映画感想は基本的に熱が冷めないその日のうちに書いてしまうのが理想ですが、今回はさすがにモノがモノだけにとんでもない分量になってしまったのと、昨夜休憩しようと横になったらそのまま寝てしまったので前後編です。
 というわけで今回は脳が落ち着いているのでロジカルテキストモードで書いていくとしましょう。
 あ、あと今回も引き続きネタバレ全開なので未見の方はご注意ください。
 モードチェンジ! ロジカルテキストモード!(変身バンク)
 キングギドラに蹂躙される松本市。そして、キングギドラの覚醒に呼応するかのように、怪獣王ゴジラが目覚める!
 この辺の「なぜゴジラが復活したか」も最終的に特に説明はなし。本作は全体的にこのあたりのディティールを捨てて、その分のリソースを怪獣バトルに注ぎ込んでる構成になっていると感じました。そしてこのノリが実に平成ゴジラ。かように本作は「昭和ゴジラの世界観で平成ゴジラのノリを令和ゴジラの技術でやったゴジラ」 といった印象です。「シン・ゴジラ」ほどには科学的・軍事的考証にはこだわらず、昭和ゴジラのいわゆる「怪獣プロレス」のテイストを優先した感じ。
 これはパンフレットにあった記述なんですが、今回は明確にゴジラvsキングギドラの怪獣バトルがメインなので、前作のような下から見上げるアングルではなくゴジラと同じ目線の高さが映えるようなデザインにしているそう。だからこそ今回のゴジラは視線に力を感じるデザインになっていたと感じます。
 そしてゴジラ映画のわくわくポイントのひとつが「ゴジラ出現の予兆」なわけですが、本作はこれを実にうまいことやっています。今回が続編であることを利用して、前作でやったゴジラ出現の予兆である「深海魚が大量に水面に浮く」をやって期待感を煽ってくれます。これは本作にしかできない「ゴジラ焦らし」だったのでとてもいい。
 同時出現した2体の怪獣に対し、大型災害対策事務局がとった手段は、ゴジラ映画のお約束のひとつである「ゴジラをおびき寄せてキングギドラと戦わせる」でした。この辺も昭和ゴジラのテイストを感じます。
 ここで野田局長の「人間のやっていい範疇を超えてる!」のセリフ。これに対して立案者である村上教授は「天の采配」だと言います。予告ではさまざまな印象的なセリフがありましたが、このセリフがここに来るのはけっこう意外……というか言ってしまえば肩透かしでした。
 予告の段階では、この「人間のやっていい範疇を超えてる行為」というのが、お約束の「G細胞から対G怪獣として人為的にキングギドラを生み出してしまうこと」だと思ってたんですよね。まあ本作のリアリティラインを考えるとこの技術水準でG細胞の培養やら新生物の創造やらをやらかすのは難しいかとも思いますが、もうちょっとこう倫理のハードルの高いところを棒高跳びしてくれてもよかったと思います。
 そこに関連すると、本作の実質的な主人公とも言える村上教授ももっとこうマッドサイエンティストレベルを上げてても良かったんじゃないかと思います、というか言ってしまえば村上教授、マッドさが中途半端で残念なんだよな。それはお前がマッドサイエンティストキャラが好きなだけなんじゃないの?と言われるかもしれませんがそうです。
 村上教授、予告の段階ではこれもしかして芹沢博士かそれに類するポジションのキャラか?と思ってて、まあ部分的にはそうだったんですがそれならそれでもっとこう倫理を逸脱したマッド野郎であってほしかったという想いがあります。言ってしまえば本作は、後述する原爆投下後の凄惨な広島の光景や想像とはいえゴジラが米国を直接攻撃するという描写は容赦なくまたショッキングなものでしたが、この村上教授の狂気に関してははっきり言って腰が引けてると言わざるを得ません。マッドサイエンティストなら生物兵器のひとつも生み出してみせんかい白神博士を見習え!
 前作の戦いのときに採取したであろうG細胞を保管しており、さらに生きたG細胞を求めている、夜中にひとり研究室で狂気的な笑みを浮かべるという匂わせもしっかりやってる上でこれなのでなおさら腰引け感が強かったです。
 そもそも本作、キャラに従属するストーリーラインがけっこう混線してるんですよね。本作におけるストーリーラインは敷島ライン、村上教授ライン、野田ラインの3つになってると思うんですが、このうち敷島ラインと村上教授ラインがどうも変な絡み方をしている感じ。
 敷島の物語である「死に損なった男」「ゴジラに激しい憎しみを燃やす男」の物語は前作で完了しており、本作では敷島は対ゴジラ戦の戦闘要員としての役割が強い。後半ではG細胞の唯一の適合者である典子をゴジラの誘引作戦の要として半ば奪われる形で作戦に参加しています。なので今回の敷島の感情は「ゴジラへの憎しみ」ではなく「典子を失う危険」に向いています。なので今回敷島はゴジラに対して強い敵対意識を持っていません。前作は敷島をはじめとする「第二次世界大戦に関った人々の戦後処理」という側面がありましたが、今回は少なくとも敷島にとっては戦後処理は終わっており、日本はまだ十分に復興してはいないとはいえ典子や明子との平穏な生活は手に入っているんですね。
 これに対して、今回ゴジラに対して激しい憎しみを燃やす役どころとして配置されてるのが村上教授。彼はゴジラ以前に、そもそもその根源となっているあの忌まわしき広島への原爆投下のその場におり、そこで妻子を焼かれています。そういった意味では、彼は敷島以上にゴジラへの、ひいては原爆、さらには原爆を投下した米国への憎しみを抱いている人物なんですよね。なので、ストーリーライン的には今回ゴジラと直接的に対峙するべきは村上教授のはず。
 しかし今回、二大怪獣が激突する場に乗り込む二式大艇に同乗していたとはいえ、ゴジラと直接対峙するのはやはり敷島の方。なので、敷島と村上教授はどうもお互いの立場と役割が入れ替わってしまってる感がありました。
 本作を見た人は必ず言及しているであろう、村上教授のあのあまりにも凄惨かつ直接的な原爆投下後の回想、そして想像とはいえニューヨークの、ひいては米国の象徴とも言える自由の女神像を破壊し、ビッグアップルを火の海にするゴジラの姿。ゴジラ映画数あれど、これほど凄惨に、そして直接的に原爆投下後の「ヒロシマ」を描いた作品はないでしょう。ここに関しては本当によくやれたものだと思いました。反戦・反核を叫ぶのは簡単ですが、ゴジラという原爆投下から生まれた作品を通して反戦・反核を叫ぶなら、「その対象である戦争と核兵器がどういったものかを直接描くこと」は決して避けられない部分であり、本作はそこを真正面から描いたと言えます。
 さらには、これまで数しれないランドマークを破壊してきたゴジラが、ついに自由の女神像を破壊するあのシーン。村上教授の米国への憎しみをその米国が投下した原爆から生まれた怪獣であるゴジラに仮託しているというのがあまりにも皮肉。そして見ている側にとっても、正直「よくぞやってくれた!」と暗い歓びを覚えざるを得ないシーンでした。あれ、「初代ゴジラ」や「シン・ゴジラ」での「制限時間内にゴジラを倒せなければ核を投下すると圧力をかけてくる米帝」そして「もしゴジラが出現したのがアメリカ国内であっても、自分たちは同じ選択肢を取る」に対しての「お前それ本気で言ってんだろうな?ゴジラが出現する=自国内に核が投下されるってのは『こういうこと』だぞ? 核が落とされたあとは『こう』なるんだぞ?」だと受け取りました。そしてこの作品、ニューヨークプレミア映画祭で最速上映してるんですよね……。このシーン、どんな空気だったんだろうか……。
 思えば本作のキャッチフレーズである「三度目はない」は、「(結局そうはならなかったけど)今回でゴジラを完全撃滅するので三度目はない」「前作での米国による三度目の原爆投下が防がれたので今回も三度目の原爆投下はさせるわけにはいかない」という意味の他にも、「現実においても三度目の原爆投下はあってはならない」という意味も含まれているのかも……と思いました。
 そもそも海外産のゴジラ映画では、どうも根本的に核兵器というものを「威力のでかい爆弾」程度にしか認識・描写していないという不満点がありました。これはもう日本と海外の歴史的、根源的な差異なので仕方がない部分ではあるし、被爆国でない海外が迂闊に描写していい部分でもないということは理解しています。でもここ、間違いなく本作での喝采ポイントであることは否めないと思います。喝采しちゃいけないんだろうけどさあ。欲を言うならここ、予告でも自由の女神との大きさの対比でとてつもない衝撃を与えてくれたここ、空想じゃなくてほんとにやってほしかった……。
 ……だからこそ、これだけお膳立てされておきながら結局善人ポジションに収まってしまった村上教授があまりにももったいなすぎる。ゴジラ誘引作戦に用いる共鳴装置の要として典子が用いられる展開も、教授が強引に典子をさらっていくとかせめて典子から生きたG細胞を摘出するとかくらいはしてほしかった。共鳴装置の要として用いられた典子にしても、多少頭痛がするくらいであんまり危機感がない。パンフレットには完全に半身がゴジラ化した典子の姿が掲載されていますが、ここまでやらなくても共鳴装置に繋がれてる間、侵食が徐々に進んで……といったくらいはやってほしかった。それくらいするポテンシャル=ゴジラへの憎しみが村上教授にはあったはず。村上教授ーーーッ!! もっと人倫を踏みにじってーーーッ!!(最低の応援)
 
 そして、第三のストーリーラインである野田局長。おそらく前作でも野田は特攻兵器の開発に関わっていることをほのめかされていたはず。その彼が、一度は平穏な生活を手に入れた敷島を再び戦いに引き入れてしまった後悔はいかばかりか。そして今回も野田は、人類の叡智を尽くして怪獣たちとの戦いに挑みます。
 村上教授が狂気の科学者ならば、野田は正気の科学者だと言えます。実際、作中で復讐心に駆られる村上教授を野田がが諌めようとするシーンがあります。ここらへんもう少し両者の立場や思想からの対立を描いてほしかったし、野田と村上教授の関係性にもっとフォーカスしてくれても良かったと思います。
 野田は前回に続きブレインとなって怪獣たちとの戦いに挑む重要なポジションにいて活躍しますが、なんだかどうも各キャラとの感情的、情緒的な部分での関わり方が不十分だったように思えます。なんというか、あっちのキャラとかかわらせるとこっちのキャラとの関わりが不十分になり……という感じ。本作の全体のストーリーラインから見ると、やはり村上教授との関わりをもう少し掘り下げてほしかった気がします。
 そして、これは大ネタバレなんですがあの退場の仕方はかなりズッコケというか無理矢理感があったというか死ぬならそこじゃないしそういう死に方でもないだろと正直思いました。
 まああの背景には、かつて特攻兵器という忌まわしい兵器開発を手掛けておきながら自分が生き残ってきた負い目があり無意識に死に場所を探していたという、いわゆるサバイバーズ・ギルトがあるとは察せられはします。
 でも、そうならなおさらあの死に方と死に場所はないだろと思ってしまいます。人員が負傷して動けない中、断線した装置を単独で補修しに行くという流れで転倒した車から脱出できなくなり、爆発に巻き込まれて死亡。
 本作は面白い、すごい作品ではあるもののけっこうなダメポイントがあるんですが、いちばんのダメポイントを上げるとするならここでしょう。死に場所を探していたキャラに死に場所を選ばせなくてどうするんだよ。
 だいたいこの流れなら、「故障した爆破装置を手動で起動するために装置もろとも自爆」とかなんとでもできたし、むしろその流れだったと思います。ここはメインキャラ死亡のショックよりも作劇的必然性のなさのショックのほうが上回ってしまいました。ここは明らかにキャラの扱いを失敗してると思います。
 かように本作、正直なところストーリーラインのもつれやキャラの行動や立場のちぐはぐさがかなり目立つ作品ではあります。それに、展開が早いのはいいんですが、前作があるとはいえキャラの関係性の掘り下げももう少しやってくれ!と思わずにはいられません。人間ドラマパートは置いてけぼり感がややあった感じです。
 そして、満を持してのゴジラvsキングギドラの大怪獣バトル……なんですが、これは日本製ゴジラ映画の宿命とも言えるかとは思えますが尺が短い! 予算規模の桁が違うでしょうから仕方ないとはいえ、ここらへんはどうしてもモンスターヴァースシリーズには劣ってしまいます。今調べてみたら、「ゴジラxコング 新たなる帝国」の予算は1億3500万ドル、対して本作の予算は公表されてはいないそうですが、前作は約1500万ドルだそう。
 そもそも海外産ゴジラ作品と怪獣プロレスという土俵で正面から戦うのはだいぶ不利なんですよね。範馬勇次郎も「競うなッッ持ち味を活かせッッ」って言ってるし。
 ですがその短い尺の中に注ぎ込まれたゴジラvsキングギドラのバトル自体はすっっごくよかった! 人類側も必死こいて頑張ってますが、激突する二大怪獣の足元では右往左往するばかり。前作はゴジラと人間との距離が近く、だからこその恐怖と絶望感を演出していましたが、本作では逆に怪獣を「人間からはとても手の届かない存在」という心理的隔絶感を持って恐怖と絶望感を演出しています。我々人類などこの強大な存在の前ではありんこ同然でしかないのだ……。(恍惚)
 ゴジラは作品ごとに微妙に、あるいは大きくデザインを変えています。パンフレットによれば設定上の身長は前作と同じだそうですが、やはり空想のシーンとはいえ例の自由の女神像との対比があるので心理的な巨大感が圧倒的。
 そしてゴジラのトレードマークとも言える背びれが今回はかなり巨大化しており、正面から見ると頭の位置を越えるほど長大で、まるで一本角の鬼のように見えるシーンがありました。
 また、背びれと同じくゴジラの印象的な部位であり代表的な武器でもある尻尾、これにも今回新しいギミックが搭載されていました。先端部の背びれのみを励起させて斧のように振り回し、キングギドラの首を一閃!
 ゴジラ映画に期待するポイントはたくさんありますが、その中のひとつがやっぱり「新しい武器や戦い方」ですよね。「シン・ゴジラ」の全方向体内放射にも驚きましたが、今回のこれもこれまでにない技であり、ゴジラの「進化する怪獣王」たる側面を見せつけてくれました。
 対するキングギドラもまた負けてはいません。「印象的な場面」を通り越してもはや宗教画の趣すらある「三大怪獣地球最大の決戦」にて鳥居を破壊するシーンを完全再現!このシーン、もはや「東京タワーに繭を作るモスラ」と並ぶ「この怪獣を出すなら絶対にやらなきゃいけないシーン」と言えます。たった今も「キングギドラ」でググったら「鳥居」がサジェストされたしな。
 これ、マイケル・ドハティ監督が絶頂してるんじゃなかろうか。かく言うわたくし人形使いもここはさすがに声が出そうになりました。あぶねえあぶねえ。
 そしてキングギドラの長大な三本首を活かしたファイトスタイルがまた個性的。その機動性を活かして素早くゴジラの背後に回り込み、長大な首で締め上げる! この辺はまさに「怪獣プロレス」といった感じ。さっき「予算の規模の差で怪獣プロレスパートは海外産ゴジラ作品には負ける」と言った舌の根も乾かないうちに何ですが、怪獣プロレスに割ける尺の長さでは海外産に軍配が上がるとしても、瞬間最大風速では国産に軍配が上がると思います。あとゴジラvsキングギドラのバトルに関しては、「GODZILLA 星を喰う者」でギドラが直接的な実体を持たず肉体がぶつかり合うバトルがなかったことを未だに根に持っているわたくし人形使いとしては拍手喝采でした。
 さらにそれだけでは終わりません。最終局面、必殺の放射線流を放つゴジラに対して、キングギドラはさらに形態変化、顔つきはゴジラに近いものとなり、金色の皮膚は黒く変色し、そして背中にはゴジラ同様の青白く発光する背びれが!
 キングギドラ最終形態、Gギドラ!
 当然、これは公開前には一切リークされていなかった情報なのでひっくり返りました。
 これまでスペースゴジラやメカゴジラといったようなゴジラを模した敵怪獣はいましたが、ゴジラの正統派ライバルポジションとも言えるこのキングギドラをゴジラ化するというアイデアは白眉というか反則技というか。
 そのGギドラがゴジラと同様の放射線流を放ち押し合いになるシーン、「手に汗握る」という言葉がありますがほんとうにそうなりました。
 そして、ゴジラの背びれがさらに励起しダメ押しの一撃! ほとんどドラゴンボールじゃねーか!
 爆散するキングギドラ。
 そして生き残ったゴジラには、米軍が攻撃を仕掛けます。壊滅的なダメージを受けた敷島たちはそれを呆然と見守るしかありません。
 米軍はさらにお約束のごとく、攻撃を中止しゴジラの保全を命令。同時に関係者の拘束を命じます。
 そんな中、敷島はこの事態を見越していた野田が用意していた秋津と水島による脱出経路によって、米軍の目をかいくぐり脱出します。しかしそんないつ終わるともわからない逃避行に、幼い明子を連れて行くわけには行かない。しかし……。
 結局敷島と典子は、明子を連れて三人の逃避行に向かいます。その行く先には果たして平和な暮らしが待っているのか、それとも――。
 ……といった感じで本作は終了。
 正直なところ、これまで書いてきたようにシナリオやキャラの行動や扱いにはけっこう穴がありましたし、説明不足なところも多くありました。そういや最後にゴジラが大人しく帰っていった理由もよくわからなかったしな。
 でも、これまでは記録映像とかセリフの上でしか表現されることがなかったヒロシマのあの惨状を明確に描き、さらに空想とはいえ米国の象徴たる自由の女神像をゴジラが破壊しニューヨークを火の海と変えるあのシーンを世界に向けて描いたゴジラ映画という点で本作は極めて衝撃的であり、なおかつそれらの出来事を「ゴジラという怪獣の根源として明確に、あからさまに描いた」という点で他のゴジラ映画……というか「エンターテイメントとしてのゴジラ映画」とは一線を画すゴジラ作品になっていたと思います。
 これまたわたくし人形使いの個人的な恨み節なんですが、2014年のギャレゴジのラストでニュース番組に「怪獣王は救世主か?」ってテロップが出るシーンがあったじゃないですか。あれにすごく違和感というか、もっと言えば「それはいくらなんでも違うだろボケナス」くらいの気持ちがあったんですよね。そりゃゴジラは国民的アイドルという側面も東宝を代表するマスコットという側面もあります。しかし「救世主」は違う。人間を救ってくれる存在になるはずがないんですよゴジラは。
 ゴジラは原爆投下という暴虐と惨禍から生まれた荒神(アラガミ)であり、憎悪の塊でもあります。それを打ち倒すことはただの戦闘・戦争などではなく「ゴジラという巨大な荒御魂に集約され仮託された憎しみと恨みを打ち倒すことで、それら恨みや憎しみを払う」という、いわば魂鎮めの儀式なわけです。
 今回の戦いが終わったあとの米軍の勝手な行動はまさにここに強引に介入する行為であり、これもまた本作における反戦、反核、そして反米の意思表示であると思いました。ヒロシマの惨状、前回の惨状、そして今回の惨状を見ていながらなお、ゴジラの保全を命じてくる米帝のこの傲慢さ愚かさ。
 しかしゴジラはそんな人間どもを尻目に、悠々と海を渡って、どこへともなく消えていくゴジラ。
 同じように、バイクに三人乗りでどこを目指すともなく走っていく敷島たち。
 敷島とゴジラは前作でも今作でも敵対関係にありました。しかし、このラストで両者は、どちらも「米帝から追われる側」となったことで両者は同じ存在になったといえます。そして典子は、場合によっては「物理的な意味で」ゴジラと同じ存在になってしまう可能性すらあるという……。
 そもそも今回は(いつものこととはいえ)ゴジラの完全撃滅には失敗していますし、ゴジラがいなかったらギドラの撃滅もならなかったでしょう。
 「三度目はない」というキャッチコピーは、「この状況で三度目の襲撃を食い止める手段は、人類にはない」という意味にも取れます。
 しかるに本作のラストは、三人でバイクに乗っているあの瞬間だけはつかの間のハッピーエンド……だけど、そこから先は明らかな悲劇が待っていることが確定しているというサッドエンドと見ました。
 3作目……あるんでしょうかねこれ。ここから3作目というのもやるべきことはすべてやったと思うので蛇足感が強くなりそう。あるいは、マイナスを取った「ゴジラ・ゼロ」が来るとか?
 まあどうなるのかはゴッドミソスープですが、久々にとんでもない量の長文を書いたのでもうそろそろ寝させてください……。
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【ネタバレ注意!】塚口サンサン劇場「ゴジラ-0.0」見てきました!その2
初公開日: 2026年11月04日
最終更新日: 2026年11月05日
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