ボケっとしてたら明日にはもう「ゴジラ-0.0」が公開ですよ。こちらはすでに我らが塚口サンサン劇場でチケットを取得済み。
そしてもう11月になったというのにあれも見てないこれも見てないという状態で大変です。特に「ディガー」がTwitter(頑なにXとは呼ばない)にて「絶対に映画館で見るべき映画」と言われているので早く観に行きたいですが、多くの映画館ではすでに上映回が早朝に押しやられてしまっているという。
サンサン劇場でやってくれそうな気もしますがネタバレが心配なので早々に見ておきたい。
というわけで今日見てきたのはこの作品!
本作も公開されてかなり時間が経ってしまいましたが、幸いにして致命的なネタバレもなく見ることができました。
例によって例のごとく前情報はなし、映画館で見た予告編の、ロトスコープを用いているであろう子どもたちの生々しい動きと意味深なタイトルが気になって脳内鑑賞リストに挙げていましたがようやく見ることができました。
主人公である小学3年生、後藤翼は内気で普通である自分に悩んでいました。そんな中、翼はクラスの人気者、星暁太郎と出会います。人懐っこい性格の暁太郎と翼はすぐに意気投合し親友となります。
しかし、ほんのささいな事件をきっかけに二人の仲はだんだんとズレはじめ、疎遠になっていきます。そしてクラスの女の子、目黒小夏を巡る事件をきっかけに二人の関係には決定的な溝が。
それから時は流れ、進学から就職と順調な人生を送る翼とは対象的に、暁太郎は荒んだ生活を送っていました。そして、翼の居場所を掴んだ暁太郎は……。
ストーリーに関しては言いたいことが多すぎる&言語化しづらいので後回しにして、まずは映像に関して。
前述の通り、本作はロトスコープを用いた作品であり、キャラデザもいわゆるアニメアニメしたものではありません。そうした生々しさは人物のみならず背景美術にも徹底されています。
本作の大部分は小学校が舞台なんですが、なんかもう見てて木の机の匂いすら漂ってきそうなほど写実的なものとなっています。しかもこれは、「実在する小学校をそのまま写し取った」というような感じではなく、まるで自分の記憶の中にある「小学校」というイメージをそのまま脳内から抜き出したかのような情景なんですよね。「ノスタルジーをそのまま描き出した」とも言えるかも。
本作はストーリーもかなり重いんですが、人によってはこのノスタルジーを強力に喚起してくる背景美術だけでダメージを受けることもあるんじゃないでしょうか。
本作の大きな構成要素のひとつが「幼少期の記憶」なんですが、本作の背景美術は見るものに強制的に幼少期の記憶を引き出す魔力があるとすら感じました。
そして人物の起居動作もまた生々しい。Twitter(頑なにXとは呼ばない)の公式アカウントにて「大人が歩いたり走ったりするとき、身体は無意識のうちに効率よく動こうとします。しかし子どもたちは、歩きながら突然壁に触れたり、首を動かしたり、思いがけない方向に身体を揺らしたりします」という記述がありましたが、大人になった二人が登場するパートと小学生の二人が登場するパートを思い返してみると、確かに過去パートの方が動作の要素が多い気がします。
あと、小学校といえばランドセルですが、小学三年生の二人が動き回るシーン、ちゃんとランドセルの重さが感じられるんですよね。実写をもとにして撮影してるのなら当然と言えるのかもしれませんが、「アニメを見ててランドセルの重さを感じさせられる」なんて経験は初めてでした。
また、随所にある細かい細かいこだわりもこの作品の生々しさ(あえて「リアリティ」とは書かない)を高めていると感じました。言ってしまえば本作の小学生パート、大量の「やったやった」で出来ていると言えます。ランドセルに傘を横にして刺してたり、雨の日に傘をひっくり返して遊んだり。作中の大人パートではスマホではなくガラケーが出ていることから作中年代は平成初期から平成中期くらいだと思われますが、その平成初期くらいに小学生だった人たちにとってはこのへんはたいてい「やったやった」だと思います。
そして本作の映像面でいちばんすごいと思ったのが、トイレに隠れてる翼を暁太郎が囲いを登って覗き込むシーン。暁太郎は窓から差す陽光を背にしてるんですが、その陽光で暁太郎の耳朶の薄い部分が赤く透けてるんですよね。
わたくし人形使いも一介のオタクとしていろんなアニメを見てきましたが、こんな描写をしてる作品は生まれて初めて見ました。劇場で思わず声が出そうになりましたここ。
さて、ストーリーに関してですが、いわゆる「青春モノ」の切り口でここまで残酷な描写ができるものなのかというのがまず率直な感想です。
思うに、本作の小学生パートで描かれる一連の事件は、正直なところ大した事件ではないんですよね。人命が失われたわけでもなく世界が滅びたわけでもない。この程度の出来事は現実世界でもそこかしこに転がっているでしょうし、実際にこういう経験をしたって人だって珍しくはないでしょう。
小学校では親友だったけど、進学や就職をきっかけに疎遠になって、今や名前も覚えていない友達なんで誰にでも心当たりがあるでしょう。
ふたりの関係がこじれてしまった最初の事件は「翼が持ち出してきた母親のお気に入りの傘を暁太郎が壊してしまった」という取るに足らない出来事です。そこから関係がこじれて疎遠になって……なんて話は、フィクションの中でやるにはあまりにもドラマチックではないありふれた出来事。
しかし、この「ありふれた出来事」というのはあくまで大人の視点から見た感想。本作では、小学三年生という、ごくごく限定的な社会と世界の中で生きている翼や暁太郎にとっては、作中で描写されていた「隕石が降ってきて世界が滅んでしまう」というレベルのカタストロフである、ということをあまりにも鮮烈に描き出しています。
特に、翼が壊された傘を隠しているのを母親が見つけるシーンや、その罰として隠されていた携帯ゲーム機をこっそり持ち出しているのがバレるシーンなどは、母親がもはや怪物として見えるほどの異常な緊張感と恐怖がスクリーンから伝わってきました。
前段で本作の小学校を「自分の記憶の中にある『小学校』というイメージをそのまま脳内から抜き出したかのような情景」と書きましたが、この「まだ自宅や学校という限定的な社会・世界しか知らない子どもから見た世界」の描写が本作では異様に上手い。
後半に来る二人が成長したあとの社会人パートとは、どこがどうと言語化するのが非常に難しいですが明らかに差別化されて描かれていたと思います。今書いていて気づいたんですが、両者の違いのひとつは「引きのカメラアングルの有無」のような気がします。
小学生パートでのカメラアングルは、翼と暁太郎のふたりの世界の狭さや小ささに合わせるように比較的寄ったカメラアングルが多いのに対し、社会人パートではまるで突き放すかのように引いたカメラアングルが多い……ような気がする。
この「突き放したかのようなカメラアングル」がいちばん効いてるのが暁太郎の社会人パートでしょう。順調に進学、就職した翼とは正反対に、暁太郎は小学校でのトラブルを引きずり続け、就職もできずにティッシュ配りのバイトでなんとか糊口をしのいでいるという状況。
このパートで、家の外では人混みに、家の中ではバイト先から持ち帰ったティッシュにうずもれて描かれる暁太郎の惨めさたるや……。ここ、カメラの距離がそのまま暁太郎のような人間に対する世間の視線として使われてる気がします。そして、今この現代社会に暁太郎のような境遇の人間はそれこそ珍しくないほどありふれているわけで……。
ここ、見てて本当に辛かった。フィクション作品でここまで人間を惨めに描くことができるのかと思うほどでした。フィクション的なドラマチックさも大げささもない、ただただ本当に惨めなシーン。
そこから暁太郎は復讐に走るんですが、ここで翼はその理由をまったく思い出せず「なんのこと?」と言う。おとなになってしまえば子供の時のちょっとした諍いなんてなかったことになってしまうもの。しかし暁太郎は違う。
暁太郎の人生はあのときのまま止まっている。だからこそパーカーを脱いだ暁太郎の姿は小学生のときのまま。
そしてここで象徴的だったのが、翼を襲う暁太郎の武器。小学生パートでふたりは、「この世で一番痛い注射針」について話すんですが、翼が考えたのがギザギザがついた鋭い針だったの対し、暁太郎が考えたのが先端が丸い針なんですよね。暁太郎曰く、「なかなか刺さらないから痛い」。
この暁太郎による襲撃こそ、この針が翼に刺さった瞬間ってことでしょう。忘れても過去は消え去らない。
……で、凡百の作品ならここで暁太郎を対話不能の怪物として描いてしまうでしょうし、この流れだとそうなるのがむしろ自然だと思います。ここの暁太郎は暁太郎本人ではなく、翼が忘れ去った過去そのものという描写もまったくアリでしょう。
しかし本作ではそうはしなかった。ここの暁太郎は怪物でも幻でもなく暁太郎本人。……だからこそここでまさかの対話が来るんですよね。これはある意味、怪物に殺されるより幻に取り憑かれるより恐ろしい展開と言えるかもしれません。なにせ実体を持った「過去」がそこにいるんだから。
そこからの結末。和解でも破滅でもない別れ。
ラストシーンまで見て思ったのが、翼と暁太郎はそれぞれの辿っていたかもしれない可能性だったように感じられました。そしてあの、両者が別方向の道路に別れていくラストカットは、お互いがお互いに抱いていた憧れや憎しみを認識しつつ、そこから手を離すという和解でも破滅でもない第三の回答だったんじゃないでしょうか。
この「和解でも破滅でもない第三の回答」は、「ロボット・ドリームス」にも感じたポイントでしたね。
通して考えると本作は、「もうどうにもならない過去との解決」だったのかなと思いました。
そしてタイトルにある「宇宙人」の意味。これについては、子供のとき特有のあの、限定された社会、世界で生きているからこその「大人の社会や世界という重力」にまだ囚われていない、ごく限られた時期にだけ享受できる自由さだったのかなと感じますね。