でも、今はもう――。
あの時は、目のまえにほんとうにいる神さまに驚き、感動もしたし、どこか歌のように聞こえるあの不思議な声のようなものにも安らぎを感じていた。
けれど、弟を失ってしまった今はもう、そんな記憶も他人事みたいに遠い。
弟を失って、なにもかもが変わってしまった。
文字通り半身を失ったぼくはベッドから立つこともできなかった。動けないからじゃない。
立って歩くと体の左側がどうしようもなく軽くて、一歩歩くごとに弟がいないことを実感しなくちゃいけないからだった。
ぼくの世界は、この白い壁と白いカーテンと白いシーツに囲まれた病室だけだった。
そう、ぼくはもうずっと、この部屋から出ていない。
鉛が詰まったみたいに重い頭を上に動かすと、ベッドのヘッドボードにかけられていた偽翼は、もうそこにはない。弟が生きていた頃のように、偽翼を着けてたくさんの教団員の前に出ることもなくなった。
大人たちの事情はよくわからない、けれど、ぼくらは体がつながった双子だったからこそ、このマルクト教団内で特別扱いされていたということくらいはわかる。もちろん、そんなことは誰にも言わないけれど。
つまり――ぼくはもう、なんの特別さもない、ただの子供ということだ。偽翼を背負う資格もなく、ここにいる誰とも違う、弟とひとつの心臓を共有している特別な存在でもない。ただの子供になってしまった。
ぼくは……ぼくは、無価値……なの?
▲
お祈りに行かないか。
どのくらい久しぶりかももう覚えていないけれど、久しぶりに病室を訪れたコリエル1号さまがそう言ったのは、秋を過ぎて、窓の向こうから冬の冷たさが忍び寄ってくる頃だった。
行く理由もなかったけれど断る理由も思いつかないし、1号さまがぼくを気遣って言ってくれているのがわかったし、
なにより……縋れるときに誰かに縋っておきたかった。
1号さまが押してきてくれたストレッチャーは一人乗りで、研究天使の人たちに抱えられてそこに座らされたぼくは、さみしいような落ち着くような、どっちつかずの気持ちになった。
1号さまが「お祈り」という時は、上層階にある祈祷の間じゃなくて、このマルクト教団本部「神経塔」の最下層「聖域(サンクチュアリ)」に行くことになっている。
そこには、マルクト教団が信仰し、守っている実在する神……創造維持神がいる。
弟がまだ生きていた頃は、こうやって1号さまに連れられて「聖域」に来ていた。そこで創造維持神から聞こえる、歌のような不思議な声を聞いていると心が休まって、なにより隣で寝ている弟も同じように安らいだ顔をしてくれていたのがうれしかった。
けれど、弟がいなくなってからぼくは、一度も「聖域」に降りたことはなかった。
※ここ以降の改変は第2章後半(神との交信ができなくなる)に配置する
「歌声が聞こえます」と言うと、1号さまは落ち着いた声で「お前には聞こえるのだね」と言った。他の人には、この声は聞こえないのだろうか。
ぼくはエレベーターの上で目を閉じて、その歌声に耳を澄ませていた。やがて大きな音と振動とともにエレベーターは止まった。
エレベーターの目の前の、高い天井まで届きそうな大きな扉がゆっくりと開いていく。
その向こうに見えたのは、長く深い暗闇と、淡い光に照らされた通路だった。
1号さまにストレッチャーを押してもらいながら、ぼくは廊下を進んでいった。聞こえてくる歌声は、すでに耳じゃなくて頭の奥で聞こえるようになっていた。
これまで聞いてきたどんな言葉とも違う、不思議な声。
やがて、暗くて細長い通路の向こうに「それ」は見えてきた。
ここに入ってきてから……ううん、エレベーターの中にいるときから聞こえていた歌声は、床や天井を這う血管みたいなコードやケーブルに繋がれた「それ」から聞こえてきていると、ぼくは直感的に思った。
「これが、我々マルクト教団の擁する、実在の神――創造維持神だ」
「それ」の姿かたちは、何枚もの透明なガラスの箱に閉じ込められていてぼんやりとしか見えない。どくん、どくんと脈打つ「それ」を見ているうちに、ぼくの両手は自然とお祈りの形に組み合わさっていた。
「1号さま、さっきから聞こえる声……」
「誰にでも聞こえるわけではない。お前は、マルクトの天使たちの中でも特別に強い力を持っているのだ。神の声を聞くための」
「神さまの、声……」
1号さまも、ぼくの乗ったストレッチャーの後ろから「それ」……創造維持神に視線を向けている。
「1号さまにも、この声が聞こえるのですか?」
「お前ほどではないがね。だが、我々は未だ、この神の言葉を解明するに至ってはいない。神と言葉を交わすことはできていないのだ」
「……」
神と言葉を交わす。
それができれば、弟を返してと願うこともできるんだろうか。