パブロフの勇者
かつて、世界は魔王と呼ばれる魔物の長が支配を目論んでいた。
それを食い止めるために女神は勇者を選ぶ祝福の光で“勇者”を照らし、魔王を討伐する使命を授けたという。
そんな書物を読んだ老けもしない手でぱたりと書物を閉じ、焚き火の前で見張り番をしている片目だけが真っ黒に染まった“預言者”に声をかけた。
「これ、いつから読まれてるんだ?」
「魔王が初めて出た時から始まったんだよ」
「それって、いつ?」
「……百年以上前だろうな」
預言者の名前は“アリア”と言い、その勇者に選ばれた俺を守るためにこうして今も旅を続けている。
焚き火に照らされたアリアの顔の後ろから、影よりも濃い暗黒の召喚獣がひょっこりと顔を出す。“アビス”という名前の闇属性の奇妙な形をしている召喚獣だった。
「アリア、火が小さくなっている」
「ああ、悪い……ありがとな、アビス」
アリアが焚き火に薪をつぎ、再度、俺を見て「もう寝ろ、勇者カイル」と呟いた。
アリアに言われるがままテントに入り、ごつごつとした床に腰を降ろす。
あの預言者、アリアに出会ったのは特徴もない平凡な村だった。変わり映えもない日に祝福の光が降り注ぎ、突如として俺を勇者だと皆が認め始めた。その頃の俺は勇者なんてものになれるほど勇気なんてなかったし、たった一人で村を出されて魔物なんてものに剣一本で挑まされた。
足が、がくがくと震えて呼吸も乱れていたあの日を簡単に思い起こすことができるほど今でも恐怖が渦巻いている。それでも、今もこうして立っているのは死にそうになった途端にアリアが不意に現れたからだ。
アビスを肩に置いたまま腕を剣のようにして魔物を薙ぎ払って、俺に手を差し伸べた。
アリアはその時から、俺の“たった一人の勇者”だった。
魔王を倒して、勇者としての役目を終えた今の俺だけの勇者だ。
身体が眠気に襲われ、一枚の毛布に沈んでいく。どこか心地良いような懐かしさを覚えながら、意識を手放して呑まれていった。
 火が消えるさまを見つつ、アリアの古傷だらけの手に視線が動く。
アビスは尚もアリアの周りをくるくると動いては口も動きを見せている。俺は、少し軽く感じ始めた剣を振り続けていた。
しばらくして、アリアが出発の準備を始め、俺も手を動かしていく最中に一言だけアビスが呟いた。
「カイルはよくやったな」
それに俺は「何を?」と返し、アビスに言葉を促した。
「魔王だ。お前は勇者としての使命を成し遂げた」
「……しょうがないだろ、勇者なんだから」
「それが別れの種にもなるということを忘れていないか?」
「だから、しょうがないじゃないか」
一体、何なんだ。何が言いたいんだ。
「お前も一緒に来ないか?」
俺も一緒に?何に?誰と?
「カイル、もうお前は勇者じゃない。“元勇者”なんだ」
元?
「どうして我らが勇者を導くのか、不思議に思ったことはないか?」
「……そんなの、“預言者”だからだろ」
「残念ながら書物にはそんなことは書かれていない。最も、お前が読んだのが、ごく一部であるから分かるはずがないのは分かっているが」
「結局、何が言いたいんだ。何で俺についてきた?何で俺を守ってきた?」
アビスは俺の言葉にため息をついて、いつの間にか手を止めていたアリアに話すように声をかけた。アリアは少しだけ止まって、首を縦に振って口を開く。
「カイル、俺は……いや、こんなことを急に言ってもしょうがないだろうけど……俺は、初代なんだよ」
「……何の?」
「勇者、の初代だ」
「百年以上も経ってるのに?」
「分かってる、でも聞いてくれ。本当に俺は初代の勇者なんだ」
「……勇者は、普通の人間だったはずだ」
「ああ、普通の人間だったさ。急に祝福の光なんてものに照らされて剣もまともに握れない臆病で、寂しがりで、どうしようもない人間だった」
「それが?書物で語り継がれるくらい立派な人間になったじゃないか」
「空想のお話なんて、誰にだって書ける。カイル、その勇者じゃなくて……」
「……もういい、もう分からない。アリア、一体何が言いたいんだ?勇者は一人だし、百年以上も生きるような超人なんかじゃないだろ。
ただ、女神なんてものに勝手に使命を与えられて魔王討伐って名前のついた人殺しをするだけだ」
そう俺は言い捨てて、まとめられた鞄を背負う。
頭の中に蛆でも這っているような嫌悪感と、ぐしゃぐしゃに砕かれていく何かが渦巻き始めていた。
こんなことなら、魔王なんて倒すんじゃなかった。こんなことなら、アリアに助けられるんじゃなかった。
こんなことなら、勇者でも何でもない平民であるべきだった。

「……今度の勇者もダメだったな」
「一人くらい、分かってくれればいいのに」
焦げた臭いだけが鼻腔を燻っている。それが、ひどく苦々しい。
俺は、確かに初代の勇者だった。でも、それは不老不死の祝福呪いを同時に与えられただけの単なる導き手に過ぎなかった。
アビスも、もちろん呪いの相手だ。やりたくもない魔王を背負って勇者と魔王の対立を演じた。お互いに、いやいやながら勇者と魔王をやっていた。
他人に支えられて必死になって理想の勇者を形作って、いざ初代の魔王だったアビスに対峙した時、似ているなと思ってしまった。剣を収めて、お互いに瀕死の状態で下した決断は両方とも、「一緒に逃げないか」という奇妙で使命も忘れたようなものだった。
俺達は勇者と魔王でありながら、逃避を選択した。
そうしたら、俺らのことなんて女神はどうでもよくなったのか、次の勇者と次の魔王を選び、生み出した。
これでは女神のお人形劇に過ぎない。
「アリア、次の勇者はどんな奴だろうな」
昔と違って小さくなったアビスがそう耳元で聞く。
俺はまるで友人と話すように頬を緩ませて、曖昧な返事をした。
次の勇者が、どうか新たな魔王を殺しませんように。
次の勇者が、どうか俺達の逃避旅についてきてくれますように。
終わり、終わり。またの。 
 
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