神として正しく生きていれば、人々から熱い視線を向けられることも少なくない。その意図を紐解けば、羨望であったり、親愛であったり、懇願であったりする。そしてある種の情、より詳しく言ってしまうのであれば、人間の本能に基づく性愛的な感情を含んだ目で見られることもあった。それ自体は構わないのだ。美しく、迷いがない存在は人を惹きつける。それは自然の摂理であり罪ではない。その感情をどう扱うかがその者の理性の強さを示し、表現方法に人間性が出てくるというもの。過度なものでなければいい。他人を害すものでなければ心の内側など自由にすればいいのだ。
だから、友人関係にある者から覚えのある視線を向けられたときも動揺はしなかった。いつからその感情を含むようになっていたのかは気付かなかったし、接触も以前と同じ距離感で、我々のように人間の思考のわずかな乱れを感じ取ろうとする者でなければおそらく気付かないままだっただろう。
「それでさ、ちょっといいバーを見つけたわけ。行こうよユミピコ、酒飲めるだろ?」
肯定の意で頷く。嬉しそうに笑った顔を、私は脳の奥から眺める。
よい機会だと思う。叶黎明の理性のありかたというものを探るには、これ以上の方法などないように感じた。
黎明はほどよくフォーマルな格好でカウンターに座っていた。バーはうす暗く、青く光る水槽が壁の一部にはめ込まれている。高いスツールでも持て余している脚を組み直し、黎明は隣に座るよう手で示した。場にあった服装と振る舞いができるのはさすがと言える。腰を下ろしてからバーテンダーに注文を伝え、既に隣に置いてあるグラスを見た。細長いグラスに赤く透き通る液体が満たされている。
「カシスソーダか。案外無難なものを頼んでいるな」
「カクテルでそんな変なのも無いだろ。礼二くんみたいにパラソルが欲しいなら言っておけよ」
鼻で小さく笑い、そのまま話題は村雨をはじめ、普段の友人たちとのエピソードへ移る。自然な空気だった。まるでふつうの、ただの友人といるような感覚だ。特に熱っぽい視線を感じるわけでも、粘っこい台詞が挟まるわけでもない。
笑いながら、少しだけ、残念がっていることに気付く。肩すかしのような気分だ。近頃の、特に二人きりでいるときのほうがよほど意味のある目線を寄越してきていた。それでいて待てを命じられた犬みたいに、利口な接し方をしてきていたのに。
「ユミピコ、今日はグラスあくの早いな。次なに頼む?」
つまらない。これでは理性を知ることも、私をどの程度信仰しているのかも分からない。あれだけ日頃から意味深な仕草を見せ、バーに誘い、めかし込んでいながら、こんなにも濃度の薄い会話をする。
差し出されたグラスは何杯目だったか。隙を見せれば何か動いてくるかと思ったが、ついにブランデーベースのカクテルを飲みきっても、話題は担当行員の趣味についてだった。私はその話題を知らない。興味がない。そしてそれを黎明も知っているはずだった。
「それでさ、限定のカードがその菓子のシリーズ二種類買わないと付いてこなくて、しかも絵柄が五種類あって」
「黎明」
舌が分厚くなっているような、血管の膨張した感覚がする。発音が正しかったかどうかも分からない。黎明が喋るのを止め、なに、と微笑むので、伝わってはいるのだろう。
「いつまでもそのくだらない話を続けるのなら舌を引っこ抜く」
「はは、こわ。ユミピコならほんとにしそう」
全く意に介していないくせに、黎明は肩をすくめてみせる。私はそのふるまいに心底落胆し、グラスをやや強めに置いた。
「帰る」
私もちゃんと服を考えてきた。髪の巻き方は完璧、爪も昨日塗り替えたばかりで、リップも形よく、グラスにつきにくいものを選んだ。子羊が神に想いを伝えるというのなら聞いてやろう、告解の内容によっては慈悲を与えてやってもいいと思っていたのに。
お前の視線に何も意図はなかったというのか。友愛以上のものがなくても、視線に色がついていたというのか。
スツールを下りようとした瞬間、視界が反転したような感覚に襲われてカウンターに手をついた。そして咄嗟に差し出された腕に体を支えられる。
「本当に帰るのか?」
黎明が笑っている。唇を薄く開け、八重歯と赤い腔内を見せて。腕に支えられながらスツールに座り直すと、距離は先ほどよりも近く感じる。
「一応、もう一度訊くけど。本当に帰る? ……帰れるの、って意味だけど」
「かえ……」
帰れる、に決まっている。神は酒にも強い。数杯程度で潰れることはない。ただ今日はすこし回りが早くて、頭にばかりアルコールがのぼっているだけだ。
ひとりで帰れる。ひとりで。――本当に?
顔を上げると、黎明はカウンターに片腕で頬杖をつきながらこちらを見ていた。コンタクトの入っていない素の瞳が、深い色をして光っている。私は、とっくに全身が熱くなっていることに気付く。黎明に見られた箇所からさらに温度が上がり、焼けているのではないかと思う。
「手もちょっと赤いな。ほら、オレのと比べてみなよ」
肘から先をぴったりとくっつけられる。色なんて、普段から違うだろう。私のほうが普段は色白で、今は赤みを浴びている。カウンターに接している面だけがわずかに冷たい。脈が速い、なにかがおかしい。ふつうの店、ふつうの酒、ふつうの会話で、何が罠だったのか。その笑顔か、目線か。声か。
香水の、においがする。
黎明が笑みを深くした。腕を離し、そのまま私の巻いた髪をくぐるように、耳に触れる。
香りが強くなる。くらりと甘い、どこか毒々しくて、記憶に残ってしまうような。
「かいだことはあるだろ。いつもは足首とかにつけてる。礼二くんが嫌がるから、ユミピコと二人きりのときだけ」
「今日、は」
「もう分かってるだろ。手首」
指先が冷たいのか、私が熱いだけなのか分からない。耳に触れていた手は、さらりと頬を撫で、罪深いまま離れていく。
「それから」
いつもよりフォーマルなシャツ。その襟元に、指を引っかける。ただ、それだけ。
「鎖骨にも。こっちは服の下だから、あんま分かんないと思うけど」
触れられていた耳の内側が鼓動で騒がしい。バーテンダーが振るシェイカーの音も、他の客の話し声も、聞こえているはずなのに分からなくなる。黎明の声だけ。羨望でも懇願でも純粋な恋慕でもない、理性があるからこそ狡猾さをもって向けられた感情に、絡め取られて動けなくなる。
「内側、お前だけになら見せてやってもいいよ。知りたいだろ、オレに興味津々のかみさま?」
誘惑には乗らないと思っていた。こちらから踏み込んでしまっていたのなら、手遅れになる前に引き返すしかなかったのだ。もう、それも遅い。
一人では帰れない。そう呟くと、黎明は満足げに笑った。
END