらしくなっちゃって。
「おれ、あいつにもバレてるかもな、って思ってたんだ。だけど、今日のパーティーに誘ったときも普通だったし、はしゃいでる様子も普通だったし」
「そうだねぇ」
「……あそこまで普通にされるとさ、なんか一人だけ心臓バクバクさせてたおれがバカみたいで」
「バカってことはないと思うけど」
 喋りながらも、母さんの手は止まらない。水道水にぶつかった中性洗剤の泡が、弾けながら流されていく。白くピカピカになった皿が、一枚ずつ水切り籠に置かれていく。
「だから、後悔してないって言えば嘘になるけど、言わなくて良かったと思う」
「本当に?」
「あいつと一緒にはしゃいで、それが楽しかったのも嘘じゃないから。下手に告白とかして変な感じになるより、ずっと良かったと思う」
「……あらまぁ」
 きゅっと蛇口が捻られて、水が止まった。さっとタオルで手を拭った母さんが、そのまま左手を頬にあてた。
 母さんが、ちょっと感動した時のクセ。
「……なんだよ」
「いつの間にか成長したわねぇ」
「……何がさ」
「あやちゃんの話で「告白」なんて、昨日までのあんただったら絶対言わなかったわよ」
 たしかにそうかもしれない。いや、間違いなくそうだ。あいつに告白なんて、こっぱずかしくて口に出すことなんてできやしなかった。
 だけど、今は終わった後だもの。
「だって、そりゃそうでしょ。失恋したようなもんだよ、これ」
「うーん……」
 今度はおとがいに指をあてて何やらうなり始めた母さんに背を向けて、ダイニングを見回した。皿やらコップやらはあらかた片付けられたけれど、まだ普段の我が家には余計なものがいくつか残っている。
 話を続けるよりも、口の代わりに体を動かしている方がずっといい。
「ちゃぶ台片付けるよ。廊下の収納だよね?」
「そうだけど、はいこれ」
 しまう前に拭いといて、と、固く絞った布巾を渡された。さして汚れてもいない――おれの友人たちはみんな行儀が良いのだ。おれを除いて――ちゃぶ台の表面をさっと撫でで、足を折りたたんでから小脇に抱えた。
 リビングを出て、短い廊下を進む。玄関脇の収納の扉に手をかけて、ふと違和感を覚えた。
 鮮やかさが、視界の隅に引っかかる。
「……?」
 普段の我が家の玄関には、存在しなかったはずの色。だけど、見覚えのある色。やわらかい桜色の傘が、傘立ての中で濡れている。
 梅雨時だもの。何度も見たさ。考えるまでもなく、あいつの傘だ、ってわかった。
「……母さん!」
 足もとからガタンと物が落ちる音がした。俺が、抱えていたちゃぶ台を手放したから。だけど、もうこんなものはどうでも良かった。
「バスの時間って何時だっけ!? あと何分!?」
「へ?」
「あいつの乗る夜行バスだよ!」
 ダイニングから、顔だけ廊下に出した母さんに向かって叫んだ。
 テストの点はいっつもおれより高いくせに、どこか抜けているところがあるのがあいつだ。今日は夕方まで雨が降っていたはずだけど、パーティーが終わる頃には上がっていたから、傘を持って帰るなんて頭、残っていなかったに違いない。
「半に駅前出発って言ってたね」
「今何時!?」
「そうね大体ねー」
「そういうボケはいいから!」
「あらら……マジな感じ?」
「マジな感じ!」
「ふぅん……あと五秒で七分よ。残り時間二十分はあるわね」
「ちょっと行ってくる!」
 母さんと話している間にもう靴は履き終えていたし、ヘルメットだってばっちりだ。最後に、おれが普段使っている傘よりも、ひとまわり細い持ち手を握る。
「忘れ物?」
「忘れ物!」
 玄関の扉を勢いよく押し開けて、すぐそばに停めてある自転車に飛びついた。思いっきり右足を蹴りぬいてスタンドを起こしてサドルに飛び乗り……左手に握った傘の、微妙な納まりの悪さに気付く。
 ハンドルとまとめて握るには、些か苦労しそうな太さだった。どうするべきかと一瞬の逡巡の間に、ぽんと背中に声がかかる。
「落ち着きなさいな」
 振り向けば、細いロープを手に持った母さんがにこにこと笑いながら立っていた。半ばひったくるようにおれの手からあいつの傘を奪い取り、ささっと自転車のフレームに縛り付けていく。
 月明かりに照らされたコバルトブルーに、淡い桜がよく映えていた。
「落ちないように、ぎゅっとね」
「……ありがと」
「ちゃんとライトは点けるんだよ。それと、せっかくだから最後に一言言ってきなさい」
「……うん!」
 頭に手をやって、ヘッドライトのスイッチを入れた。右足で前輪のライトも点けてから、ぎゅっと両手でハンドルを握る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。寄り道すんじゃないよ!」
「ぜってーしねー!」
 まだちょっと湿っている地面を蹴って、夜の住宅街に走り出した。
 乗り慣れた自転車。走り慣れた道。はじめて運ぶ荷物。
 月明かりの下で、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。
 高速バスのターミナルがある駅前までは、おれが住んでいる団地の坂を下りて、それから十分ほど自転車を漕げばすぐに着く。国道沿いをまっすぐ進むだけで、街灯もたくさんあるから何も問題はない。
 ……強いて言うなら、この時間に小学生がひとりで自転車をかっ飛ばしていれば、運が悪けりゃ補導されるかも、ってくらいだけど。
「青春無罪ってことで勘弁!」
 交番の前を通り過ぎる時にちらりと視線を投げてみたけれど、当直の人はなにやら本でも読んでいるようで、おれに気付いた気配もない。どうやらツキはおれに味方してくれているみたいだった。
 夜風を顔に受けながら、懸命に自転車を漕ぎ続ける。オーバーペースな気もしたけれど、息切れよりも時間切れの方が嫌だった。
 ちらほらと、道行く人と車の数が増えていく。駅は近く、体内時計を信じるならば、タイムアップまでは程遠い。
 腕時計を付けてこなかったことをほんの少しだけ後悔したけれど、ほどなく駅舎が見えてきた。南口の壁にかけられた、大きな時計の分針が示しているのは……4の数字の少し手前。
「……っし!!」
 必死に足を動かし続けた甲斐あって、なんとか間に合ってくれそうだった。左手が、無意識にハンドルを離れてぎゅっと拳を作っていた。
 ここまで駅に近付いてくると、途端に人の数が増えてくる。自転車の速度を緩めながら、それでも確実に駅へと近付いていく。あの建物の裏側に、バスターミナルがあるはずだった。
 おれは高速バスの待合所を使ったことはない。だけど、その前に停まった大きなバスに、続々と人が列をなして乗り込んでいくところは見たことがあった。
「あ……」
 最後の角を曲がったとき、俺の目に飛び込んできたのは、それとまったく同じ光景だった。煌々と白光を散らす大きな電灯の下を、荷物を抱えたいくつもの人影がゆっくりと進んでいく。
 もしや、と、不安が胸をよぎった。あいつはもう、バスに乗り込んでしまったかもしれない。
 ぐっと奥歯をかみしめる。せっかくここまで来たってのに、あいつに会えずにバスは無情にも走り去っていきました、とか、そんなオチはあんまりだ。頼むからそこにいてくれ、と、そう願いながら道路脇に自転車を停めて、縛り付けてあった傘を引きはがす。
 ……ところが。
「どうやって外すんだ……?」
 呆然として呟いたつもりだったけど、実際におれの喉から出てきたのは、息を切らせた子供の荒い呼吸音だけだったはずだ。
 だけどおれには、自分の心音しか聞こえなかった。
(クソッ……!)
 目をぐっと見開いて、ロープの結び目を見る。わからない。初めて見る形だった。月と街灯の限られた明かりの下では十分な観察もままならず、どこをどう引っ張れば解けるのか、まったくもって見当もつかない。
 手近な一本を掴んでぐっと引いてはみたものの、びくともしなかった。
 大事な荷物が落ちないように、という配慮としては申し分ないのかもしれないが、やりすぎじゃないかと叫びたい気分だった。
「クソババァ!」
 おれは反抗期に突入した。これほど実の親に罵声を浴びせたいと思ったのは生まれてこの方はじめてのことだった。
 いくらなんでも、こんなときに、こんなことにならなくてもいいじゃないか。そう思っても、頼むからなんとかなってくれと願っても、それでもロープは自分の仕事をやめようとしない。
「マジかよ……」
 おれは絶望した。ロープを掴む指先から力が抜けて、おれの意思に反して腕がだらりと垂れ下がる。視界から肌色が消えたとき、しかし、すっと横合いから伸びてきたものがあった。
 おれよりも、幾分か白い肌。
「ここの、輪っかになってるところを引っ張るんだって。おばさんが言ってたよ」
 あいつの腕と、あいつの声だった。
 このときのおれは、実にアホな表情をしていたと思う。それこそ、あいつが口元を押さえてケタケタ笑い出すくらいには。
 予想外のタイミングで、あいつが現れたことに対する驚きもある。だけどそれ以上に、夜の闇の中、月と水銀灯の光に照らされて淡く浮かび上がるあいつの姿に、どうしようもなく目を奪われていたのだ。
 奇麗だった。あいつのことを、かわいいと思うことはあった。だけど、キレイだと感じたのは、このときがはじめてだった。
 そうか、おれもあいつも、そういえばもうすぐ中学生だ。
 ガキっぽいと、そう思っていたのだけれど。
「どしたのさ」
「え、ああ、いや、えっと」
 呆けていたところに声をかけられて、しどろもどろになりながら言葉を探す。彷徨わせた視線が、すこしだけ形を変えた結び目の上で止まった。
「……次、どこを通せばいいんだ?」
「通すんじゃなくて、次も引っ張るの。かして」
 自転車の前で片膝をついていたおれの隣に、ふわりと女子の香りが降りてきて、ちょっとどきりとした。背丈も大差ない同い年のガキ同士だってのに、ふとした時にこうして性差というものを意識させられてしまう。
(なんで女の子はいいにおいがするんだろう)
 理不尽ではないだろうか。男子なんて汗と埃と泥と油とか、そんなもんばっかなのに。
 などとアホなことを考えている俺の目の前で、あいつの小さな指先がくるくると踊る。ほんの数回ロープの端が動いただけで、あれだけ強固だった結び目がどこかに消え去ってしまっていた。
「すごいな」
「前にあやとりやってた時、おばさんが教えてくれたの。遊ぶだけじゃない実用的な紐の使い方、ってね」
 語彙に乏しい賞賛を口にした俺に向かって口角をぐっと吊り上げて、あいつは自慢げに笑った。縛めから解放された傘が、音もなく転がってあいつの小さな手の中に納まる。
「これ、持ってきてくれたんだ」
 きゅっと両手で傘を握ったあいつが、ゆっくりと膝を伸ばしていく。後を追って立ち上がった俺の前で、あいつはちょっと含みのある、寂しそうな、残念そうな笑みを浮かべていた。
「なんだよ」
「んー……そういうところなんだよなぁ、って」
「……何がさ」
「それを聞いちゃうのがダメなんだよ。そんなに汗だくになって、届けてくれたのは嬉しいんだけど」
 言われて、雨は止んでいたというのにずぶ濡れになっている自分にようやく気付いた。前髪がべったりと額に張り付いているし、着ていたTシャツも半分ほど色が変わっている。
 全力で十分余り自転車漕ぎをしていたのだから仕方ないけど、気になる女の子に会いに行くのにふさわしい恰好ではなかった。
「わ、悪い」
「別に嫌じゃないんだよ? むしろ嬉しいくらい。だけど……うーん……」
 数秒の間、あいつは何かを考えながら、俺の姿を上から下までじろじろと眺めまわしていた。
やがて何か合点がいったかのように一度強く頷くと、唐突に自分の左腕からある物を取り外して、俺に手渡してきた。
 ファンシーなキャラ物の水色。華奢な女物の腕時計。
「貸したげる」
「は? なんで?」
「つけてないでしょ」
「いや、そりゃ付けてないけど」
「いいから受け取る! つける! 深夜になる前に帰らなきゃでしょ!」
 あいつの片手がぐっとおれの腕を掴んで、もう片方の手が半ば無理矢理に掌の中に時計を押し込んでいた。おれはといえば、突然肌に触れたあいつの体温にしか意識が向いていなかったわけで、気付けば俺に時計を持たせたあいつが、後ろ手に手を組んでにこにこと笑っていた。
「……なんで?」
「だから、貸したげるってば」
「だからなん――」
「絶対に返してもらうからね! ちゃんと! 直接! 取り立てに行くから!」
「――おまえ」
 いつからだったのだろうか。
 一見平然と、普段通りにすっきりとした明るい笑顔に見えるあいつの顔は、夜だというのにはっきりと見てわかるくらい、耳がすっかり朱に染まっている。
「……気づけよな、ばか。そういうとこだぞ」
 ちょっとだけ顔を伏せながら、そう言った途端に耳の朱色がさっと広がった。
「す、すまん」
「謝んないでよ! あーもう、なんでこうなるかなぁ!」
 叫んだあいつの背中から、あいつを呼ぶ声が聞こえた。
「――綾!」
 おばさんの声。
 時間だ。
(続)
もうちょっとだけ蛇の足。今日はここまで。次回更新で最後まで書きます。
なんだかずいぶん重くなってきたので。
ご視聴ありがとうございました。
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水子供養
初公開日: 2019年06月23日
最終更新日: 2019年07月03日
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