2086年。
日本は、枯れていた。
「拝水」の時間に差し掛かり、いつもどおりに通路が騒がしくなるのを聞いて、アキラは変色した書類から顔を上げた。
家とも言えない、コンクリートの床を粗末な仕切りで仕切っただけの空間から足を踏み出す。
乾ききったコンクリートで四方を囲まれた地下空間は、普段は分厚い壁に阻まれており人の気配はあまり感じられない。正確な人数など誰も知らないが、そもそもここで暮らしている人間の数自体がそれほど多くはないのだ。
しかし、「拝水」の時間だけは、どこにこれだけの人数が住んでいたのかと不思議になるくらいの人数が続々と集まってくる。
通路――信じられないことに昔は水路だったらしい――を進んでいく列の中に、アキラも同じように混じって歩いていく。
列が向かうのは「神像」のもとだ。この地下空間に人間が生活できる環境を与えてくれている、神のもとへと粛々と歩みを進めている人々の姿は、神に祈りを捧げるために列をなす信者たちのようだ。
いや、実際に彼らは神に祈りを捧げるために列をなしている信者だ。神に名はなく、その教えにもまた名はない。信者を教え導く教祖もいない。そもそもこの宗教に――「これ」を宗教と呼ぶならばだが――名前はないのだ。
「神像」は、等間隔に巨大なコンクリートの柱が設置された空間にあった。それは、整然と積み上げられた四角い箱の形をした機械だ。それぞれ大きさが異なる箱が積み上げられて形をなしたその「神像」は、投光器の光を受けてぼんやりと異貌の人面のように見える。そしてその顔面からは、この地下空間で人々が生活するのに欠かせない冷風が流れている。
顔面からは、冷風とともにこの地下世界で暮らす人々がなによりも求めているものが流れ出していた。
水、である。
「神像」は、そのそこかしこから水を流していた。その姿は、この地下世界での過酷な暮らしを嘆いているかのようだ。
希少な水資源をこうしてもたらしてくれる「神像」が、地下世界に暮らす人々の生活拠点となり、そして信仰対象となったのはいつ頃なのか、正確に知っている世代はもういない。少なくとも、アキラが物心ついたときにはすでにこの「拝水」の儀式は当たり前に行われる生活の一部だった。
「神像」の下に集った人々は、感謝の祈りとともに各々が手にした容器に流れ出る水を汲み取り、その日1日の生活の糧とするのだ。
しかし――。
それを目撃していたものがいたら、悲鳴すら上げていただろう。「神像」から流れ出た容器に満たして列から離れたアキラは……人目がないことを確認して、容器を満たしていた水を乾いた排水口に捨てた。
容器の縁から垂れる雫に、思わず喉が鳴る。自分に言い聞かせる。この水を飲んではダメだ。
この水は――父さんと母さんを殺したんだから。
「拝水」の時間で多くの人々が「神像」のもとに集まっているこの時間、アキラは人々とはまったく違う方向に足早に歩いていった。数回後ろを振り返るが、誰もが水を汲むことに夢中で彼に気づく様子はない。
アキラは通路の暗がりの中にぽっかりと空いた横穴を探し当て、そこに潜り込んだ。ネズミを追い散らしながら、壁面に塗布された蛍光塗料の矢印に従って狭苦しい横穴の中を進み、ようやく目的地にたどり着いた。
コンクリート壁に設置された観音開きの鉄扉をあらかじめ決められた順序で叩くと、鉄扉が中から開けられる。
張り巡らされた鉄パイプを無理やり切り取って確保した空間には、十数人の男女が薄暗い照明の下に集まっていた。
「書類は?」
ハンチング帽を被った壮年の男が短く問うと、アキラは懐から数枚の変色した書類を取り出した。机の上に広げられた書類に、集まった者たちの視線が集まる。