死に際の、あの老人の瞳。ただ老いて正気を失っただけの人間が、あんな目をするだろうか。
もう一度、「神像」を見上げる。
自分のの中で、なにも疑ったことがなかったはずの信仰がなにか別のものに変質し始めている。アキラはそれをはっきりと自覚した。
「おい、どうした? 早くしろよ」
後ろから声をかけられ、アキラは我に返る。
このまま、昨日までと同じように器に「拝水」を掬って自分のねぐらに帰れば、これまで通りの日常が戻ってくるだろう。そして、アキラの疑念はこれまでの日常に飲み込まれて忘れられてしまうだろう。
そうなれば、もうこれまでの日常という流れの中からは逃れることができなくなる。流されるまま、これまでこの地下世界で暮らしてきた人々と同じように、いつしか同じように咳き込み始め、同じように苦しみを経て、そして同じように死んでいくことになるだろう。――キョウコのように。
アキラは反射的に「神像」の前から駆け出していた。それしかできなかった。
背中に小さなざわめきを感じながらアキラは「神像」の間から飛び出し、でたらめに走った。とにかく今は「神像」の前から、そこに集う群衆から――そしてできるなら、この地下世界から、彼の知るこの限られた世界から逃げたかった。
「神像」から、群衆から離れることはできた。しかし、走っても走っても地下世界からは逃れられない。薄暗くカビ臭い空間は、まるでこの世の全てであるかのようにどこまでも続いている。
「はあっ、はぁっ、はぁっ……」
アキラの激しい喘鳴が、どこまでも続く薄暗い通路に反響する。その反響が聞いたこともない不気味な怪物の咆哮に聞こえて、アキラは身をすくめた。
無目的に走り続けて疲れ果てたアキラは、通路の冷たいコンクリート壁に背を預け、ずるずるとへたり込んだ。たまらず走ってきたが、ここはどこだろう。
地下世界はどこも同じような構造をしている。どこも四方はコンクリート壁に囲まれ、血管のようにパイプが張り巡らされている。だが、そのパイプの配置や向かう先からおおよその位置や行き先を把握することはできる。
呼吸を落ち着けて、アキラは改めて周囲を見渡した。自分の体力を考えても「神像」の間からはそれほど遠くではないはずだ。それに、天井のパイプの配置にはどこか見覚えが――。
と、アキラの視界をなにかがかすめた。壁面を走るパイプの端。そこになにかが引っかかっている。ボロボロの布切れ。
「――っ!」
電撃のように記憶がよみがえってきた。
あの老人の着ていたボロキレだ。ここは、あの老人が死んだ場所なのだ。
アキラの身体が一瞬、驚愕と恐怖に引きつり、そして吐息とともに弛緩する。あの老人はもうここにはいない。誰もいはしない。
「なあ、じいさん……」
アキラはパイプに引っかかって頼りなく揺れる布切れに話しかける。
「あんたが言ってたことは本当なのか? 妄想じゃなくて、本当にあの水が、俺たちを殺しているのか……?」
その問いに、ただの布切れが答えることはもちろん、ない。代わりに――闇の奥から、別の声が答えた。